18.(perhaps……)
 わたしは紅茶の載ったトレーを左手に、右手で執務室の扉をそっと開けて、部屋の中に入る。
「失礼……します」
「ん? ああ、リンか。すまんな」
 マスターは執務室のデスクで書類をにらみつけながら、頭をかりかりと掻いている。
 わたしはトレーをデスクの端に置いて、マスターの手もとにカップを置く。それからポットの中身をカップに注いだ。
「また……大変なお仕事をお請けになったのですか?」
「そーゆー言い方はよぉ。……いやまあ、そのとーりだけどよ」
「根を詰めるのもいいですけれど、また寝ずに数日仕事するなんてことの無いようにしてくださいね?」
「おいおい。まるで嫁みたいなこと言い出したな」
 鼻で笑うマスターに、わたしは両手を腰に当ててぷうっとほほをふくらませる。
「マスターがそんなことばっかりしてたら、わたしがディミトリに怒られちゃいます」
「はあ? なんでディミトリに?」
「ディミトリに言われました! 『アレックス様の体調管理は貴女の仕事ですからね』って。だからわたしの目が黒いうちは絶対に夜更かしなんてさせませんからね!」
「嫁じゃなくて母親かな……」
 マスターは苦笑して紅茶に角砂糖を一ついれると、カップに口をつける。
「夜遅くに仕事してるのを見つけたら、書類はみーんな紙飛行機にしてやるんですから」
 鼻息あらくそう宣言すると、マスターは両手をあげて降参のポーズをとる。
「オーライ、オーライ。承知しました、小さい母さんよ。だけど、書類を台無しにすんのは無しだ」
「そんなこと知りませーん。だってマスター、油断したらすぐわたしのこと丸め込んで自分の都合のいいように話を持っていくんですから」
「だってしょーがねーだろー? やんなきゃいけねーもんはやんなきゃいけねーんだよ」
「わたしは学びました。お話しが得意なマスターとお話しで勝負してはいけないんです」
「後ろ向き過ぎンだろ、それは」
 マスターが呆れ顔になるけど、そんなこと気にしていられない。
「もっと大人になってマスターを言い負かせられるようになったら、そうします。それまでは、紙飛行機にするか、マスターを寝室までひっぱっていくかです」
「はいはい。でも目が覚めて眠れなかったらどうすんだ?」
 マスターがまたわたしを丸め込もうとしてくる。
 ふんだ。わたしは負けない。
「そのときは……わたしが子守唄をうたってあげます」
「んん?」
「それでもダメなら……絵本も読んで差し上げます」
「……枕元でか?」
「もちろんです!」
「……お、おう」
 あとは……寝るときにすることと言えばなんだろう?
 なんでもいい。マスターに負けないようにしないといけないんだから。
「ええと……それから……添い寝もして上げますし、おやすみのキスだってします!」
 わたしはぐっと拳をつくってそう言いきる。
「……」
「……?」
 気づくと、マスターは書類を手にしたままぽかんとわたしを見てきていた。
「リン」
「は、はい?」
 なにか変なことを言っただろうか、わたし。
「なにを……してくれるって?」
「だからさっき言ったじゃないですか。子守唄をうたって、絵本を読んで、それから……」
 ……あ。
 ……あぁ。
 ああああ!
「おう。それから?」
「それ、から……」
 思い出して硬直するわたしを見て、マスターはにやにや笑っている。
「リンはオレに何してくれんだったか?」
 ……ダメだ。
 わたしもこうなったら腹をくくらないといけない。
 言ったからには後戻りなんてできない。
 けど。
 ……あああうあう。
 わたしはなんてことを口走っちゃったんだろう。
「い、言った通りです! そ、そそ添い寝でもおやすみのき、ききき……キス、だって……」
「ぶっははは! あっははははは!」
 恥ずかしくなって言いよどむわたしを見て、マスターが大声をあげて笑う。
 ひどい。
「ううう」
「カカカカカッ! あーっはっはっはっ。ひーおっかしいなぁ」
 マスターはそれはもう長々とわたしのことを笑って、落ち着くために紅茶を飲み干した。
「そんなに……笑わなくたって……」
「ワリィワリィ。でも、おめーがとんでもねーこと言い出すからよぉ……ぷぷぷ」
「……。マスターなんて、もう……知りません」
 わたしは恥ずかしいのを通り越して……なんだかもう泣きたくなってきていた。
「……」
 わたしはカップにもう一杯紅茶を注ぐと、ポットをトレーに載せて執務室から出る。
「なあ、リン――」
 扉を閉める前に振り返ってお辞儀をするけれど、なんだかみじめな気持ちで、マスターの顔を見ることなんてできなかった。
 とぼとぼと階段を降りて、キッチンにトレーを置く。
 ポットに残った紅茶をキッチンにある適当なカップに注いで、角砂糖を三つ入れてまぜる。
「……」
 カップを手に取ることもできなくて、その場にうずくまってしまう。
 ……わかってる。
 マスターは悪くない。
