注意書き
 これは、拙作『ロミオとシンデレラ』の外伝です。
 ルカが小学校一年生の時の担任の先生(本編には登場しません)の視点で、外伝その十二【ルカの日記】のサイドエピソードとなっています。
 したがって、【ルカの日記】を読んでから、お読みください。


 【先生の思い出話】


 巡音ルカですか? 憶えていますよ。
 何しろ私があの学校で、最後に受け持ったクラスの子ですからね。それだけじゃない。私が学校をクビになったのは、あの子に関わったからなんです。
 あ、勘違いしないでくださいね。私、別にあの子を恨んじゃいません。むしろあれからずっと、あの子のことが引っかかって仕方がないんですよ。あの子はあれから、まともに人生を送れただろうかって……。
 ああ、何がなんだかわからないって顔をしていますね。じゃあ、順序立てて話をしましょうか。


 ルカは、私があの学校で、最後に受け持ったクラスの生徒で、当時は小学校一年生でした。巡音グループの社長令嬢で、傍目にはとても「いい子」でした。いつも席に真面目について勉強し、休み時間は一人で本を読み、宿題は忘れずに提出する、そんな子でしたね。成績も――まあ、一年生ですけど――良かったです。
 そんな子だったから、ルカはいつもきちんと言われたことをやっていました。ところがそんなルカが、一度だけ授業中に何もしなかったことがあったんです。
 その時は社会の授業で「自分ノート」を作ることになっていました。白い紙に零歳から六歳までと、小学校に入ってからの写真を貼って、その下にその年にあったことを書くという課題です。なので私は、その前の日に「宿題として、自分が小さい時のそれぞれの年齢の写真を持って来なさい。そしてお父さんお母さんには、このプリントにあったことを書いてもらってきなさい」と言って、プリントを配ったんです。
 その次の日の社会科の授業、周りの子たちが楽しそうにお喋りをしながら作業をしている中で、ルカは一人でぽつんと何もせずに座っていました。さすがにあれですから、私はルカの傍に行って「巡音さん、どうして作業をしないの?」と訊いてみたんです。
 ルカは何も答えませんでした。何しろ相手が相手ですから、単なる反発やサボりとも思えません。ルカは「いつも言われたことはきちんと」こなす子だったんですからね。
 周りに他の生徒がいない方がいいかもしれないと考えた私は、ルカに放課後残るように言いました。放課後にもう一度「どうして作業をしなかったの?」と訊いてみたところ、ルカは「……写真がないんです」と答えたんですよ。
 ええ、驚くでしょう? 物の無い時代や国ならともかく、今の日本で、スナップ写真の一枚も無いなんてありえないじゃないですか。ましてやうちの学校は私立で、裕福な家の子でないと通えません。ルカは大きな会社の社長の娘で、経済的には学年で一、二を争うぐらい恵まれていました。そんな家なのに、子供の写真が一枚も無い?
 それだけじゃありません。私がルカにプリントを見せてもらうと、こっちも真っ白でした。何も書いてなかったんです。ルカは作業をサボっていたのではなく、作業したくてもできなかったんですよ。
 私はルカに「こんな事情なら、無理にこの課題はやらなくてもいい。書けるところだけ埋めてきなさい。写真が無いのなら、貼らなくていいことにするから」と言うと、ルカは目に見えてほっとした顔で、帰って行きました。ルカが帰ってしまった後、私は教室で考え込んでしまいました。頭に浮かぶのは、ルカの家庭が抱える複雑な事情です。ルカの両親は離婚していて、父親とその再婚相手、そしてその二人の間に生まれた妹と一緒に暮らしていました。そして、ルカの日記――あ、学校の方針で、生徒は日記をつけて教師に提出することになっていたんですよ――を見る限り、ルカが継母とうまくいってないことは確実でした。ルカは当初、継母のことを「にせママ」と日記に書いていたんですよ。私が注意したらやめましたが。
 もしかしたら、ルカは虐待されているのかもしれない。ルカは見る限りでは、怪我などは無いし、いつもちゃんとした格好をして学校に来ていますし、栄養も行き届いているようでした。でも……。
 虐待というと、大抵の人は殴ったり蹴ったりを連想するでしょう。ですがそれだけじゃないんですよ。子供に向かって傷つくようなことを言い続けるとか、目の前の子供を無視して知らんふりを決め込むとか、そういうのも立派な虐待なんです。虐待に立派というのも妙な話ですが。
 気になった私は、もう一度ルカの家を訪ねることにしました。ルカの継母である女性――確か、ショウコという名前だったはずです――は、私を見て露骨に「何しに来たのこの人」という顔をした後、「あの子が何か問題でも?」と、ぞんざいな口調で訊いてきました。最初の家庭訪問の時もこんな調子でしたよ、確か。
 私は社会の授業であったことを説明し、「ルカちゃんの写真は?」と訊いてみました。
「知らないわ」
「あなたは母親でしょう? 娘の写真がどこにあるのかも知らないんですか?」
「だって、あたしが産んだ子じゃないもの」
 それが、彼女の答えでした。一瞬、ひっぱたいてやりたい衝動にかられましたよ。やりませんでしたけど。
「あなたが産んでいようがなかろうが、こうして一緒に暮らしているんですから、あなたにはルカちゃんの面倒を見る義務があるのでは?」
 私がそう言うと、ルカの継母は嫌そうに顔をゆがめました。
「前の奥さんがいけないのよ。精神病院になんか入ったりするから」
 私は唖然としました。そりゃあそうでしょう。ルカの実母は、精神病院にいる?
「ルカちゃんの本当のお母さんは、精神病院にいるんですか?」
「ええ。あの人、頭がおかしくなっちゃってね。もうまともな話もできないから、ずっと病院よ」
 ということは、離婚の原因もそれでしょうか。確か夫婦のどちらか片方が、結婚生活を継続できないような状況になった場合、離婚の原因として認めてもらえたはずですから。おそらく、子供の面倒を見る能力が無いということで、ルカの親権は父親に渡ったのでしょう。
 ただわからないのは、ルカが「自分は母に捨てられた」と思っていることです。以前、ルカは日記にそう書いていました。ですが実母が精神病院にいるのなら「捨てた」というのとはちょっと違うはずです。もちろん、あの年齢のルカに「お前の母親は精神を患って病院にいる」などと言うわけにはいかないでしょう。けれど「捨てられた」も「精神病院にいる」も、ショックな話としては変わりありません。何をどうしたら、こういうことになるのでしょうか。私には理解できませんでした。……今でも、ね。
 一方、ルカの継母はというと、私の前でグチグチとこんなことを言い始めました。
「あの子、あの時まだ二歳だったから、ルミさんさえしっかりしていてくれれば、親権はルミさんのものだったのよ。全く、いらないお荷物をこの家に置いて行ってくれちゃって。これだから根性の無い人は嫌いよ」
 顔を洗って出直して来い、いやむしろ地獄に落ちろ。口にでかかった言葉を、私は必死で飲み込みました。ここで罵詈雑言を吐いたところで、何にもなりません。
「……失礼します」
 私はそれだけを言うと、苦い気持ちでルカの家を後にしました。


