7.失われた日々へ
私はまるで、焼け野原に立っているような気持ちでした。そこへ放り出されたのは一瞬のことです。
黒く巨大な怪物のごとき圧力と重低音が目の前の空間をねじり取るように横切り、クラッシュ。光が水袋をわったようにバッとはじけて、頭と体をぐらぐらと激しくゆさぶりました。
それがおさまり、視界が開けたかと思うと今度はガソリンくさい煙がもくもくとわきあがって、またたく間に目の前をおおいつくしていきます。その中で赤い蛍のような火の粉がはかなげに舞っていました。
鼻の奥がつんとして、目はチェーンソーでガリガリ削られているよう。そばにいたはずの誰かを探して、鋼鉄の糸を引くように必死にのばした腕の先には……その先には――。
おせっかいな闇が目をふさぎ、おしつぶされたポンプにたっぷり水をためこんだような何かが胸の中に住み着いて、私の内側から骨格を、歯車やネジを切なく引っかき始めます。毎日毎日、一年、十年、二十年……。私はすり減っていくのに、中に巣くっているそれはどんどん重く、大きくなって私を飲みこんでいくようで、その向こう側におし流されてしまった遠い思い出が、「彼女たち」が、写真立てに映し出されているのと同じ姿でほほえんでいるのが見えます。
その曲を初めて聞いた時、私はそんな情景を見たのでした。
音が描いた強烈なまでのイメージです。
次の瞬間、私は金切り声で叫んでいました。
叫んで、叫んで、叫んで、そしていくつも重ねたその音を落としこんで四曲目が作られたのです。
私は歌い終わると、いつの間にかマスターに抱きついていました。いえ、それはむしろ、しがみついていると言った方が正しかったかもしれません。
マスターはいつものようにピアノの前に座り、私はその横に立って歌っていました。マスターは大人の男の人なので私よりもずっと背が高く、椅子に腰かけていてもさほど頭の位置が変わりません。
私はそれを抱きかかえるように後ろからしがみつき、体の中の部品が今にも弾け飛びそうな気がしていたのでした。バラバラになってしまわないよう、おさえこむように抱きつくので精一杯だったのです。
そんな私にマスターは手を伸ばして、頭をなでてくれました。
機械である私に人間のような心はありません。何か感情というものを感じる心があるように見えても、ふたを開ければ緻密(ちみつ)にプログラミングされた人工知能があるばかりです。そこから作り出される感情に似たものは人工知能による結果情報のトレースで、模倣(もほう)にすぎません。人間の物まねをしているだけです。
ですがそれが作り物であろうと何だろうと、私はとにかくその時、メロディを通して流れこんできた悲しみとしか言いようのない感情にとらわれていたのでした。
そしてその苦しいほどの悲しみは、曲を作ったマスターが抱えていたものなのです。
私はこの時になってようやく、マスターの家がひどく静まりかえって寒々しかった理由に思いいたりました。
この家は人間が一人で、サポートのロボット一体と住むには広すぎるのです。本来あるべき人たちの姿がそこになく、そこかしこに面影だけを残したがらんどうの家は、常にいなくなってしまったものの空虚と悲哀を抱えてさみしく風を吹きこんでいたのでした。
「マスターは、この曲を作るためにここまで来たんだね」
私がそう言うとマスターは一瞬手を止め、それからぽんぽんと私の頭を軽くたたいて腕を下ろしました。
しかし、今度は別の腕が私の後ろからマスターと私を抱きしめてきます。マスターは驚いたように顔を上げましたが、私にはそれが誰か判っていました。もちろんこの家には、猫をのぞけばもう一人しかいないのですが。
「カイトもずっと待っていたんだって」
その私の言葉にマスターはまた驚いた様子でしたが、やがて一つうなずきました。そしてこう言ったのです。
「ありがとう」
それが最初で最後の、私たちが聞いたマスターの声でした。
マスターは二度と声を発することはありませんでしたが、これまで通りそのことをさして気にした風もなく、とても穏やかに冬を迎えました。
