普段より早く自宅を出たので、当然、学校に着いた時間も早かった。とはいえ、もう開いているので、教室に入って自分の席に着く。……まだ誰も来ていない。
わたしはがらんとした教室を見回した。……鏡音君の席が目に入る。途端、また、昨日のことを思い出してしまった。ああもう、いい加減にしないと。鏡音君と顔をあわせる度に、赤面するわけにはいかないんだから。
鞄を開けて本を取り出して、ページを開く。チャールズ・ディケンズの『荒涼館』だ。ディケンズの書く話は理想を求めすぎだと言う人もいるけれど、わたしは彼の作品が好きだ。
「おはよう、巡音さん」
本に集中していたので、わたしは鏡音君が教室に入ってきて、わたしの席のすぐ近くに来ていたことに気がつかなかった。驚きのあまり、本を手から落としてしまう。
「……何もそんなに驚かなくても」
どうしよう、呆れられたかも。えーとえーと、こういう時は……。ちゃんと向き合わないと。
わたしは向きを変えて、正面から鏡音君に向き合った。……やっぱり恥ずかしくて、視線を上げることができない。
「ごめんなさい……それと、おはよう」
なんとか、それだけは言った。というより、それだけ言うのがやっとだったのだけれど。
「あの……巡音さん」
鏡音君は言いかけて、止めた。……どうしたんだろう。視線が上げられないので、鏡音君の表情はわからない。
「……昨日のことだけど」
そう言われて、身体が緊張で強張ってしまう。……何言われるんだろう。
「例の『好き』と『嫌いじゃない』はイコールで結べるのかって話」
え? そっち? ……わたし、一人で緊張して……何だかバカみたい。自分で自分が嫌になってくる。
「今朝姉貴にその話題振ってみたら、姉貴、それをイコールで結べはしないってさ」
鏡音君が話を始めている。……ちゃんと聞かなくちゃ。
「姉貴が言うには、『嫌いじゃない』ってのは、逃げるための言葉なんだって。好きということをごまかしたいか、好きではないけど明確に嫌いとは言いづらい時か、無関心に近い感情の時に出てくる言葉なんだって。……俺もまあ、それでなんとなく、納得はしたんだけど」
鏡音君がしてくれたその話は、不思議とわたしの胸の中ですとんと落ち着いた。確かにそういう時、わたしも「嫌いじゃない」という言葉を使ってしまう。特に、本当の気持ちを押しつぶして、好きでもないものを好きな振りをしようとする時とか。そうか……そういうことなんだ。
「鏡音君のお姉さんってすごいのね」
なんだか羨ましい。わたしには、そういう話ができる人がいないから。
じゃあ……ルカ姉さんがいつも「嫌いじゃない」という理由って何? 本音をごまかしているとは思えないから、明確に嫌いと言いづらいのか、無関心に近いのよね。……どっちだろう? なんだか、無関心に近いもののように思えてくるのだけれど……。
……もしかしたら、ルカ姉さんには「好き」っていう感情、それ自体が無いんだろうか。それは怖い考えだったけれど……納得できるような気もする。だってルカ姉さんが、何かに対して明確な好意を示したところを、わたしは見たことがない。趣味らしい趣味も無いし、友達の話も聞いたことはないし……。
でも、どうして「好き」って感情が無いの? それに……もしかしたら「嫌い」って感情も無いの?
「……ねえ、鏡音君」
「何?」
「『好き』って感情が無い人って、イメージできる?」
鏡音君は、腕を組んで考え込んだ。
「……巡音さん、学祭の舞台見たって言ってたよね。あれの最初の方に出てくるロボットみたいな感じになるんじゃない?」
最初のタイプ……確か言われたことにただ従う、感情の無い労働機械だ。粉砕機に飛び込めと言われたら、はいそうしますと言って飛び込んでしまう。ルカ姉さんは、粉砕機に飛び込んだりはしないと思いたいけれど……。
なんだか、気分が悪くなってきた。……血の繋がった姉に対して、こんなことを考えるわたしの方が、おかしいのかもしれない。
「巡音さん、大丈夫?」
「うん……平気。考えすぎて、ちょっと怖くなっただけ」
わたしは大きく息を吸って、気分を落ち着かせようとした。
「『好き』って感情が無い人は、『嫌い』って感情も無いのかな?」
「無いんじゃない? ロボット状態なのだとすればね――生きることに執着せず、楽しむことを知らず、雑草以下の存在――」
鏡音君は、舞台の台詞を口にした。雑草以下というのは、さすがにルカ姉さんに使ってはいけない言葉だけど……生きることへの執着が無いということや、楽しむことを知らないということは、当てはまるような気がしてしまう……。ハク姉さんもルカ姉さんのことを「いい子のロボット」って言ってたし。
ルカ姉さんのことをこう思うなんて、いけないことだ。でも、一度根付いた考えは頭を離れてくれそうにない。ルカ姉さんは……ロボットと一緒なんだろうか。そして、粉砕機に飛び込めと言われたら飛び込んでしまうんだろうか。
わたしが悩んでいると、ミクちゃんがやってきた。それを見た鏡音君は「あんまり悩まない方がいいと思う」と言って、自分の席へと戻って行った。……また心配をかけてしまった。自分で自分が嫌になる。
「おはよう、ミクちゃん」
「おはよう、リンちゃん。ねえ、さっきは何を話してたの?」
え、えーと……どう説明したものか……。
「もしかして昨日の話?」
ミクちゃんは興味津々といった表情で、そう訊いてきた。えーっと、昨日の話ではあるんだけれど……。説明を始めたら、ルカ姉さんのことも説明しなくちゃならなくなるだろうし……。
「鏡音君から話しかけてきたんでしょ?」
わたしが迷っていたせいか、ミクちゃんは自分からこう訊いてきた。
「そうだけど」
それはそうなので、わたしは頷いた。ミクちゃんが笑顔になる。
「ほらね。迷惑だなんて向こうは思ってないって証拠よ。そう思うのなら、リンちゃんに話しかけたりなんてしないって。リンちゃんはもっと自信を持たなくちゃ」
ミクちゃんはそう言って、わたしの肩を叩いた。確かに迷惑がられてはいないのだろうけれど……迷惑かけたり心配かけたりしているのは事実なわけで。それにしても……自信って、何の?
