2-2.
カラン、という小気味のいい音とともに扉をくぐる。そして同時に失敗したな、とも思った。
カウンターの向こうにはワイシャツに蝶ネクタイとベストをきっちりと着こなし、白髪交じりのグレイヘアを綺麗になでつけた痩身の男性が立っていた。
ダンディな喫茶店のマスターだとひと目でわかる出で立ちだ。
「お一人ですか?」
「あ、はい」
「では、こちらのカウンターにどうぞ」
そう促されるままカウンターに座る。
正直にいって、高校二年にはハードルの高すぎるオシャレ空間だ。やばい。そう思ったらさらに緊張してきた。
「なにかお召し上がりになられますか?」
「あ、あの、えっと……」
パッと周囲を見ても、メニューらしきものは見当たりない。
「あ、アイスコーヒーをお願いします」
と言い終わったところで、マスターがメニューを取り出して差し出そうとしているのが見えた。もう少し待てばよかった、と思うものの、注文を撤回するのもなんだか気まずい。
「承りました。ブルーマウンテンとキリマンジャロ、コナから豆を選べますが」
「えーと……」
いや……うん。名前だけなら聞いたことはある。産地がどうとかいうんだっけ? けれど、それがどう違うのかよくわからない。
「酸味の強いものはお好みですか?」
明らかに途方にくれていた僕に、マスターが見かねてそう尋ねてくる。
「あー。いや、ちょっと苦手ですかね」
「ではブルーマウンテンはいかがでしょう。酸味が強すぎることもなく、軽い口当たりで飲みやすいと思いますよ」
「じゃあ、それで」
「かしこまりました」
オロオロする僕にマスターは穏やかな笑みをみせると、手際よく目の前のーーサイフォンと言うんだったかーーフラスコに水やコーヒーの粉を入れ、アルコールランプの火を当てる。
「少々お待ち下さい」
マスターの渋い声に返事もできず、僕は黙ってこくりとうなずく。
そういえば……アイスコーヒーでいくらするんだろう。こんなお店だ。千円くらいはするんじゃないだろうか。
……いや、もうここまできたなら仕方がない。腹をくくれ奏。せっかくだ。高級アイスコーヒーを堪能するしかない。
「んーだよ、そんなこと言ってイベント失敗すんのが怖いだけだろ? あいつらは地下でくすぶってるような奴らじゃねーんだって。上司の説得がいるってんならオレも一緒に頭下げに行くからよ。なあーー」
二つ隣のカウンター席に座った男の急な大声にびっくりして、思わずそちらを見る。
四十代くらいの体格のいい男性で、肩にかかるくらいの長めの髪を派手な金髪に染めていた。黒地に銀色の模様の入った開襟シャツの間からはいかにも高そうなネックレスが見えていて、携帯端末を手にした指にはいくつものシルバーの指輪がはまっている。
一昔前の派手好きのバンドマン……という想像をした僕は、少し偏見に満ちているのだろうか。
「……おう。よーしよしよし。そーこなくっちゃな。でっかく当てるにゃ、大穴にかけなきゃなんねーんだぜ。あ? んだよ、ギャンブルもしたことねーのか。オレが今度いいトコに連れてってやっからよ。じゃーー」
携帯端末で話をしながら、不意にこちらを向いた男と目が合ってしまう。
ワイルドとか、そういう単語が似合いそうなギラギラした目つきの男だった。
ーーまずい。
とっさに目をそらそうと思いはしたが、なぜか動けなかった。
「ーーまた、行ける日がわかったら連絡するわ。今後ともご贔屓よろしくお願いしますよ」
そう言って、男は通話を終える。
「で、テメーは……」
「ひぃっ」
からまれる。
難癖つけられて殴られて、あり金巻き上げられるんだきっとーー。
「ひぃってなんだよひぃって」
「高松様はガラが悪くていらっしゃいますから」
「おいおい、マスターまでンなこと言うのかよ。せちがれーなぁ」
ごく自然にマスターが口を挟んでくるあたり、この人はここの常連なんだろう。この人ーー高松という名前らしいーーが、マスターに言われてがっくりと頭を垂れる。さっきまでのワイルドなイメージが一気に崩れる情けなさそうな態度ではある。
「いやいや本当に。イジメてやろうなんてひと欠片も思ってねーって。ただ聞きたいことができてさ」
「はあ」
「でさ」
生返事の僕に、その人はものすごく楽しそうな顔をする。
「おめーさん、歌とかダンスは得意か?」
「え? それはその……どっちかというと下手です……」
「なぁんだよ。じゃ、アイドルになってみたいとか思わねーか?」
「いえ、特には……思いません」
そこははっきりと答えた。初音さんを見てると、あんな過酷な仕事が自分にできるとは思えない。
