それから私は、日を置かず伊鈴の元を訪れるようになった。
始めは意志を伝えるのさえ苦難だったのも、時を重ねる内に互いの感情を読み取る術を身に付けた。
今の彼女は、初めて会った時とは比べ物にならない位に明るい。私が見ていないとどこかに行ってしまいそうな程元気が有り余っていた。
塾の営みの間に、伊鈴の居る店に足を運ぶ。ただ話をして、時折手を引いて花街を歩く。
やがては彼女も少しずつ言葉を覚えるようになっていった。
季節はいつの間にか秋の終わり。数日振りに店を訪ねると、敷居を跨ぎ終わらぬうちに伊鈴が駆け寄ってきた。
「神威さま!」
「おお、伊鈴。元気にしていたか」
「してた。げんき」
勢い余って飛びついてきた伊鈴を地面に下ろしながら、頭を撫でてやる。急くように言葉を紡ぐ様子は見ているだけでつい顔が綻ぶ。
「今日は、どれくらいいられる?」
「そうだな。今日はいつもより長めに居られるぞ」
「長く? じゃあ、テンジンサマに行きたい」
「ああそうか、今日は御縁日だったか」
店の女将と廓口に許しを貰い、並んで大門を出る。気持ちの逸る伊鈴をなんとか籠に乗せ、私達は天神社に辿り着いた。
境内は露店が所狭しと並んでいた。さすがに月一の縁日ではある。
「わぁ…!」
私の側を離れ、伊鈴はその店々を物珍しげに覗いていく。金の髪が人目を引いているが、彼女は気にもとめていないようだ。
まるで野花を飛び渡る蝶の如く。
ひらひらと着物の裾を揺らして、振り返る顔はどこまでも無邪気で。
私はその後ろで、微笑ましく見守るだけ。
「神威さま! これはなに?」
「これは鼈甲(べっこう)飴だな。ほら、簪の鼈甲によく似ているだろう」
「うん、きらきらしていて綺麗。食べられる?」
そう言って、自らの瞳までも同じように輝かせる。
「甘くて美味いぞ。食べてみるか」
鼈甲飴をひとつ買ってやって、今度ははぐれないようにと手をとった。
あれこれと古道具や化粧小物の店を眺めながら、石畳の上を歩いていく。
次はあっちに行こう、急ぐと危ないぞ、と言葉を交えていると、何を思ったかふいに伊鈴が笑った。
「こうして歩いてると、親子みたい」
「親子か……私はそんなに老いてはいないぞ」
「だったら、兄弟? お兄さん?」
「ううむ。それくらいなら、許そう」
溜め息を吐くと、またくすくすと笑われる。
確かに、伊鈴のお転婆振りでは連れというより兄妹のようかもしれない。華のある着物を身に纏っていても、これでは遊女に見えるかどうか。
「伊鈴は――」
家族は居たのかと聞きかけて、口を閉ざす。
今の彼女に…廓に身を置く彼女に親の話をしても酷なだけだろう。
しかし、伊鈴が語り始めたのは、思いがけない話題だった。
「あたしね、前はいたの。家族」
思わずその顔をちらりと覗き込む。木履の音がからころと響いた。
「お父さんとお母さんと、弟。はぐれちゃったけど、元気かな」
初めて耳にする彼女の身の上。けれど私はそれ以上何も尋ねたりはしなかった。
やはり伊鈴は帰りたいだろうか。故郷を愛しんで泣く夜もあるだろうか。
喧騒に紛れて、思案顔で空を仰ぐ。横顔はやはりどこか淋しげで。
それから、急に私のほうを見上げてくる。
「神威さまは?」
私は反射的に微笑を浮かべた。憐憫の情だとは思わせたくなかった。
「今は母と二人暮らしだ。父は遠く…江戸に住んでいる。兄弟は、兄と妹がいた」
「いた?」
伊鈴の復唱にゆっくりと頷く。些か父親のことを話題に上げて、気鬱になる。それを面に出さないように勤めた。それから、彼女に余計な気を遣わせないように。
「もう大分前に死んでしまったよ」
「そっか…ごめんなさい」
やはり表情を暗くしてしまった。喉がつかえて、空いた手で頭を撫でる。
「謝ることではない。それよりも、伊鈴のほう難儀だろう」
「そうかな。でも今はお母はんも姐さん達もいるし。それに、神威さまも会いに来てくれる」
言って、再び微笑みを浮かべた。
そうか。私でも役に立つのなら、これほど嬉しいことはない。
少しでもお前の心を安らがせているのなら。
やがて参道の奥まで行き当たった。私達は拝殿で手を合わせて掛け茶屋に腰を落ち着かせた。各々が手にするのは絵馬。伊鈴は珍しげにじっと視線を注いでいる。
「ここに名前を刻んで奉納するんだ。さすれば天神様が無病息災を祈ってくれる。どれ、お前のは私が書いてやろう」
そうして伊鈴から絵馬を預かり、筆を入れようとして、はたと手を止める。
「伊鈴…ではないな」
「なに?」
