5.
「みくさん。今度……一緒にご飯でもどうですか?」
――断らなきゃいけなかったのに、なんでうなずいてしまったんだろう……?
みくはそんなことを考えながら、呆然と眼前のイタリアンを見つめた。
本橋にそう誘われたのは、働き始めて四ヶ月たった頃のことだった。
仕事の流れや、多岐にわたる商品について覚えるのが早かったみくは、今では、店舗の主力従業員となっていた。
他のパートの人たちと違って休みもほとんど取らず、毎日朝から夕方まで働き続けていたことも関係しているかもしれない。
本橋と一緒にいる時間が長くなり、結果としてよく話すようになり、こんな風に食事をすることになったのも、半ば必然だったのだろう。
とはいえ、 本橋はみく以上にこの店で働いていた。社員が彼一人だからなのだろう。彼は責任感が強すぎるようにみくの目に映ったし、会社も彼一人に責任を押し付けすぎているようにも見えたが、だからといってみくにどうにかできることではない。
「いらっしゃいませー。あ、お待ち会わせのお客様ですか?」
――そうやって逡巡していると、お店の中にいた店員がみくに気づいて、そう声をかけてきた。
「あちらの――お客様のお連れ様ではありませんか?」
みくがしまった、なんて思っていることになど気づくはずもない店員は、そう言ってガラスの向こうの店内の席の一角を差す。そちらを見やると、本橋がみくに手を振ってきていた。
「あ……そうです」
店員はすかさず扉を開けてみくを店内に招き入れる。
「ではこちらへどうぞ! お連れ様一名ご来店でーす! ご予約のお客様でーす!」
『いらっしゃいませー!』
おしゃれなイタリアンの店員が声を揃えるのに、みくはびくりと肩を震わせて一瞬立ち止まってしまった。こんな雰囲気のお店にはこれまで入ったことがなかった。というか、みくにはお店で飲食できるほど金銭的な余裕があったことなどないし、飲食店に限らず、母親にどこかに連れていってもらった記憶がない。そういった接客に慣れていなくてびっくりしてしまうのも、仕方のないことだった。
「みくさん、大丈夫でした? 場所、わかりにくかったでしょう?」
二十人くらいで満席になりそうな店内の一角。案内された先の二人用テーブルに座っていた彼は、仕事帰りのスーツ姿だった。
「いえ……。あ、その。確かにわかりにくかったかもですね」
「やっぱり、外で待ってた方がよかったですね」
「いや……そんなことは」
上着を脱ぎながら彼にそう返していると、店員が上着を預かりにきた。そんな応対も知らないみくは、一つ一つにうろたえるしかない。
「こういうところ、初めてで……変じゃないですか?」
テーブルの向かいに座りつつ、彼にそう尋ねる。
洋服も何年も買い足したことなどない。目の前のスーツ姿の本橋と違って、みくは長袖のシャツとボタンが取れかけのカーディガンの姿だった。みくは、自分がここに場違いな気しかしなかった。
「全然そんなことないですよ! ここ、そんなに高いところでもないので、格好なんて気にしなくても大丈夫ですし」
「はぁ……でも私、そんなに余裕もないんですけど……」
「大丈夫ですよ。ここくらいなら僕一人でも払えますから」
「でもそれは――」
「僕が無理言って誘ったんです。これくらいは見栄を張らせてもらいますからね」
彼がそう言って笑うのに、みくもなんと言ったらいいかわからず、曖昧な笑みを返すしかなかった。彼の“そんなに高くない”は、恐らくみくには絶対に払えやしない金額だろう、ということしか、みくには理解できなかった。
払ってもらえるのならそれは確かに助かるが、果たして本当にそれでいいのだろうか。
そう考えもしたが、彼を思い直させる方法をみくは思いつかなかった。
「なにか飲みます?」
「お酒はちょっと……」
実際には、アルコールがダメなわけではない。ただ、酒の勢いで乱暴されたことのあるみくには拒否感があった。そのせいで、ほとんど飲んだことがない。
そんな胸の内をさらすはずもなかったが、彼が差し出したメニューを眺めて、声をあげそうになった。どうにかこらえたが、スーパーでジュースを買うのすらためらってしまうみくには、一杯四、五百円もする飲み物なんて……正気の沙汰とは思えなかった。
「ええと、じゃあその……ジンジャーエールで」
「そう? 僕は……ビールでもいいですか?」
あの苦いだけの飲み物のどこが美味しいのか、みくにはよくわからない。それに、酒は人を豹変させる。彼がそうならないという保証はないないので、本当ならみくは彼に酒など飲んでほしくはなかった。
しかし、人になにかを強要するなど、みくにできることではなかった。みくは少しだけ視線を外して、お好きなものにしてください、とうなずいて見せることしかできなかった。
そのイタリアンに、彼は少し不満を漏らしていたが、みくにとっては筆舌に尽くしがたいほどに美味だとしか言いようがなかった。