「わたしは、どうしたらいいんだろう……」
「どうしたらって……そんなの決まってるわ」
考え事をしていたつもりが、ついつい口に出してしまっていたらしい。ミクちゃんは、笑顔でそう言ってきた。
「えーと?」
「リンちゃんの心の望むとおりにしたらいいのよ。リンちゃんがしたいって思うことを、したらいいの」
……ミクちゃんの言いたいことがよくわからない。わたしのしたいこと……。
鏡音君にこれ以上、迷惑をかけないようになりたい。でも、これ、したいことというのとは、ちょっと違うわよね? えーと、じゃあ、役に立ちたい。……でも、鏡音君、別に何かに困っているわけじゃないし。
それ以外だと……できたら、ルカ姉さんかハク姉さんと、鏡音君とお姉さんがしているような話がしたい。でも……こんなの、どうしたらいいの?
その日の授業は、特に何事もなく終わった。そして、戻ってきたテスト――まだ全部ではないけれど――は、大体予想どおりの点数だった。用事も無いので、例によって真っ直ぐ帰宅することになる。
帰ってみると、お母さんはいなかった。居間のテーブルにメモが置いてあって「デパートまで買い物に行くことにしました。おやつはお手伝いさんに出してもらってね」と書いてある。
今がハク姉さんと話をするチャンスかも。わたしはおやつは後回しにして、二階へと上がっていった。ハク姉さんの部屋のドアを叩く。
「……誰?」
あ、良かった。今日は起きているみたい。
「リンよ」
しばらくしてから、鍵を外す音が聞こえて、ドアが開いた。
「……入んなさい」
わたしはハク姉さんの部屋に入った。相変わらず散らかっている。椅子の一つを片付けて、わたしはそこに座った。ハク姉さんはいつもどおり、ベッドに座る。髪が普段にも増してぐしゃぐしゃに見えるけど、梳かしてないんだろうか。
「あのね、ハク姉さん……この前のこと、訊きたいんだけど」
「この前って?」
「二週間前の日曜日のこと。わたしが外から帰って来たら、ハク姉さん、ひどく酔っ払ってたの」
ハク姉さんは首をかしげて少しの間考え込み、それから、ああ、と手を打った。
「あの日ね……」
「ねえ、何があったの? あんなになるまでお酒飲んだりして……わたし、すごく心配したのよ」
ハク姉さんは額に手を当てて、思案する表情になった。
「大したことじゃあ、無いのよね」
しばらくしてから、ハク姉さんはそれだけを言った。
「大したことじゃないって……」
「うん、だからね。リンがあたしの醜態を見て心配したのは、仕方ないかなってあたしも思う。でも別に、大した理由があって飲んでたわけじゃないの。ただ単にいらいらしてだけたから」
単にいらいらしてたって……鏡音君は、お酒についてなんて言ってたっけ? 確か、楽しくて飲みすぎたのなら放っておいても大丈夫だけれど、憂さ晴らしだったら良くないって、言ってたわよね。
「いらいらしてたってことは、ストレス解消のために飲んでたってこと?」
「……そうとも言うわね」
そうとしか言わないんじゃないだろうか。
「ストレスの原因は?」
「リン、あんた、何だってそんな詰問口調なのよ?」
ハク姉さんはむっとしたようだった。
「だって……心配だもの。わたしが誰なのかわからないぐらい酔ってたし、それに……あれが初めてじゃないんでしょ?」
お母さんは、一年くらい前からちょくちょくお酒が無くなると言っていた。あれだけ酔ったのも、きっと初めてじゃないはず。
「そりゃまあ、そうだけど……」
「お酒に逃げるのはやめてよ」
「わかってるわよ……それくらい。でもどうにもならないんだから、仕方ないでしょ」
わたしの言葉に、ハク姉さんは吐き捨てるような口調でそう言った。
「だからって……!」
「リン、くどい! あんたにはどうせあたしの気持ちなんかわかんないわよ!」
わたしは、ハク姉さんの部屋から追い出されてしまった。……こんなつもりじゃなかったのに。ハク姉さんとちゃんと話をしたかっただけなのに。何がいけなかったの?
自分の部屋に戻ったわたしは、制服から普段着に着替えると、ベッドに座った。
……そもそも、わたしが何かしようとすること自体が、間違っているのかもしれない。わたしがハク姉さんに対して、何ができるというの? もしかしたら、わたしの存在自体が、ハク姉さんを追い詰めているのかもしれないじゃない。
わたしはため息を一つついて、ベッドに寝転がった。天井が視界に入る。なんで、わたしはちゃんと話ができないんだろう……。
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