「伊鈴は置屋で貰った名前だろう。お前の本当の名を知らないと思ってな」
今までは気に掛けても居なかったが、少女にもあるはずなのだ。私の名が楽歩であるように、生まれた時に親から貰った名前が。
「本当の名前。ファーストネームのこと?」
「ふぁあすとねーむというのが何かは知らんが…ううむ、そうだな。何と言えばいいか……」
彼女にも分かるようにと、言葉を探る。どう言えば伝わるのか、このような瞬間にばかり言葉の壁を痛く感じるのだ。
「リン」
言いあぐねていると、不意に少女が何かを呟いた。
覚えずその顔を覗き込む。すると伊鈴はどことなく微笑んで。
「リン。それが、あたしの本当の名前」
「そうか。綺麗な響きだな」
我知らず返したのは、その愛おしさを伝えるもの。少女は照れたようにわずかに頬を紅潮させた。
ずっと使ってなかった、と苦い笑いを見せる。それは誰も知らないのだという。この国に来てから、一度も口にした事はないのだと。
リン。
口にした途端、その名が本当の彼女のものだと悟る。
伊鈴という名よりもずっと、輝きを身に宿す彼女には似合う。
「そうだな、これからはリンと呼ぼう」
リン。私だけが知る、お前の本当の名を。
少女はまた恥ずかしがるように小さく笑った。
帰り道は、あたしのわがままで歩くことにした。
神威さまといっしょにいるのは楽しい。毎日来てくれればいいのにとさえ思う。
けれどそれはいけないこと。神威さまは優しいから、言葉にしたらきっと困らせてしまう。
だから今は、少しでも長くいっしょにいたくて、廓までの帰り道を寄り沿って歩く。
「すっかり暗くなってしまった」
「でも、楽しかった」
嬉しくて、ついつい歌を口ずさむ。
花街に来てから覚えたこの国の言葉の歌。今では意味も分かって、気がつくと口をついている。
ふいに感心したように神威さまが頷いた。
「それは……小唄か」
「うん。姐さんに教えてもらった」
まだうまくはないけどね。恥ずかしくなって付け加えたのに、神威さまは至って真面目だった。
「いや、充分に上手いぞ。リンは歌が得意なのだな」
そう言ってリンを褒めるから、おかげで余計にくすぐったい。
心の高揚を抑えるように、あたしは歌を続ける。今度はもう少し大人しく。
そうするうちに、かすかに重なるもう一つの声。驚いて傍らを見上げてみる。
「神威さまも知っているの」
「ああ。何度か聞いたことがある」
灯篭に火の入り始めた道に響くのは木履の音と二人分の歌声。
通りを歩いていると、もちろん他の町人にも擦れ違う。手を繋いで小唄を歌う二人などさぞ奇妙に映るのだろう。怪訝な目で見られて、そのたびに顔を見合わせて忍び笑った。
ちょっとだけ控えめに、自分達だけに聞こえるように歌う。
ときどき横顔を盗み見る。すると何故かあたしが見上げるのを知っていたように目が合った。
その微笑む顔が優しくて綺麗で。
神威さまは不思議なひとだ。どうしてあたしのような『鬼の子』の相手をしてくれるのだろう。
きっと神威さまにはあたしみたいな幼くて落ち着きのない小娘より、大人びて芸妓に秀でた太夫や天神の姐さん方のほうがずっとお似合いなんだと思う。
それでも、あたしはそれでもいい。
不釣合いでも、こうして手をつないで歩けるから。
「やっぱり、お兄さんじゃないなぁ」
「何か言ったか?」
神威さまが覗きこむから、あたしは澄ましたように首をふる。
「ううん。なんでもないよ」
うん。絶対にお兄さんじゃない。
だって神威さまは、家族よりも誰よりも、ずっとずっと好きだもの。
~参へ続く~
ことりの泡夢 弐 (楽鈴)
長くなった。そろそろ自重できなくなってきた妄想。
掛け合いの曲なので、両側視点で繋げていこうと考えていました。にしてもリンちゃんを流暢にしすぎた…
とりあえず上手い具合に起承転結の四話で締まりそう。
吉原より島原を選んだのは、許可があれば門の外に出られるからでもあります。
加えて太夫は花を売らない芸妓である、とか。最上位の太夫、次点の天神あたりだと、芸に秀でていないと務まらなかったそうです。
あと単に私が京都好きだっていう話。
色々不備もあるので最終的にはフィクション京都ってことに落ち着きそうです。
まぁ、ここまで幸せそうなのは一種のあれであって…ね。
遊女と悲恋は切って切れない、と常々思っております。
以降、現実で忙しいので少し間が空きます。
(9.21ちょっと修正)
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