猫は奇跡を信じた。
生物のほとんどが死んで自分だけが生きているこの状況の中でも、きっと美味しいキャットフードがあることを。
だから猫は歩いた。
倒れた電柱を飛び越え、干からびた人間だったものを乗り越え、電車は来ないとわかっている踏み切りを、でもそわそわと辺りを見渡して耳を澄ませてから早足で渡った。
軒先にぶら下がっている永遠に主の帰らない鳥籠を覗き込み、原形をとどめていない魚の残骸の匂いを好きなだけ嗅ぐ。
誰も生きていない商店街は不気味だが、猫には関係ないことだった。迷わず目的の店に辿り着いた猫は、しかし直ぐに愕然とした。扉を開けてくれる人間がいないのだ。薄暗い店内に並ぶ、猫の写真がプリントされ、でっぷりと太った袋が透明の扉越しに見える。
だがそれだけだった。猫は扉を引っ掻き、店の外周を一巡りし、窓という窓に飛び掛かったが芳しい成果はあがらなかった。
猫は尻尾を垂らしてとぼとぼと、再び歩き出した。今度は宛もなく。
少し進んだ時だ。突然何かが崩れ落ちたような音が轟いて、猫は毛を逆立てた。猫は暫くきょろきょろと辺りを確認し、耳を動かすと駆け出した。目的をまた見付けたからだ。
猫の耳に届いたのは微かな人の声だった。
猫は屋根がずり落ち、壁が崩れた建物にそろそろと入っていった。奥へ奥へと進むに連れ、雑音混じりの小さな声がはっきりしてくる。猫はたまらず走り出すと朽ちた棚の残骸に足をかけ、音の出所を覗いた。
あったのは壊れかけのテープレコーダーだけだった。
ジーやらガッガガという音と一緒に、人が吹き込んだ何かを吐き出している。猫は憮然とした顔で力任せにそれを前肢で叩いた。それが止めだったようで音がぷつりと消える。息を引き取ったテープレコーダーを物悲しげな瞳で猫は見下ろした。
猫は動かない。諦めたように微動だにしない。
不意に、その背後を何かが駆け抜けた。猫の尾がゆらりと動いて、髭はぴくんと跳ねた。猫の中、奥底にある何かが灯った。
猫は身を翻すと本能のままに床を蹴り、灰色の何かに向かって腕を振るった。灰色のものはそれを辛うじてかわすと、猫が通った道を逆走しだす。猫は気が付けば全力でそれを追い掛けていた。
途中にあった襖の残骸を獲物がすり抜ければ、猫は考えなしにそのまま突っ込んでいく。幸い朽ちかけていた襖は容易く砕け散り、猫の行く手を阻むことはなかった。
淡い暗闇に猫が躊躇することはない。一対の黄玉は爛々と煌めき、その瞬きは違うことなく灰色を見据えていた。
猫が飛び上がる。
灰色のものは必死に短い手足で前へ進もうとしていたが、無情にも猫のしなやかで凶悪な前肢は、今度こそその背中を正確に捉えていた。
そうして小さな小さな断末魔の声が、世界の隅っこに生まれて消えた。
猫は鼠を押さえつけていた。自分のしたことに疑問があるのか、猫は息を殺して灰色の小動物を見詰めていたが、やがて空腹を思い出したのだった。
そうして猫は思った。
奇跡が起きて、美味しいキャットフードが食べられることを信じた、願った。けれど本当に願った奇跡は、明日も元気に歩き回るための糧を得られることだったはずだ。だからこれは奇跡だ。まだ明日がある。
だから猫は満足そうにナァと鳴いた。
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