だけど私は口にする。
今はまだ拙い言葉でも、届けたい思いは確かに―――ここにあるから。
<私的空想パレット・6>
私はものすごく緊張していた。
いや、その、単に彼のクラスを訪ねるだけなんだけど、わざわざ他のクラスに出向くことなんて滅多にないし。
しかも相手が男子なら尚更。もしかして、初めてかもしれない。
そんな状況なものだから、私はかちかちに固まって彼のクラスを覗き込んだ。同じ造りのはずなのに、なんでか私の教室より広く見える。
…落ち着いて、私。相手は同じ学校の同じ学年の人間だから!
裏返りそうな声をなんとか抑えながら、教室の中のざわめきに声を投げ掛ける。
「あ、あの、鏡音くんいますか?」
「鏡音?…あー、今いないみたいです。でも次の授業ここだし、そろそろ戻って来るんじゃないかな」
入口近くの女の子達にそう言われ、少しだけ考える。待ってみようか、どうしようか。
―――いいや、戻ろう。
結局そう結論を出して、お礼を言ってから教室の扉から離れてふらふらと廊下を歩き出す。
なんだか足元が覚束ないような気がするのはどうしてだろう。
いなかった、とか…巡り会わせかなあ。大人しく彼からの言葉を待て、って…
………いう………
いつの間にか私の足は止まっていた。
目の前の彼の足も止まっていた。
「…」
「…」
喧騒の中で、ただ馬鹿みたいに黙って突っ立っている二人組。
会わないはずの人とばったり出くわすとこうなります。サンプル、その一。
ざわざわ、ざわざわ。そういえば次の授業、今日のテレビが、県大会あるんだー。いろんな言葉の断片が意味を成さずに飛び交っては弾けて消える。
驚きの余り固まったみたいに強張った彼の顔を眺めながら、私はやっと「これ、もしかして何か言わないといけないんじゃないかな」という事に思い至った。
そもそも授業間の休み時間だから、時間なんてほとんど無いようなもの。棒みたいに突っ立っていたって単に時間がなくなるだけ。
「…あの」
「!」
おずおずと声を掛けると、彼はまるで耳元で風船でも割られたかのように体を跳ねさせた。
「このところ…」
「ごめん」
「へ?」
いきなりの謝罪の言葉に、私は間の抜けた声を上げることしか出来なかった。
そんな私に何の説明もフォローもなく、彼は素早く身を翻す。
「今は無理。じゃ」
今は無理…って、え、だから何がなんでどうなってそんな台詞が!?
特大級の疑問符で埋め尽くされる私の思考回路。緊急停止装置作動、緊急停止装置作動、全回路がフリーズする。
だから私は追うことも呼び止めることも出来ないまま、逃げるように駆けていく彼の背中を呆然と見つめていることしかできなかった。
それから何日かしても、彼からのコンタクトは一切無かった。
嫌われた、というか気味悪がられたかな、やっぱり。
流石に…そうだよね。
ここ数日、気分が落ち込んでくるのを止められない。特に帰り道はそうで、私は今日も暗い顔をしながら家に向かって歩いていた。
太陽が落ち始めた世界の中、私はぼんやりと角を曲がって、まっすぐ歩いて、また角を…
家の玄関が見えたところで、私の目が見慣れない何かを捉える。
何かが家のドアに立て掛けてある。でも、この距離だと何だかよく分からない。
とにかく近づかないと、と私は歩みを進める。距離はどんどん縮まって、ついに私はそれの前に到着する。
青。
私は黙ってそれを見た。
何を考えれば良いか分からない。ただ、断片的な言葉だけが頭に浮かぶ。
青。赤。黄。緑。白。黒。混ざってうねって咲いて弾けて、でもやっぱり青。
雑然としているようなその色彩の氾濫の中で、それでもその静かな色は凛として世界を纏め上げていて…なんて綺麗な―――
そこで、その絵の中心に描かれているものに気がついた。
…うそ。
呼吸が止まる。
そんな、でも、まさかそんなはず。
驚きのあまり震える指先で制服のポケットを探ると、すぐに思っていたものは見つかった。
潰れた、セルリアンブルーのチューブ。
それは、天上の、青。
「―――――――――っ!!」
声にならない声を上げて、私は鞄を荒っぽく探る。携帯電話を見つけだして、美術部に入っている友達の電話番号を呼び出す。
相手の都合を考えているような余裕なんて、無かった。
『リン?どしたの?』
「鏡音レンの住所、教えて!」
『へっ?』
前置きを全部すっ飛ばした私の言葉に、電話の向こうで頓狂な声が上がる。
でもそれにも構わず、私は更に言葉を重ねる。
「お願い、教えて!」
『い、いいけど、何?』
「ごめん、説明は後でね!」
『おう…まあ、じゃあメールするからちょっと待ってて』
「ありがとう…!」
帰って来たメールで場所を確認して、玄関に鞄を放り込んで、その絵を引っつかむ。