「なンだよ。もったいねーなー。おめーみてーな真面目系スウィートフェイスはマジで簡単にファンが付くんだぜ? 最高に売れる要素を持ち合わせてんのにさ」
「そんなことないですよ。それに向いてないですから」
「ンなこと言わずにさ。試しに一回オレに任せてみなって。ブッ飛ぶぜ?」
ぶっ飛ばなくていいです。
やけに楽しそうに語るこの人ーー高松さんに、僕はそう言ってしまいそうになった。
「アイドルになるってーのはよ、簡単に言やあ“自分が世界の中心になる”ってこった」
「はあ」
「ガッコー行って狭い教室の端っこで授業受けてるとするだろ? 周り見てみろ、みんなおんなじことしてやがる。そのまま勉強して、大学行って、どっかの会社に就職したり、公務員になったりして働いたりするのかもしれねぇ。まあそれでも世界の一員じゃあるさ。けど……それじゃせいぜい端役だ。誰かに影響を与えられるのは周囲の何人かに過ぎねぇ」
それで僕は十分だけどな……と内心で独りごちる。
「だがよ、ステージに立ってみんなの視線を一心に集めてみりゃあ……文字通り世界が変わるんだ。それまでは誰に見向きもされない端役だと思ってた自分が世界の中心にいて……全てをコントロールできる存在になってるんだってことに気づくんだ。こっちの存在なんかお構いなしに回ってるって思ってた世界が、急に自分を中心にしてぐるぐる回り始める感覚……自分が世界を動かしてるんだって実感があるんだよ」
熱く語る高松さんの話に、ついさっきの「CryptoDIVA」のステージが思い返される。
確かにあのステージは……初音さんたち「CryptoDIVA」の四人が世界の中心となっていたように思う。
彼女たちのために楽器が音を鳴らし、照明がまたたく。そして、それを従えて歌い踊る彼女たちがいるからこそ、観客は合いの手をいれるし、サイリウムを振る。
あのときのライブハウスは、「CryptoDIVA」を中心にぐるぐる回っていた。それは確かに……一つの世界と言ってもいい。
「あれはマジで……最高だぜ。おめーも一度味わえば、その快感から逃れられなくなるってもんよ。だからどうよ、一回だけでもいいぜ。それでもいい経験になる」
「で、でも……」
前のめりで語る高松さんに、僕はうまくかわせずにしどろもどろになる。
でも、こんななし崩しな流れでステージに出るなんて嫌すぎる。
「……高松様、まだ若い彼を丸め込むのは良い行いとは言い難いと思いますよ」
絶妙なタイミングでマスターがフォローに入ってくれたけれど、高松さんは諦めない。
「いやいや、大抵の仕事は後からでもできる。けどな、アスリートとアイドルだけは、若いうちに手をつけないと大成しないんだぜ」
「であれば尚更、それを望んでいる若者に提案するべきでしょう」
「ウチの若いのがな、いいことを言ってた。今ここにある希望はきっと、ボクだけのためじゃない……ってな。それはオレも同意する。才能のある奴を世間に見せねーのは、世界に対する損失だよ。だから、原石になりそうな奴は全力で勧誘する。損得はこの際関係ねーんだよ。その原石に本当に価値があったなら、否が応でも人気は出る。人気が出なかったら、それはオレの見る目の問題だ」
ん?
今ここにある希望は……って、そのフレーズ、僕も聞いたことあるぞ?
と思ったところで、カラン、と音をたてて新しいお客さんが入ってくる。
四人組の先頭は、見知った顔だった。
「奏クン、やほー。……って、社長と一緒なの? ボクが紹介する必要なかったじゃん」
化粧も落としているし、私服になっているからさっきのアイドルだった時とはずいぶん雰囲気が違う。けど、だからこそ僕にとってはいつもの初音さんだ。
え……それってまさか、他の三人は「CryptoDIVA」のメンバーってことなんじゃ……?
待て待て待て。それよりもなんだって? 社長?
それが誰か……ってそりゃ、該当しそうな人は一人しかいないけどさ。
「あんだ、ミクの友だちってこいつのことなのか?」
高松さんが目を丸くして初音さんを見る。
「そですよ。知らないで話しかけてたんですか?」
「おう。いい素材だと思ってな」
「……あ、社長。奏クンを勧誘しようとしてるでしょ。ダメですからね。奏クンはボクのマネージャーなんですから」
「んーだよ。かったいことゆーなって。いいヤツ見っけたと思ったンだよ」
「ダメですってば!」
「なンだよー。もったいねーなー」
腰に手を当てて怒る初音さんに、肩を落とす高松さん。これは……二人でなにか話がついているみたいじゃないか?
