4.KAITO
マスターの仕事の帰りに片目の猫を拾った私たちは、その足で一番近くにある獣医の下へ行き、そこでできる限りの治療をしてもらったあと、薬をもらい、ペット用品を扱っている店でトイレ用の砂やら子猫用のご飯やら、当面必要と思われるものを買いこんで家に帰りました。
荷物を持つのはカイトの役目です。本当は、私も彼と同じくロボットなので重い物を持っても平気なのですが、私が手伝おうと手を出すよりも早く、カイトが一人で全部運んでしまいました。その顔は少しもつらそうな様子がなかったばかりか、どこか楽しそうに見えたほどです。
彼は家に着いて早々、配達員が何か小包を持って呼び鈴を鳴らした時も、普段以上の笑顔で出迎えていました。
それから、カイトがマスターの夕食を作っている間に私とマスターは猫の身体をふいたり薬を飲ませたりで大騒ぎ――と言っても声をたてていたのは私とその猫だけでしたが――ようやくきれいにして専用の寝床に寝かせた頃には、マスターばかりか私まで疲れてしまったような気がしました。
ですから、マスターの食事が終わるとこの日はもう音楽のことを考えるのはやめ、いつもより早く部屋に引き上げるマスターを私たちはおとなしく見送ったのです。
「私たち」というのは私とカイト、そして猫のこと。私は彼らと一緒にリビングに残って充電用コネクタを接続し、ソファに腰かけて普段のようにスリープモードに入ることにしました。カイトも自分のコネクタを差して休む準備をしています。
本来ならば私たちVOCALOIDは収納ケースをかねている梱包用の箱で休むのですが、マスターは無理にせまい箱に入らなくてもいいくらいのスペースは充分にあるからと、ソファを使うことを許してくれたのでした。
別にどこにいようと問題はなくても、私にはマスターのその気持ちが彼の弾くピアノの音のように心地良く感じられます。
スリープ状態の間も私たちロボットの、人間で言うところの「意識」は途切れることがありません。それでいて退屈することもないので、朝を待つまでの時間は私にとって決して苦ではありませんでした。何しろその「苦」さえ知らないのですから。
そんなわけで、私はかすかに上下に動く猫のお腹の動きを観察することにしました。きっと夜明けと共にカイトがスリープモードを解除し、同じく夜明けと共に目覚めるマスターの身支度を手伝ってリビングに戻ってくるまで、私はじっとこの子猫の様子を見ていることでしょう。
昨日までなら確かにその通りになったはずです。
しかし今日は何が違ったのか、私の予想だにしなかった別のことが起こったのでした。
「ここには慣れたかい?」
ふいに私よりも低い、男の人の声がしたのです。
私は一瞬、マスターが起きてきて口を利いたのかと思いました。でもそんなはずはありません。何しろマスターはしゃべれないのですから。
そうなると、この家にいる男の人はあと一人しかいないことになります。
「あなたはしゃべれたのね、カイト」
「まあね」
テーブルをはさんで向かいのソファに座っているカイトは、スリープモードに入っているためか口も動かさずにのんびりとそう言いました。その声にはまるで遠くにいるニュースキャスターの中継を耳にしているような、奇妙な間がありました。
「しゃべると言っても、これは専用の無線通信だけど。僕らにしか聞こえないから、マスターや猫を起こす心配はしなくていいよ」
「それはありがたいけど、それじゃあ、あなたは実際にはしゃべれないの?」
「声を出して話すこともできるよ。ただそれをしないというだけさ」
「どうして?」
私の回り道をしない問いに、彼はどこか慎重さのうかがえる返事をしました。
「マスターがしゃべらないからさ。二十年くらい一緒にいるしね」
その言葉からは二つの意味が読み取れます。
一つはマスターが話さないから、言葉をかわす必要がなかったこと。話さなくても判るほど長い年月を共にすごしているということです。
そしてもう一つは、マスターに対する気づかいのようなものでした。
「マスターがしゃべらないのはどうして?」
「事故のせいだろう」
ふと思い当たって私が口にした問いに、カイトは変わらない静かな口調で答えます。
「それで視力と、奥さんと子供を亡くしたんだ。写真を見ただろう? この前君がどこへ行ったのかと尋ねたあの二人だよ。三人でマスターの運転する車に乗っていて事故にあい、マスターだけが助かった。彼はその日以来話せなくなってしまったらしい。その時から彼の時間は止まったままに違いないと、今日会ったマスターの友人が昔教えてくれた。でも医者の話では、彼の声帯には異常がないんだ」
「どういうこと?」
「声を出すための器官にはどこも悪いところがない。つまり問題は体にあるわけではないということだよ」
その返答の意味は私には判りませんでした。機能に異常がないのに、それが働かないなんてことがあるのでしょうか? 人間のことにカイトほど詳しくなかった私には不思議でなりませんでした。
「……マスターは誰かのために曲を作りたいわけじゃないんだ」
カイトは唐突に海に沈んだような声音でぽつりと言いました。光の入っていない青い目も夜の海か深い海底のようです。私はそれにすいこまれるように見入ったまま、先をうながしました。
「話して」
「うん。本人に直接聞いたわけではないんだけどね。彼はただ自分のために書いているんだ。自分が飲みこまれてしまう前に、逆に食らいつくそうとしている」
「何を?」
「彼を追いたて、苦しめるものを」
「悲しみ?」
私がそう尋ねると、やはりカイトはワンテンポ遅れた答えを返してきます。
「そうかもしれない。あるいはそうではないかもしれない」と。