お母さんがまだ帰ってなくてよかった。こんな事したら、一体何事かと思われちゃうだろうから。…いや、確かに私にとっては一大事なんだけども。
最近ではあんまり使わなくなった自転車を引っ張り出して、タイヤの空気を確かめる。うん、オッケー。使える。
それを確かめて、私は自転車に飛び乗った。
記憶にあるより少し低い座席と、懐かしい握りの感触。高校に入ってからめっきり使わなくなったけれど、乗り方を忘れるなんて事がないのってありがたいと思う。
がつ、とペダルを踏み込む感覚。逸る気持ちと同調して加速していく世界。
風を切るのを感じながら、私は一心に自転車をこいだ。
「…どういう事なの?」
「何が」
「これ」
抱えるようにして持ってきたそれを、彼に突き付けるみたいにする。というか、結構大きな絵だからそんな事をするまでもなく気付いていただろうけど。
署名なんてない。書き手を特定できるようなものなんて、何一つなかった。
でも私には分かった。絵から伝わる感覚は、見知った彼のものと全く同じだったから。
彼は無言。
何も言わない彼に焦れて、私は一番気になる事を尋ねた。
画面中央、そこに描かれた一つの人影。
それは小さくて、ほぼ後ろ姿だけ。でもそれでも、私なんだと分かる。
「この絵、なんで…私がいるの…?」
「…」
彼は非常におかしな顔で目線を逸らした。
もにゅもにゅ、口元が変なふうに動いている。
え、ちょ、まさか、
………照れてる?
「…それ、聞かないと分かんない?」
「流石に、わかんない」
「…はぁ…」
仕方ない、と言うように吐き出される溜め息。
続いた言葉は簡潔だった。
「だってこれは絵だから」
「…?」
「ああっ、だからまさか君がこの絵を持って家に押し掛けてくるなんて思ってなかったし…上手く言うのなんて不可能な訳で、だから絵なんだよ。俺には絵ぐらいしかまともな意志伝達手段なんてないから」
「…」
彼にしては少し早口でまくし立てるような口調に、私は呆然と聴き入る。
ぽかんとした私の表情に気付く彼。その目は「言いたい事あるなら言えば」と言っている。
なんか、あれ…?心なしか顔が赤く見えるのは、夕日の照り返しのせい?
それとも…
「…きみってそんなに口数多かったっけ…?」
「…誰のせいだと」
「…えっ、…私のせい、なの?」
「…」
ぽつ、ぽつ、ぽつ。夕焼けのキャンバスに筆から絵の具が滴るように、言葉の雫が一滴一滴と色を重ねる。
いつの間にか、私と彼の間には静寂が横たわっていた。
と言っても、硬い、緊張するような静寂じゃない。あの休み時間に感じていたような、柔らかで居心地のいい―――そんな静けさ。
どこか遠くで車のクラクションが聞こえる。全てが茜色に染まった世界。
その中で、私が抱えた一枚の絵だけはひたすらに静かな青を湛えている。
「どうだった?」
不意に彼が口を開いた。
それは、今までに何度も聞いた事のある、何の気負いもない、彼の作品に対する質問の言葉。
だから、私はそれにつられて反射的に口を開いていた。
「凄く、綺麗だったよ」
それを聞いて、彼はまた問いかけて来た。
「どこが?」
私は少しだけ面食らう。そんな事を聞かれたのは初めてだったから。
でも、感じたことをそのまま口にする。
「えと…色が溢れてるのに、雑多な感じになってない。一本筋が通っているっていうか、その、合わないような色までアクセントになってて…」
そこで私は気付いた。
夕日を顔に受けながら、彼が微笑していることに。
―――あ。
私が口にした、言葉。それはどこかで聞いたことがある言葉に、少し似ている。
そう、それは、従姉が口にした…
「…これ」
声が震える。どうしよう、泣いてしまいそう。
だって、だって……
「これ…私の、絵なの……?」
震えながら紡いだ言葉に、彼は、
―――小さく、頷いた。
「君なら分かると思ってた」
私の絵。
それは単に私の姿を描いたっていうわけじゃなくて、彼から私へのメッセージ。
いつから考えていたんだろう、これを描くことを。私に渡したあの色で、伝えることを。
入り乱れた色彩、でもそれらは破綻なく青に収まっていて、そして、ただ、ひたすらに―――鮮やかに、美しく。
「…鏡音レンくん」
つう、と頬に何かが伝う。それを見た彼は急に慌てた顔になってハンカチを差し出して来た。
ハンカチなんて持ってたんだ。でも残念、私は今両手が塞がっているので受け取れません。
手を離してハンカチを取るつもりはないよ。
だって私の両手は今、きみの気持ちを抱いているんだから。
「…きみの目に、私は、本当にこう見える…?」
私にハンカチを押し付けようとしていた彼の動きが、止まる。
答えもしないくせにその瞳が優しくて、私の目からはまた涙が溢れた。
「…馬鹿」
こんなの。
こんなの。
上手く言えない。
どう言えばいい?どう言えば伝わるの?