 わたしが先走って、やり過ぎただけ。わたしの失敗。
 だから――。
 コンコン、とキッチンの扉がノックされて、わたしはとっさに立ち上がる。
「はい。あ――」
「――よ。あー、ちょっとだけ、いいか?」
 そこにはマスターが立っていた。
「……なんでしょうか」
 わたしはうつむいて、マスターを直視できない。
「仲直り、しよーと思ってさ」
「……。先ほどは無礼な立ち居振舞いをしてしまい、申し訳ありませんでした」
 わたしがそう言って頭を下げると、マスターはあわてて近づいてくる。
「おいおいおい、違うって。リン。お前が謝ることなんかねーんだよ。オレが――」
「――いいえ。わたしが悪いんです。わたしがあんなこと言ってしまったから……」
 落とした視線の先に、マスターの脚が見える。怖くて顔はあげられなかった。
「……リン」
 マスターのささやくような声音は、今まで聞いたことのない優しさに満ちていた。
 わたしの頭にポンと手をおいて、なでてくれたかと思うと、わたしを抱えあげて抱き締めてくる。
「ま、マスター!」
「リン。からかってごめんな。オレはどうもやり過ぎちまうみてーでな」
 マスターが今までで一番近くにいて、耳元でささやかれるのは、ちょっと心臓に悪い。
 もちろん嫌ではないけれど……どきどきしすぎて緊張してしまう。
「い……いえ、それはわたしが――」
「――リンが耐えたり我慢したりするこたねーんだよ。リンが平気なフリなんてしてみろ。オレはたぶん……もっと調子にのって、もっとやり過ぎちまうだろ」
「それは……」
 失礼かもしれないけれど……マスターなら確かにやりかねない。
「だから、嫌なときはちゃんと嫌だ、って言ってくれた方がいい」
「わかりました」
 マスターはわたしの背中をポンポンと叩いて、わたしをおろした。
 恥ずかしくてうつむくわたしを、マスターはまじまじと見つめてくる。
 ……やめて欲しい。
「リン、顔が真っ赤だぞ」
「ま、マスターが急に……こんなことするから、です」
「嫌だったか?」
「嫌では……ないです。でも、こうやって子ども扱いされるのは……」
「リンはまだまだ子供なんだからいーんだよ。大人になったら、自然と大人扱いされるようになるさ」
「それは……そうかもしれませんが」
 でも、恥ずかしい。
 そう言いはしなかったけど、マスターが嬉しそうに笑ったのを見て、なんとなく伝わったんだろうなと思う。
「シシシ。子供の内は、子供でいろよ。大人にゃその内なれるけど、大人になったら子供にゃ戻れねーしな。……よし。リンにはちょっといいものをやろう」
「いいもの、ですか?」
「おう」
 マスターはそう言って戸棚をあさる。私ではまだ踏み台を使っても届かない、高いところの戸棚を開けて、食器類のさらに奥へと右手を伸ばしてなにかを探している。
「ええと、確かこの辺りに……あったあった」
 マスターの右手が捕まえたのは、保存用のビンだった。中には棒つきの丸い飴――ロリポップがいくつか入っている。
 そんなところにお菓子が隠してあるなんて思っていなくて、キョトンとしてしまう。
「おいおい、そんな顔しなくてもいーじゃねーか。俺だって甘いもん欲しくなるときがあんだよ」
「いえ、そういうわけでは……」
「ほれ、一つ好きなのを取りな」
 マスターがビンのふたを開けて差し出してくる。
 ロリポップを包む包装紙はどれもカラフルでかわいらしいデザインだった。正直に言って、ロリポップがマスターのイメージにないのは確かだ。
 わたしが中から赤と黄色のロリポップを取ると、マスターは緑とオレンジのを取ってビンを戸棚の奥に隠す。
「これで仲直りだ。オーケイ?」
「……ふふ。はい、わかりました」
 マスターの笑顔に、わたしも自然と笑みを浮かべてしまう。
「ディミトリには内緒だぞ。あいつ、間食にはうるさいからな」
「わかりました」
 わたしとマスターは小さく笑って、そのロリポップを口にする。
 甘い。
 おいしい。
 そんな気持ちが顔に出ていたんだろう。マスターは「だろ?」と言いたげにロリポップを指さす。わたしは思わず笑みをこぼした。
 口の中に広がる甘い味は、さっきの気まずい気持ちをどこかに消し去ってくれる力が、確かにあった。
 ……結局その晩、マスターはわたしを言いくるめて徹夜したのだけれど。


 ◇◇◇◇

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

針降る都市のモノクロ少女 おまけ 前半

前のバージョンが無くなっていたので、再掲。

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投稿日:2024/05/24 21:25:46

文字数:3,877文字

カテゴリ:小説

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