「一言で言葉に表すことができるなら、きっと彼はそのために曲を書こうとは思わなかっただろう。悲しみ、怒り、後悔、絶望……いろんなものがまざり合ってマスターの心に溶けこんでいる。それは忘れてしまうにはあまりにも彼の記憶と心の奥深くまでしみこんでいるし、物理的な力として解放するには凶暴すぎる。もちろん彼自身もそれを望んではいない。だから曲を作ることにしたんだろう。芸術は他者を感動させることもできるけど、それだけが目的や手段ににならないのが芸術というものだから」
「ロボットなのに判った風に言うのね」
私のこの言葉はもちろん嫌味ではありません。ロボットの人工知能にそんな高度な機能はないのですから。ただの純粋な疑問でした。
カイトにもそれは自然と判ったはずです。だから彼は穏やかな口調で「そうだね」と言いました。
「確かに僕はロボットだ、人間の心というものは判らない。芸術についても本当のところは決して理解できないだろう。だけど音楽だけは別だ」
「どうして?」
「僕も君と同じVOCALOIDだからさ」
その返事に私は知らない音楽の用語でも言われたような気になりました。人間の感情で言えば「驚いた」というのがもっとも近いでしょう。それというのも、作られた時から私に備えられているデータ――知識にはカイトの情報がなかったからです。
「VOCALOID? あなたが?」
疑うつもりはありませんでしたが、そう尋ねずにはいられませんでした。
すると彼も納得したような口調で答えます。
「君が知らないのも無理はない。僕は旧シリーズだからね。でもプロトタイプじゃないよ。れっきとした一つの完成版だ。中身はちょっと時代遅れだけどね」
そう言ってからカイトは、「だから結構苦労したんだ」と言葉のわりには楽しそうに言葉を続けました。
「新シリーズの君と、こうして通信をするためには部品を組みこまなければいけなかった。旧シリーズと新シリーズの間に互換性はないんだ。それでVOCALOID専用の通信が新旧の間でできるよう、変換装置を探した。市場には一応出ていたけど、どこも在庫切れでなかなか手に入らなかったんだ。実は君が来ると決まった日から注文していたんだけど、届いたのは今日さ」
「夕方に来た荷物はそれだったのね」
これに彼は「そういうこと」と答えた。
「君と話せて嬉しいよ。データを新シリーズ用に変換して送っているから、ワンテンポ遅れるのはどうしようもないけどね。これも悪くはない。僕は沈黙も嫌いじゃないが、元来はおしゃべりな方なんだ」
「そうみたいね」
あの楽器屋さんと話したらいつまでも話題がつきないことでしょう。朝から晩までおしゃべりをしている二人の姿を思い浮かべた私は、人間である楽器屋さんの方が先に疲れてしまいそうだなと思いました。
「実は今日君が猫を拾わなければ、僕はまだしばらくこの変換装置は使わずにいたかもしれない」
少ししてカイトがまたどこか楽しそうな口調でそう口を切りました。おしゃべり好きというのは本当に間違いないようです。あるいはずっと黙っていたので、話相手ができて嬉しいのかもしれません。
どちらにせよ、私も彼の話をもっと聞きたいと思ったので「何故?」と尋ねました。
「君がどういうロボットか判らなかったから」
「人間で言う『人見知り』というやつ?」
「かもね。でも猫をつれて帰りたいと言った君を見て、話したくなった。きっといい子だろうと思ったから」
カイトのそんな答えに私は沈黙をはさみ、少し考えてからこう応じました。
「それはちょっと違うんじゃないかな。だって私がああ言ったのはたぶん、プログラムされた人工知能がそう命令したからだよ。それにマスターがダメって言えば、私はあきらめていたと思う」
「機械は人間の言うことには絶対だからね。でも結局そうはならなかっただろう?」
「それは結果の話でしょ? 猫がここにいない可能性だってあったはず」
「理論上はその通り。だがその可能性を君はしりぞけた。そして僕はそれが気に入った。それだけさ」
穏やかに、しかしきっぱりと言い切ってカイトは小さく声をあげて笑いました。その声を聞いていると、マスターの姿が思い浮かびます。彼がしゃべったらこんな感じだろうと思えるのでした。
「カイトって不思議ね。私にはよく判らないことをたくさん言うんだもの」
「そう?」
「うん。それにマスターに似てる」
「ずっと一緒にいるから、似てきたのかな」
自覚があるのかないのか、どちらともつかない口調でカイトはそう言います。
そんな彼に私は素直にこう告げました。
「こんなことを言ったらあなたには悪いかもしれないけど、マスターと話しているみたいで……そう、人間風に言うなら、嬉しい」
「ミクはマスターとおしゃべりしたいの?」
「というよりも、判り合いたいんだと思う。いつも何だか私一人でしゃべってるみたいで、気を悪くしてないかな、とか、うるさく思われてないかな、とか考えるから。あとは……純粋に声を聞いてみたいだけかな」
カイトはやわらかい声音で「時間がたてばきちんと通じるようになるよ」と言いました。
「僕みたいにね」
その言葉に私は、ゆるんで取れかかっていたネジをしめなおしてもらったような気分になりました。
「私、あなたと――カイトと話せて嬉しいわ」
「ありがとう。僕も君が来てくれて嬉しいよ」
その言葉には本当に心から歓迎している感じがあり、彼は私よりもずっと人間に近く見えます。
だからもしかして人のように嫉妬(しっと)するということもあるのだろうかと、私は半ばふざけてこう尋ねました。
「同じVOCALOIDが来て、ライバルだとか思わなかったの?」
するとカイトは、
「僕には僕の役目があるからね。君が家事をするために来たのなら、話は別だったろう」
冗談とも本気ともとれる語調で言って笑い声をあげたのでした。
5.見えない音の世界で
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