普段から苦手な“他愛ない会話”も、本橋とならそれなりにスムーズだ。みくが気づいていないだけで、彼は内心では「みくさんは時々妙なことを言うよな」と思っている、という可能性もゼロではないが、それならそれで、彼はそうやってみくに気を遣ってくれているということでもある。そんな風に接してくれる男性は、みくにとって初めてだった。
外食をしたことがないみくには、イタリアンなど別次元の食べ物とさえ言えた。
前菜やピザをこれまで食べたことなどなかったのはもちろんだが、スパゲッティー自体は家で作ると安く済むので、みくも時おり作ることはある。しかし、同じミートソーススパゲッティーなのにこんなに味が変わるなんて、と驚きを隠せなかった。
とはいえ、ナイフもフォークも使い方が下手なみくは、なんとか彼にみっともないところを見せまいと苦心するので精一杯だった。
とはいえ、他人の視線を気にせずにいられるよう、妙なことをせずに“普通”に振る舞えるようになったのも最近のことだ。それまでは、周りからの意味ありげな視線を感じても、なにが間違っているのかすらわからなかったのだから。
「こういうお店……苦手でした?」
二人の間にあるテーブルには、空の皿が並んでいる。先ほどデザートを頼んだところだった。みくは申し訳なくて断ったのだが、本橋は、せっかく来たんだから食べなきゃもったいない、と言ってみくの分も頼んでしまっていた。
「そんなことは……でも、普段は外食をしないので、苦手というより、勝手がわからない感じでしょうか」
「ああ、なるほど。お昼もお弁当を持参していましたね」
「あまり……余裕のある生活ではないので……」
「余裕のある生活か……。憧れますね。そんな生活を送られるようになればいいんですが。今はろくな休日もありませんし」
店長も十分余裕のある生活ではないだろうか。私なんかと比べたら。
みくはそう思ったが、どうやら彼の“余裕のある”は金銭的な話ではなく、休暇的な話だったらしい。
「……店長、本当に出ずっぱりですよね。いつも、買ってきたコンビニ弁当食べる余裕もないみたいですし」
「まぁそれでも、みくさんが朝から夕方までいてくれるから大分助かってますよ。他のみなさんは短時間がほとんどですし、一日の流れを把握して仕事ができる人がいると多少は任せられて、僕も精神的に楽ができます。みくさんがいてくれてよかった」
「そんなことは……ちょっと、買いかぶりすぎですって」
「いやいや、そんなことありますよ。できるならすぐ時給を上げたり手当付けたりしてあげたいくらいなんですけど、昇給の規則は僕にはどうにもならなくて」
この会社の契約では、昇給は一年ごとだ。みく自身、昇給できるほど長くいられる自信がないので、なんと返事をしたらいいかわからない。
「ところで……僕はいつまで店長って呼ばれるんです?」
「え?」
「店長って呼ばれるよりは、本橋さんって呼ばれた方が距離を感じずにすむんだけどなって」
そう言って、本橋は苦笑する。
「それは……」
「そこまで他人行儀にならなくてもいいんですよ」
みくはうつむくしかなかった。
「……すみません」
「ああ、いやいや。別に無理強いしようとしてるわけじゃないんです。言い慣れないなら、無理に変えなくてもいいですよ」
「……はい」
「……」
押し黙ってしまったみくに、本橋は失敗したな、とほほをかく。
「……すみません。今のは僕の失言です。忘れて下さい」
「……」
こういうときの男性の対応は、ほとんどが暴力だった。
そういうことをしてこずにぎこちない笑みを浮かべる本橋に、みくはかろうじて笑みを返すことができた。
「それで、みくさんは……余裕のある生活、憧れたりしませんか?」
「……え? それは……その、憧れない人の方が珍しいと思いますけど」
急にトーンが下がった彼の声に、みくは気づかなかった。
「そうですよね。……みくさん。みくさんは、僕となら……そうなれると思いませんか?」
「……。……え?」
わざわざ二人きりでの食事に誘ってきたのだ。それが想像できていなかったわけでは、もちろんない。
だがそれでも、みくはその言葉の意味を理解し損ねた。
「お待たせしました。ティラミス二つお持ちしましたー」
「……」
「……」
無言で向き合うみくと本橋に、店員はちょっと気まずさを感じたのか、空の皿を下げて、空いたスペースにティラミスの皿を二つ置くと、そそくさと去っていく。
「それは、その……」
「……。僕と、お付き合いしませんかと、そういう意味です。もちろん……結婚前提の話として」
「……」
答えは用意していた。
……答えなど、初めから一つしかなかった。もう一つの選択肢を選ぶことなど、みくには考えられなかった。
だが……みくは、その言葉をなかなか口にできなかった。
彼の反応を思うと、勇気が必要だった。
それでも、言わなければならない。
「みく……さん?」
不安そうな顔をする本橋に、みくは覚悟を決めて告げる。
「……すみません。私は……私には、応えてあげられません」
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