11.
『市長、転落死!』
女はニヤニヤと笑みを浮かべながら、そんな見出しの新聞を広げている。
場所は富裕層の住む二番地区の端の端、三番地区との境界に建つ、二番地区にしては小ぢんまりした邸宅の執務室だった。
執務室のデスクに敷かれた厚手の絨毯、自己主張は控えめだが優雅な彫刻品の数々。建物の規模は小さいが、室内の調度品は恐ろしく高価な物ばかりだった。
女にはその真贋は分からない。基本的には先代の趣味によるものだった。
邸宅が小さいのは、単純に住まう人数が少ないから必要以上に大きな建物を建てなかった先代の意思による。女自身も少年と執事以外を住まわせるつもりもないので、これ以上の広さを必要としていなかった。
女は椅子を無視して、高価なデスクに腰かけて足をプラプラとさせている。
「転落死だって、スコット? まあ間違っちゃいねーがよ」
「あそこにいたのは卿の他には私とヨハン、そしてエコーだけです。卿がいたことを知るのも、受付のスージー・テイラーだけ。真実が露見することは有りません」
執務室の出入口近くで直立不動の姿勢をとっている警官の男は、今は制服ではなく私服だった。しかし、オックスフォードシャツにブラウンのジャケットを羽織っている姿は、休日の男性というよりはオフィスワーカーのように見える。
「そりゃ、どうかねぇ」
「……? 露見して欲しいのですか?」
「そーゆー訳じゃねーけどよ。簡単すぎてつまんねーなと思って」
「卿が用意周到だったからこそです」
「はいはい。周りはバカばっかだったってこった」
女がうんざりしている事に気付きもせず、男はまた女を誉めようとする。
「卿が――」
じりりりり、と耳障りな電話のベルが二人の会話を断ち切る。
女は受話器を取ると、肩と耳に挟んで話し始める。
「へーい。こちらニードルスピア宅。残念ですが主人は外出しておりまして――」
『――本人が出といて何言ってんだい』
受話器の向こうからは芯のしっかりした女性の声。女は少しだけ楽しそうな顔をする。
「んだよ。エドの姉御じゃねーか。どしたい」
『飛行船への仕込みが完了した、とディミトリに伝えようと思ったんだけどね。まさかアンタが直接電話に出るとは思わなかったよ』
「おーおーおー。その連絡を待ってたぜ。ようやくメインディッシュにありつけるってワケだ」
『アレ……まさか、本当に使う気じゃないだろうね?』
「あん? どういう意味だよ」
女の声音が急に下がる。
『……』
「レオナルド・アロンソの時だって、アンタらの手下どもは結構参加してただろ。オレが関与する前のスパイカーズどもにゃ捕まったヤツだっている。その上でそんなこと聞くのかい? 今のアンタにゃスパイカーズ全てを抑えらんねーだろ」
『……。ふー。その通りだよ。規模がでかくなりすぎて、もう下っ端どもまでアタシの管理が行き届いちゃいない。アタシじゃ次の混乱は止められない。……だからアンタに聞いてるんだよ、マム』
「本当にオレにそれをさせたくないんだったら、オレの指示なんか無視すりゃよかったんだ。そうすりゃ、オレがやりたくても実行出来ねぇ」
『それは……』
「クク……義理堅ぇこったな。だからオレは姉御が好きなんだよ」
女がちらりと警官を見る。
彼はどこか困惑しながらも、女の電話に邪魔をしないよう静かに立っている。
『まあ……それは聞いてもムダだと思ってたとこさね。だけど、言っとくよ。アンタが本当に事を起こそうとするなら……アンタに協力できるのはここまでだ。どうせアタシがそう言うのも分かってたんだろ?』
女は自らの手の甲に印された模様を眺めながら、小さく微笑む。
「……まあな。ちっと寂しいが、仕方がねぇ」
『仇討ちにしちゃ……アンタのやろうとしてる事は、ちょいと大袈裟すぎんじゃないかい?』
「なことねーよ。これでも控えめな方だろ」
『……そうかい。大した女だよ、アンタは。マム、アンタの行動開始と共に、アタシら――スパイカーズの初期メンバーはアンタの管理下を離れる。アタシは……アタシらは所詮“スパイク”だ。針ほど細く、鋭くもない。五寸釘は太くて頑丈じゃあるが……それだけだ。アンタほど大それたことができるワケじゃない』
「……承知した。健闘を祈る」
『すまないね。あと……これは“姉御”からの余計なお節介だ』
「あん?」
『最近、あの警官を囲ってんだろ?』
「おーいおい。人聞きのワリィ言い方だな。有能な人間は少ねーんだ。仕方ねぇだろ」
『アイツは止めとけ』