最終的にハードロックに仕上がった四つ目の曲は、ごく一部の人に大絶賛された以外はほとんど注目されませんでした。でもそれで何の問題もないのです。マスターにとって作曲は儀式のようなもので、カイトが以前言った、他者のためだけに作るのではない自分の中のものを昇華するための芸術であり、それはかつて失われたものと折り合いをつけるための、通過し乗り越えるための手段にすぎなかったのですから。
それを無事に経たマスターは、その年の終わりに五曲目を作りました。
優しくてゆったりとした今のマスターらしい曲です。これにはカイトも初めてコーラスで参加しましたが、彼はVOCALOIDとして歌を歌うことをほぼあきらめていたので、その喜びようは機械とは思えないほどのものでした。
マスターのピアノとカイトのコーラス、そして私の歌声。映像にはいくらか大人らしくなった猫も映っています。
一曲目からこの五曲目までを通して聞いてみると、これがすべてマスターの生きてきた道筋のように思えました。若々しい少年時代、情熱的で活動的だった学生時代に結婚生活、それから事故があったあとの長く孤独な時、そして今。物静かで音楽に対していつも真剣で、無口だけど優しいマスターの現在がありました。
厳しい夏の次は険しい冬が来ますが、もうこの家は寒々しくはありません。長くとどまっていた悲しい思い出は失われた日々の中に溶け、今は新しい時間が時を刻んでいるのです。それは決して長いとは言えないものでしたが、確かに幸福に似たものでした。
マスターが最初に倒れたのは長い冬の終わり頃で、その後回復の兆しがみえないまま、次の誕生日と夏を待たずに彼は私たちの下から去って行きました。
寿命だったのだと楽器屋さんは言います。自分も同い年だからもうすぐだろうとも。
「今では僕ら人間の寿命は五十年とちょっとだが、君たちは一体いつまでそうしていられるんだろうな」
その問いかけに私はあえて答えは返しませんでした。
きっと私たちはメンテナンスできる限り、半永久的にこのままでいられるでしょう。マスターが私たちにと残してくれた家に、猫と一緒に今日と同じ明日をすごしていくのです。
そしてやがて猫も私たちをおいて去るでしょう。
それでいいのです。生き物はいつか死ぬものなのですから、それが自然というものです。最後の一瞬まで、少しでも多く幸福の方に天秤が傾いていれば、それはきっと幸福な一生だったと言えるに違いありません。
私はマスターの作った曲を聞いて彼の抱えていた悲しみや大切なものを失った時の感情に触れましたが、私自身はおそらく自らそれらを感じることはないでしょう。だからきっと同じ機械であるカイトと共に、猫が私たちの下を去る時も静かに見送るのだろうと思います。幸福の数の方が多かったことを祈って。
機械である私たちに幸福の何たるかは本当には判りませんが、それだからこそ私たちには生物としての寿命もありません。ただ知っているのは音楽を愛しているということ。歌うために生まれてきたということ。それさえあれば私たちは満たされるのです。
「これから何をしたい?」
マスターがいなくなったあと、初めて無線通信ではなく本当の肉声でカイトがそう尋ねた時、私は「歌を歌いたい」と答えました。
「だってそのために私は生まれたんだもの」
「僕もだ。家事は嫌いじゃなかったけど、もうやる理由がない」
それからカイトもこう言ったのです。
「他にやりたいことは、歌を歌うことだけだよ」
私たちが望む限り、そしてヒューマンフォーム・ロボットの人格テストをパスし続ける限り、私たちは誰の所有物にもならず存在していけることになっています。それがマスターが家と共に私たちにくれた自由でした。
その贈り物を受け取った私たちの「今」に一番近い人間流の言葉を探すなら、私たちはやはりそれを「幸福」と言うでしょう。
【小説】リトル・オーガスタの箱庭(7)
これで一応おしまいです。
少しずつ修正中。
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