その日、ミクは買い物に出かけていた。
最近は少し寒くなってきたし、夕飯はお鍋にでもしようかと思っていた。
「マスター、帰りましたー」
玄関で靴を脱ぎながら、ミクは声を上げる。しかし、返答はない。
「マスター?」
ミクと一緒に煙草を買いに行くと言ってマスターは家を出た。煙草を買うだけなら、ミクより早く家についているはずだ。
キョロキョロとあたりを見回す。台所にも、ベランダにも、寝室にもマスターはいない。
ふとリビングに戻ったミクは、留守電が入っていることに気がついた。
「メッセージ ハ 1ケン デス」
無機質な声の後に、ピーという電子音。
『あ、もしもし。○○病院の者ですが……ご家族の方でしたら、すぐに病院に来てください』
それは多分、看護婦の声で。心なしか急いでいるように聞こえた。
――マスターが病院にいる
少なすぎる情報。でも、そのことだけは分かった。
そして今のミクを動かす理由としては、十分すぎるものだった。
家の鍵を閉めるのすら忘れ、ミクは走った。
走っている間、何故マスターの実家ではなくミクたちが住んでいる家に電話がきたのかと考えた。確かに同居人に伝えるのも大事だが、それより先に親に伝えるのが当然だろう。
そう考えたミクは、マスターの両親が事故死していることを思い出した。
親の話をしたときに、6歳の頃に死んだと言っていた。おかげで顔もうまく思い出せないよ、とも。
「あの……杵島さんは……」
病院についたミクは、その辺にいた看護婦に息を切らせながらマスターの名を言った。
看護婦は一瞬ハテナマークを浮かべてから、ちょっと待って下さいと言ってその場を離れた。
数分後。ミクが近くにあった椅子に座っていると、1人の看護婦がやってきた。
「あなたは杵島さんの……?」
若い看護婦。杵島とミクがどういう関係なのか聞きたいのだろう。
「私は……」
口から出そうだった言葉は、喉の奥深くに突き刺さった。
ミクは作られた存在。マスターに買われた存在。
――私はマスターにとってどんな存在なのだろう
それが分からなかった。でも。
「私は、杵島の娘です」
マスターがどう思っているか、なんてわからない。
でも私は、マスターを家族だと思っている。
突き刺さった言葉を自分の力で引き抜き音として外に出したミクの答えは、それだった。
「そうですか。では、こちらへ」
看護婦が歩きだす。その後ろを、ミクはついていく。
この病院には何度か来たことがある。といってもミクに病気のデータは入っていないし、ケガも家庭でのメンテナンスで直る。ここに来たのは、マスターが何かの病気にかかった時だ。
そしてマスターは何度か入院している。病室が集まっている病棟を、ミクは知っている。
今看護婦が向かっているのは、病室がある方向とは違っていた。
「あの……」
ミクは看護婦に問う。看護婦からの返答はなかった。
見なれない部屋が並び、心なしか少し暗い病棟。いつの間にか、外は夜へと移り変わっていた。
「こちらへ……」
あたりを見回していたミクの前で不意に看護婦が立ち止まり、1つのドアを開けた。目でミクへ中に入るように促している。
ミクはよく分からず、とりあえず室内へ入る。
室内にはベットが1つ。そのベットでは、白い布を顔にかぶせた男性が眠っていた。
「杵島さん、先ほど息を引き取られました……」
ドアを開けたまま部屋の入り口で立っていた看護婦が、消えそうな声で言う。
ミクは振り返り、看護婦を見る。看護婦は下を向いてしまう。
一歩踏み出し、ミクは震える手で白い布を取る。
そこには、見慣れたマスターの顔があった。今にも目を開けて「ミク」と呼んでくれそうなマスターの顔が。
ミクの目に溜まっていた涙は限界を超え、頬を伝う。
「マス……ター……」
これは、歌うことも消えることも許されない、ある機械の物語。
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