「いやだから――」
『アイツはアンタの仇討ちの全貌を理解したら、敵になるよ』
受話器越しの声は、やけに低く響いた。
「……わかってるよ。ンなこたぁ……初めっからな」
『わかってて……傍に置いてンのかい』
「ああ、そうだ。アイツは保険だからな」
『保険……? ま、アンタの事だ。聞いても答えるつもりなんて無いんだろうけどね』
「よく分かってンじゃねーか」
『……』
「……」
『ふー。……リン・ニードルスピア男爵。アンタ本当は……いや、これ以上のお節介は……野暮ってもんだね』
「……わかりゃいーんだ。……エドの姉御。ありがとな」
お互いが、言おうとしていた事は全て、相手が既に承知の上だと理解していた。
『止めとくれ。アタシも歳とってから涙もろくなったんだ。……ったく。今生の別れは……嫌なもんだよ』
「へへ。じゃーな」
軽い言葉で、女は受話器を下ろす。
女は少し肩を落とし、長く息を吐いた。
「卿。エドワード氏は……」
「ああ。オレの元を離れる」
「それは……」
警官は困惑しながらも、どこか胸を撫で下ろしているように見えた。
「何度でも言うぜ、スコット。アンタは生真面目すぎるし、オレを過大評価しすぎだ」
「申し訳――」
「――だぁーからよ」
女はとん、とデスクから降り、警官の顔を覗き込んで胸元をとん、と叩く。
そういう態度が“生真面目すぎる”のだと言われているとようやく伝わったのか、警官は視線を伏せる。
女は警官を通りすぎ、執務室の外へ。
警官もその後をついていく。
「で――ジョシュ・アイゼンバーグはどうしたんだい?」
「彼は……私に全てを話しました」
「それで?」
「あとは……トンプソンとジェファーソンに任せました」
それ以外、何を言えばいいか分からないといった様子だった。その口調はまるで罪を懺悔するかのような重たい口ぶりで、女は思わずため息をつく。
「ンだよ。黒幕だった市長は死んだ。父親に毒を盛ったジョシュにも罪を償わせた。スカッとしなかったのか?」
警官は思い出したくないものを思い出したらしく、顔を青くする。
「恨んでいました。復讐してやろうとも思っていました。しかしそれでもなお、あれは……あんなに惨い拷問は、見たことがありません。恥ずかしながら、私は……吐くのを堪えるだけで精一杯だったのです」
「ま、初めは誰でもそんなもんさ」
女は軽い調子でぽんぽんと警官の肩を叩き、廊下を抜けて階段へ。
「出っかけっるぜぇー」
階段を駆け降りながら、女は声をあげる。
その声を聞いて、下階の居間から執事と少年が現れる。
「箸休めは終わりだ。こっからがメインディッシュだぜ」
「承知しました。では正面に車を回して参ります」
女の言葉がどういう意味か心得ていたのは執事だけのようだ。スッと車を出しに行った執事とは違い、少年とまだ階段上にいる警官は、何事か分からずポカンとしている。
女は玄関に掛けていたジャケットを羽織り、くるくると踊る。いつもきっちりと結い上げて留めている銀髪は、今は下ろしている。廻る女に合わせて長い銀髪がふわりと弧を描いて広がり、その中心では黄金の瞳が爛々と輝いている。
「マ……マム。いったい何が……」
ここまで――市長の時よりも――ご機嫌な女を見たのは、少年にも初めての事だった。少年の態度には驚きや期待よりも、明らかに怯えが勝っているように見える。
「決まってンだろ。メインディッシュだよ! 何もかも滅茶苦茶にして、それでエンドゲームさ!」
少年は、階段を降りてきた警官と不安そうに目を見合わせる。
「いったい何が……」
「ヨハン、私にも何がなんだか。ですが、どうやら何かの準備が整った、とスパイカーズから連絡があったようです。そしてそれと同時に、スパイカーズは卿の元から離れる、と」
「なんですって?」
警官の言葉に、少年は目を細める。これから起こる事がただならぬ事態だと確信したようだ。
顔を険しくする二人の事など気にも留めず、車の音に女が玄関から外に出る。執事がちょうど車を車庫から出したところで、彼はそのまま車寄せに回してきっちり正確に玄関扉の正面に停車する。
「ほら、テメーら。行っくぜー」
女は自ら扉を開け、後部座席に乗り込む。
呼ばれた二人は慌てて邸宅から出て、少年は後部座席の女の隣へ、警官は助手席に乗り込んだ。
全員が乗車したのを確認すると、執事は緩やかな加速で敷地の外へと車を出す。
女は何も言わないが、執事は行き先を承知しているらしく、目的を持って何処かへ向かっている。