なんの話だ。僕は知らないぞ。
「しゃーねーなぁ。なぁ、奏君。君はアルバイトとかしてる?」
「いえ、してませんけど」
「じゃ、部活や習い事とかは?」
「いえ、それも特には。……って、ちょっと待って下さい。一体なんの話をしてるんですか?」
僕の言葉に、高松さんはキョトンとする。
「ん? ……あ、さてはミク、まだこいつに話ししてないな?」
「あー……。ちょっと、タイミングがなかったんですよ」
露骨に視線をそらす初音さん。
「……」
「ンだよ。オレから話をしろって?」
呆れる高松さんに、初音さんは茶目っ気のある笑顔とともに舌をちょこんと出してみせる。
「エヘヘ、お願いします」
「こーゆー時だけいい顔しやがってよぉ。ステージでもその顔をしろっての」
「してますよぅ」
「いや、まだ足りないね。愛想の良さはもっとルカやリンを見習え」
「そんなぁ」
なんだ。なんの話なんだ。
と困惑していると、高松さんがこちらに向き直る。その視線は、やけに真剣だ。
「まぁいいわ。で、奏クン」
「は、はい」
「単刀直入に行こう。オレはね、君を雇いたいと思っている。とりあえずはアルバイトだが……君の仕事ぶり次第じゃ、高校卒業次第正社員を考えてもいい。時間給を計算しにくい仕事だから、給料は日割りで計算することになるだろうと思っているんだがーー」
「ーーちょちょ、ちょっと待って下さい」
突飛な話に、僕は素っ頓狂な声を上げてしまう。
「僕になにをさせようとしてるんですか?」
「今まで通りのことだよ」
僕の疑問に、高松さんは事もなげに言う。
「え?」
「これまで通り、ウチの会社が抱えているアイドルである初音ミクの工程管理を頼みたいというわけだ。すでに知っているだろうが、ミクは感覚型の人間だ。CryptoDIVAの他のメンバーは本人や家族が仕事やレッスンの予定を把握できてて、それでなんとかなってる。だが、ミクはどうもうまく行かなかった。そう、君がミクのタイムスケジュールを把握するまでは」
「はぁ」
まあその、うまく行かなかったことは僕もよく知っている。だから彼女のスケジュール管理をするようになったわけだし。
「オレが学校に介入することはできねー。流石にな。だが、そうなるとミクに今日の予定はこうだからとか念を押せる人間がウチにはいないんだよ。だから、君がいまミクにとって必要なことだから、とやってくれていることに対して、対価を払う必要があるとオレは思ってんだ」
「え? いやでも、僕は別に大したことは……」
だって、初音さんから予定を聞いて、タイミングを見て指摘しているだけだ。お金を貰えるほどのことをしているという感覚は無い。
「おめーさんはそう思ってんのかもしれんがな。オレたちにしちゃこれは死活問題なんだ」
初音さんの後ろに立つ三人が、高松さんの言葉にウンウンとうなずく。
「ミク姉と同じ学校の子もウチらにはいないし、頼めそうな知り合いもいないしね」
「ミクちゃんのおかげでライブが中止になりかけたこともあるわ。それでも、アタシたちにはミクちゃんが必要なの。やっぱりCryptoDIVAは四人いないと成り立たないしね」
「だから奏さん。貴方にミクのことをお願いしたいのよ」
CryptoDIVAのメンバーから直々にお願いされるなんて……これ、現実か?
「ええと……ぼ、僕でいいんでしょうか……?」
なんとも落ち着かない感覚にそう言葉をこぼすと、高松さんが僕の肩をガシッとつかんで笑った。
「安心しろ。これは君にしかできねー仕事だ。なんてったって、CryptoDIVA結成以来誰も成し遂げられなかったことを、君はたった三ヶ月で成し遂げたんだ。オレたちからしたら偉業だ。冗談抜きで」
高松さんの言葉に、また三人がウンウンとうなずく。
「あれ……ボク、もしかしてバカにされてない……?」
初音さんのボヤキに、みんなが笑顔を浮かべる。……それ絶対に作り笑いでしょ。
「そんなことないわよー。ミクちゃんの時間感覚は壊滅的で予定の把握なんて全然できないけど、歌とダンスはとんでもなくセンスがいいから大丈夫よ」
「そうそう。ミク姉は歌とダンスだけは誰にも負けないよね。ただ時計が読めないだけ」
「人間、完璧な人なんてどこにもいないからね。ミクの欠点は擁護が難しいけれど」
それぞれの言葉に、初音さんがあうあうとうめき声を上げる。
「ううう……みんながヒドいよう。……でも優しい。でもヒドい。でも優しい……」
かくして僕は、見習いマネージャーとして高松さんの会社でアルバイトをすることになった。
あまり嬉しくなかったはずのあだ名が、正式な肩書きへと変貌した瞬間である。
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