ある公爵の話2

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 暖炉の火を見つめながら、男は衣服を整える。
 痴態を晒した女をそのままに別の女に用意されていた葡萄酒をグラスで煽った。傍らにはゆるい巻き毛の少女がおり、抱き寄せて口付ければそれだけで少女には可愛げが戻った。
「…、…」
 男はふと微笑み、闇に包まれた地下室から地上へと繋がる階段に進む。
 少女は付いてきかけたが、その場に留まった。
 階段を上ればまだ真昼だということが知れた。蝋燭だけを明りとして密閉された地下とは違い、すべての窓を閉ざしてなお差し込む日差しに、屋敷内は明るかった。
 男は眼を眇める。
 そして、長い廊下の先に人影を見つけた。
「……」
 まっすぐに歩いてくるのは足元に長い裾が翻る、長い金髪が印象的な淑女だ。
 今日もまた、と男は淑女に向かい手を差し伸べる。
「…さぁ、おいで」
 男が呼べば淑女はわずかに微笑んだ。日光に慣れない男の眼には淑女が白い顔をしていることと、整っていること以外認識できなかった。むしろそれすらもどうでもよく、近付き腕の中に迎え入れて初めて存外に背が高いと知ったが、
「――……ッ、…!」
 男は抱き締める淑女を信じられないと見下ろす。
 鋭い痛みは淑女との間で生じ、淑女が踊るように体を離せば赤いものが見えた。
 淑女の手の中のナイフだ、血に濡れていた。そしてそれを認識すると同時に同じく男の胸から血が染み出す。
「ッ…く…ぅ、っ」
 痛みに耐え切れず前のめりになる。押さえた傷口から溢れ出した血が滴った。
 しかし苦痛に歪みながら淑女を睨めば、男が睨む以上の鋭さで睨み返されていたのだ。
「…俺の、婚約者を返してもらいにきたぞ…ッ」
 淑女は長い金髪を引き、正体を現した。
 金髪の鬘を握り締め憎悪に染まった若者の顔に、男は言葉を失くす。反論せず、胸を押さえたまま蹲った。
 立ち上がりもできない男を蔑むように見下ろし、若者はナイフを投げ捨てた。そして女装姿のまま地下室へと駆け下りていく。誰か女の愛称らしきものを連呼しているのは分かったが、地下への階段内の反響で聞き取れなかった。
「、ぅ…ぁ、ッ」
 男は自身の出血の量に笑みを零す。
 夥しいほどの量だ。美しい衣装が汚れてしまった。だがそれよりも尋常ではないのは、噴き出す汗と変色していく血の色だった。恐怖すら覚える。
 男は何とはなしに遠くに投げ捨てられた若者のナイフを見た。ナイフには男の血と、なぜか紫色の液体がこびり付いていて、
「……ふ、」
 男は苦い笑みを零した。
 毒か。
「……、…ふ、ふふ」
 男は床に突っ伏しながら、苦く苦く笑いながら、眼だけを動かして若者が入ってきた入口の方を見る。
 外に、何があるわけではない。だが最後くらい忌避していた日の光が見たくなった。
 昔から、外の世界と触れるのは嫌いだった。しかしでは室内なら幸せだたったかといえば、そうでもない。親からも使用人からも疎まれて育った。
「く、…ふふ…、ふ」
 傷口は尋常ではなく痛み、男は笑うことで悲鳴を堪える。
 それでも、胸が痛むのには慣れていた。
 死ぬのもさほど厭ではない。昔からずっと醜い自分から、解放されたかった。
 だが、侮蔑の眼に囲まれていた過去の忌まわしい記憶の中で、唯一の例外がある。
 一人の娘だ。
 あの娘だけが、幼い男を傷付けなかった。指差し笑う大勢の中で、醜い顔を両手で覆う男を娘は悲しそうに見ていた。憐憫の眼ではなく、一度は手まで差し伸べてくれた。
 だから、もう一度会いたかった。
 人間ではない顔を得てから男は今までであれば己に見向きもしなかったであろう気位の高い女や美しい女を抱いた。しかしそれらは一時の情欲で、重ねていけばすぐに飽きた。
 美貌に吸い寄せられてくる女を繰り返し見て最後に残ったのは、男が本当に求めたのは、あの娘との再会だった。
 思えばせせら笑われるだけの舞踏会も、娘がいる時はいつもよりも辛くなかったのだ。あの娘がいれば、周囲もきまり悪そうに手を弛めたような気さえする。
 娘はそれほどに澄んだ眼をしていた。
 青い、とても青く美しい眼でまっすぐに幼い男を見つめてきていて、その穢れのなさに、
『――……そら、こうなった』
 唐突に、過去を夢見ていた男の目の前に、笑みを含んだ声が降り立った。
 宙から現れ、音もなく足が男の顔の前に立つ。男と同じ姿形をしている「それ」は、しかし顔だけが違っていた。
 男が忘れたいと思っている醜い顔をして、血と汗を流す男を嘲笑う。
 男は苦痛に震えながら「それ」を見上げた。
「……あ、くま…」
 男が声を絞り出すと悪魔は笑い、なぜか床を指差した。意味ありげな仕草に男がそちらを見ようとした瞬間、
「ッ…!?」
 背後から大勢の足音が聞こえてきた。
 悪魔は見られることを厭うように姿を掻き消した。だが、それらは悪魔どころか倒れ伏した男すら構うことなく、外へと向かって走って行った。猛獣に追い立てられる草食動物のように、女たちは足音を高く響かせ、一様に屋敷から逃げ出していく。
 男は茫然とした。
 たくさんの白い足が交差し、長い裾が蹴られて舞い上がる。さまざまな長さの髪が翻り、香水の残り香さえないほどの勢いで走り、どんどんと足音は遠ざかる。途中で何かが落ちたのか落ちていたのか、蹴られた音がしたが、女たちはそれすらにも構いはしなかった。
 男には、侮蔑の眼さえ向けられなかった。
 そして静寂だけが訪れる。
「……、」