わからない。
でも、伝えたい。
今、ここで。
「…嬉しすぎるでしょっ…!」
私の口から出たのは、そんな言葉だった。
どんな言葉よりも雄弁に私の心に入り込んだ、彼の色彩。
こんな綺麗に見えているのなら、と、そう思えてしまう。
私は、夢見たものに、いつの間にか辿り着けていたの?
頬を伝う感触は、とめどなく流れては地面に落ちる。
それだけで、私の心の中が浄化されていくような気がした。
「…一昨日はゴメン」
「え」
「廊下で」
私が泣き止むのを待って、彼は淡々とそう告げて来た。さっきの笑顔なんて目の錯覚だったような気すらする、いつも通りの無表情で。
何について言われたのか、一拍置いて思い至る。彼が逃げ出したときの事だ。結構気になっていたのに、さっきの事が衝撃的過ぎてすっかり頭から飛んでいた。
「あの時、その絵が途中で…なんか顔を見てられなかった」
吹き出しそうになって、危うく自制する。
でも彼にはばっちり気付かれていて、半眼で睨まれる。うう、ごめんなさい。
「…私を避けてたのも、そのせい?」
「そう。早く仕上げたかったから時間があれば家に篭ってたし。おかげで君のお友達からいらない心配をされた」
「部活を休んだから?」
「…その上、君が俺の心配するから」
「う」
「メールとかかなり来たし」
「ごめんなさい…」
「いや、そんなに嫌ではなかったから」
「そ、そうなら良かったぁ。メールならそんなに気にならないから?」
「 」
最後の言葉は小さすぎて、私の耳には届かなかった。
何、と目で聞いても、彼は気付かなかったふりしかしない。少しだけ胸の内がもやついたけど、まあいいか、と流しておくことにする。
「明日からはまた来ればいいよ。歓迎する」
「いいの?」
「お茶は出ないけどね」
どこかで聞いたことのあるやり取りに、私はついに吹き出した。
彼はそれを見て、小さく呟く。
「…笑顔、初めて見たかも」
「ん?」
「なんでも。じゃ、また明日」
「うん、また明日」
ひらり、と手を振って私は自転車に跨がる。もちろん絵は忘れないように気をつけながら。
気分が晴れ晴れとしていて、夕風が気持ち良い。
自転車を漕ぎながら、グラデーションになった空を見上げる。
その西の方には、彼の描いた青が微かに残っていた。
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ご意見・ご感想
草月
ご意見・ご感想
初コメ失礼します。
レン君、いったいどうしちゃったのかとずっと気になっていましたが、いいところを持って行きましたね(笑)最後のデレで2828させていただきましたw
翔破さんの書く鏡音はどれも素敵で大好きです!次回作も楽しみにしていますね(*´∀`*)
2010/11/29 16:41:02
翔破
おおっ、初めまして!コメントありがとうございます!
確かに今回のレンは、飄々とした顔でおいしいところを持って行きました(当社比)まともなレンです。でもイケレンとは言い難いような気がするのが切ないですね。レンすまん。
にやにやですか…!そう感じていただけたならとても嬉しいです。私はこういう、相手を気にしてるんだか気にしてないんだか微妙なラインの二人の関係って好きなので。
でもとりあえず鏡音可愛いですね!それで全てが解決すると思います。
読んで下さってありがとうございました。不定期更新でちまちまやっていきますが、今後もどうぞよろしくお願いします!
2010/11/29 22:52:02
翔破
コメントのお返し
まさかこのレンに萌えて下さるとは思ってませんでした…ありがとうございます!
デレたのは完全に予想外だったのですが、気に入って下さったようで安心しました。よかった…
終わり方は、なんとか思ったあたりに着地できたので私も一安心です。なんだか、長くなった時ってたまにキャラが予想外の動きをして思ったところに着かなくなる事もあるので(例・デレン)。
読んで下さってありがとうございました!
2010/11/28 21:19:17
Aki-rA
ご意見・ご感想
こんにちは。元朔夜です。
久しぶりにレンの将来が安心な作品に出会えた気がしますw
デレるレン‥デレンですね(´∀`)
絵心は皆無に近い‥というかやっぱり無いのですが、描かれてるものが目に浮かびます。
素敵な作品ありがとうございます!
2010/11/28 06:58:51
翔破
はい、私も久しぶりにまともな子を書いたような気がしました。
そしてデレンです。既にタグいじられててちょっと吹きました。ロック完了ですb
今考えている単編のレンはちょっと可哀想な感じにアレなので(何だ)、今の内にエネルギーチャージをしているような感じです。
こちらこそ、読んで下さってありがとうございました!精進します!
2010/11/28 21:13:30