 それからどうなったのか、ですかって?
 その次の日、ルカの日記はひどく混乱した様子でした。私が帰った後で、継母にこっぴどく怒られたようです。私は「ルカは悪い子ではない、そしてそれはちゃんと説明しておいた」と日記に書いて返しました。実際に説明はしていないんですが――だって、あの継母に何を言っても無駄でしょうから――ルカを落ち着かせる方が大事だと思ったからです。
 その後で、私は、どうしようかを考えました。ルカの為を思うのなら、あんな継母からは引き離した方がいい。ですが、ルカの実母は継母の言葉によれば精神病院、それもかなり重症のようです。入院中の実母では、ルカを引き取るのは難しいでしょう。かといって、虐待を理由に児童相談所などに持ち込むのも難しい話です。殴られて痣だらけとか、まともに食事も与えられずガリガリになっているとかならまだしも(それでも何もしてくれなくて度々騒ぎになってますが)「継母にずっと無視されているらしい」では、どこも取り合ってくれないでしょう。
 父親の方に話をしてみようか。あの継母を放置している人がまともとは思いにくいのですが、仕事が忙しすぎて育児は妻に任せきりなのかもしれません。どういうふうに話をしたら、理解してもらえるだろうか。続く二、三日、私はそんなことばかりを考えていました。
 ……父親の方と話はしたのかって? いえ、それが、できなかったんですよ。というのも、その後一週間ぐらいで、私が勤め先である学校をクビになってしまったからです。理由ですか? はっきりと説明してもらったわけじゃあないんですが、どうも、ルカの親が学校にひどく苦情を言ったようなんです。あの担任の先生は生徒の家庭の問題にまで首を突っ込みたがる、我が家はどこに出しても恥ずかしくない家庭なのに――どの面下げてその台詞を言ってんだ、って感じですがね――どうしてくれる、と。
 たった一人の生徒が保護者を言ってきたぐらいで、担任の先生がクビになるはずはない、ですか。まあ普通ならそうでしょうね。ですがルカの父親はお金持ちで、学校に多額の寄付をしていました。どうも、寄付のことをちらつかせて校長を脅したみたいなんです。……証拠はありませんがね。でも、多分間違ってないと思いますよ。
 ええ、不当解雇ですよ。うん、訴訟は起こさなかったのかって? 起こしても良かったんですけどね、裁判やるのってお金と時間がかかるんですよ。今、クビって言いましたけど、表向きは自主的に辞めたことになっているんです。さすがに校長も良心が咎めたんでしょう。それに、こんなことで教師を辞めさせるような学校で、この先も働く気には到底なれませんでした。そんなわけで、私は退職することにしたんです。
 ……今でも時々思い出しますね、巡音ルカのことは。私は、あの子に何もしてあげられなかった。むしろ状況をややこしくしてしまった。きっとあの子はひどく混乱したでしょう。ルカは聡明な子で、あの年齢とは思えない知力や理解力がありました。きちんとした親に育てられれば、きっとひとかどの人間になれたでしょうに。でもあんな家では、まともに育つことはきっと不可能でしょう。
 あの子、結局あの先どうなったのか、もしかして知っているのではないですか? ……いえ、いいです。聞くのはやめておきます。結局のところ、私はあの子から逃げたということには変わりないんですから。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

ロミオとシンデレラ 外伝その十三【先生の思い出話】

 リンのお父さんって、多分このショウコさんが一番似合いのつれあいだったんでしょうねえ……。書いてる奴がこんなことを言うのもなんですが。

 先生の思い出話を聞いている相手が誰なのかは、ご想像にお任せします。

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投稿日:2012/02/01 19:05:15

文字数:4,444文字

カテゴリ:小説

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