今のところ、車は二番地区の街路樹に囲まれた優雅で広い道路を走っている。二番地区を突っ切って一番地区を目指しているようだった。という事は、行き先は一番地区の高層ビル群か、湾岸部の五番地区だ。運河を渡る方向ではないため、少なくとも西側の七番地区と八番地区ではない。スラム街は目的地ではないのだ。
二番地区の道路は人通りが少なく、車もそれほど走っているわけではない。
元々富裕層しかいないということもあり、この辺りを通行するのも高級車ばかりだった。
二番地区の道路で大衆車を見ることはほとんどない。どこかの従者の個人的な車であればたまに見かける、という程度だ。
三番地区や四番地区の車が二番地区に紛れ込むことがないのは、道路が意図的にそう敷設されているからだ。
運河沿いに三番地区や四番地区から一番地区や湾岸部に続く、常に大渋滞をしている幹線道路があるが、それを使わずに三番地区から二番地区へと直接行き来できるような抜け道は存在しない。
三番地区以北の一般市民は、治安の悪い都市鉄道を使うか、渋滞を覚悟して幹線道路を使うか、危険と遠回りを承知で運河の西側を回るかしなければ仕事場に向かうことができず、交通の便は非常に悪い。
対して、富裕層は二番地区から直接一番地区の高層ビル街へ向かう事が出来る。
それは、富裕層と一般市民とを分ける最もはっきりした差とも言えた。
歩道の街路樹は青々とした葉をつけているが、実際には二、三年で枯れてしまい、都度植え替えを繰り返している。十数年前に現れた環境活動家なる人物はこれも環境破壊の結果の一端なのだと演説をしていたが、彼がいなくなってから、この事に疑問を抱く者はいない。
やがて黒塗りの高級車は住宅街を抜け、高層ビル群へと近付く。
高層ビル群の合間には、未だ飛行船が遊覧していた。
「おー。アレだアレ。アイツを見たかったんだよ」
女が後部座席の窓を開け、身を乗り出さんばかりに飛行船に見いる。
飛行船はいつもと違い、特別に黒い布に覆われていた。市長の“不慮の事故”から数日、喪に服しているのだ。そのせいもあり、これまで常々流されていた放送も自粛している。
一番地区はここ数年で最も静かな日々を過ごしていた。
「ディミトリ。通信は?」
「もう少し近づきませんと。ですが……まもなく通信可能となります」
「卿。何の話をしているのですか?」
どこか怯えながらそう問う警官。
「まーまー。もー少しでいーもん見れっからよ。それまでのお楽しみだ」
腕を伸ばし、手の甲の真紅の模様を眩しそうに眺める。
「……長かった。やっとだよ。アレックス……」
瞳を閉じ、感慨深そうに呟く女。
車内の誰も、女に言葉をかけられなかった。少年と警官は、不安に唇を引き結んで、遠くを遊覧する漆黒をまとった飛行船を見上げる。
「ミセス。通信圏内に入りました」
「よっしゃ。スイッチをくれ」
「……ミスター・ギレンホール。この手元のスイッチをミセスに」
執事がダッシュボードを開けて、拳銃から銃身を取り払ったような、握りしかない奇妙な物を助手席の警官に見せる。握りには引き金が付いており、さらにその先端、親指の位置にはあからさまな赤いボタンがついていた。
「これは……?」
警官が取り出すと、ボタンの逆側からは太いケーブルが伸びていて、車に繋がっているようだった。
「ほら、スコット。早くくれよ」
嬉々として手を伸ばしてくる女とは対照的に、警官はそれが何か感づいたらしく、顔を青くする。
「しかし、これは――」
「――スコーット。早くしな。そう何度も言わねーぞ?」
「……」
警官が躊躇っているうちに、女が後部座席から身を乗り出し、警官の手からそれを引ったくる。
「卿、それは――」
「マム! 止めてください!」
何かを察した警官と少年が必死の形相で止めようとするのを見て、女は狂気に染まったかのような、陰惨な笑みを浮かべる。
「このために十年以上掛けたんだぜ? 何で今さらやめなきゃなんねーのさ」
そう言って女はためらいなくスイッチを押した。
「……」
「……」
少年と警官はとっさに耳を押さえて身体を丸くするが、この場で何か起きた様子は無い。
「……?」
不審に思った警官が顔をあげて外を見てみると、飛行船が煙を上げ、ゆっくりと近くのビルに激突する光景が目に飛び込んできた。
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