 男は女が蹴っていたものの放つ光に、気付いた。
 そしてそれが悪魔が指差していたものだとなぜか分かった。しかも皮肉にもそれは少し這えば手に届く距離にあって、男は惹かれるまま傷口を広げる。
「っ…、…っ…」
 男が這うほど、床に引き摺ったような血痕が伸びる。
 男は血塗れの衣装をさらに埃まみれにして、それを掴んだ。
 最初は、ただの首飾りだと思った。だが、指が留め金にかかった瞬間、飾られた蓋が開く。
 中には、小さな肖像画がはめ込まれていた。
「、」
 男は眼を疑う。もうすべて燃やし尽くしたと思っていた肖像画だった。持ち得る者がいると聞けば女たちに頼んでまでして処分した。幼い頃の、男の肖像画なのだ。
 それをあの悪魔は、死ぬ寸前にいらぬと返してくれるらしい。
「――…」
「ッ……―ッ!!」
 もはや誰もいなくなったはずの地下から、男を刺した若者の声が響く。
 男は、若者が叫ぶように呼んでいるのが名前の愛称だと理解した。それがくしくも、己の幼名の愛称と同じで、打ち捨てられて死ぬ己が身を鑑みて、やるせなさに眉を引き絞る。
 そして苦悶の表情で、首飾りを掌の中に隠すように握り込んだ。
「――ッヴェノマニア公ッ!!」
 地下から駆け上がってきて、若者は男の頭の横に立った。
 若者は息を乱しながら男を見下ろし、焦燥を押し殺したような声で語りかけてくる。
「ッヴェノマニア公!っ、っこの屋敷に、女の子がいただろう…っ!?綺麗な髪の、菫色の眼をした…っ!」
 男は若者の声を聞きながら、べっとりと血濡れた掌の隙間からさらに熱い液体が溢れ出るのを見ていた。出血に比例して体温が失われ始めており、しかしそれを甘受して横たわる。若者を一瞥もしない。
 だが若者も男の様子になど構わず、辛そうに、泣きそうに言った。
「――…昔、あの子を助けられなかったから…今度こそはと思ったのに…」
 男はその若者の言葉に、わずかに目を開ける。
 そして、ぼんやりとした疑問を若者に問い返した。
「……お前は、…さ、きほど、…恋人…だと」
「ッ、幼い頃に誓い合ったんだ。自分の顔が好きではないようで…でも、優しい子だった。正当なこの屋敷の跡取りだったはずだ、それがどこにも…っ、お前が、…――殺したんだな?」
 憤りと悲しみに満ちた怨訴の声に、男は最初は怪訝な表情を浮かべていた。しかし若者の言葉が進むにつれてそれが意味することに気付き、大きく眼を見開いていく。
 男は若者の容姿を改めて見つめる。
 女装しても醜くは見えない、整った顔だ。そして、凶暴な光が滾ってはいるが、印象的な青い目をしている。
「、…ッ」
 若者の正体を理解した途端、男は手に握り隠した首飾りが重く感じた。
 そしてその中にある肖像画が悪魔の悪意じみた慈悲でも何でもなかったことに気付かされ、運命の皮肉を悟った。
 男は瞠目する。
 自然と深い溜め息が漏れ、そして、口端を吊り上げた。
「……あぁ、そうだ」
 答えた後、男は首飾りを隠す手の甲に何かを感じた。
 重い体を駆使して首をもたげる。手の甲は水滴のようなもので濡れていた。さらに、それは続く。その水滴の軌道の先を見上げれば、若者が眼を赤く潤ませている。
 そこから、続けて涙が零れ落ちてくる。
「…っ、俺は…あの子を助けた後、お前を殺した罪を、っ…購うつもりだった」
 若者は泣きながら噛み切るほどに唇を噛んだ。
 さらに男を刺した時の狂気じみた表情とはかけ離れた誠実な物言いをし、男はせせら笑うように鼻を鳴らした。
「…ふ…この血の色が見えないか?僕は悪魔だ…お前が立ち去れば、ここも焼き払うさ」
「ッ」
 男が血塗れの手を見せれば、若者は鼻白んだようにわずかに目を見開き、後ずさった。
 男の手には毒で腐食した血が紫色に光る。濡らしているだけの掌すら痛むような毒性の強さに、見せつけておきながら男も内心では驚嘆していた。
 しかし、若者は気丈に笑む男を恐れるように後ずさる。
「――ッ…隣国から、駆け付けて…この結末か」
 若者は嘆きながら顔を手で覆う。よろけるように踵を返し、出口へと歩き出した。
 足取りは重い。力なく遠ざかる若者の後ろ姿を、男は最後まで眼で追った。
 若者は動揺しながらも、美しい足運びをしていた。出会い頭に高貴な生まれだと気付かない方がおかしいほどの身のこなしだった。
 だが、若者は無作法にも道すがらに廊下を照らしていた燭台を手に取っていた。
 そして屋敷を出る一瞬だけ男を見て、
「――……滅びろ、悪魔め」
 若者の手が傾き、燭台が床に落とされる。
 続いて重厚な扉が音を立てて閉ざされ、しばらくして絨毯が焼け始める音が聞こえ始めた。
「……ふ、くく」
 男は痛む傷口を押さえて笑った。
 笑ったせいでなお痛む。だが、笑いたかった。おかしかったのだ。
 あの場に立って周囲に迎合せずにいられる身分、それに相応しい凛とした態度。確かに、幼馴染みの巻き毛の少女は男が求めた答えを持っていないはずだ。
「は、は…は、っ……やっと会えた…」
 男は泣き声で笑う。
 幼かったあの時、差し伸べられた汚れのない手にすら怯えた。互いに性別を違えていたのは、おそらく若者があまりに清らかすぎたせいと、男が頼りなく虐められていたせいだろうか。
 だが、
「……あぁ、でも、…悔しいな…、…」
 男は冷たくなる四肢を投げ出し、頭を床に横たえる。
 若者が立ち去った扉を見つめて、血塗れになりながら透明の涙を静かに流して、
「……――…まだ君に、好きだと言っていない……」
 微笑む。
 屋敷は間もなく、炎に包まれた。


『――……醜い男だ』
 悪魔は、そう言って囁きかけてきた。
 悪魔は男と同じ髪の色、眼の色をしながら、美しい顔をしていた。
『人々に侮辱されるのが堪らない。少しばかり賢いばかりに、見下される容姿を備えて生まれた事が矜持が軋む、という顔だ』
 悪魔の言葉に男は笑った。
 すると悪魔も同じように嘲るような笑みを浮かべ、
『浅はかな、だがそのお前の愚かさが悪魔たる私には好ましい。のぅ、お前の本当に欲しいものと引き換えに、この顔と取り替えてやろうか?』
 男は、悪魔が称えた矜持にかけて、卑屈な態度は示さなかった。
 だが悪魔は了解したという表情で己の顔を仮面のように簡単に剥ぎ取り、男の顔を逆の手で掴む。
 悪魔の手も、交換するように押し付けられた悪魔の顔も、ひどく冷えていた。
『喜べ、悪魔の顔だ。この顔を見たすべての女は、この顔に魅了され、堕ちていく。嘆け』
 正反対のことを言う悪魔に、男は笑った。
 しかしその時には悪魔はもう醜い顔をしていた。
 なるほど、己の不幸ばかりを嘆いていればこうなるのだろう醜さだ。男は悪魔のものになった過去の己の顔に耐えられず、顔を背けた。
 それを見て、悪魔は笑った。
『お前の顔は美しい』


終り
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「ヴェノマニア公の狂気」
作詞:悪ノP
作曲:悪ノP
編曲:悪ノP
唄:神威がくぽ
コーラス:巡音ルカ・初音ミク・GUMI・MEIKO・KAITO・KAIKO

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

ある公爵の話2

閲覧数:604

投稿日:2011/02/27 19:23:42

文字数:5,356文字

カテゴリ:小説

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