18.逃避行

 待った。ちょっと待った、レンカちゃん。
 現在十八歳のレンカよりも二回りも年上のはずのヴァシリスの頭の中が、真っ白であった。
 リントを隠さねばならない。それは解る。踏み込んできた連中の目を何とかひきつけなければならない。それも解る。

 ……しかしなぜキスか?!

 扉を破られた音がした。人が踏み込んできた音がした。しかし、視界はレンカのやわらかな額に、意識は彼女の温かな舌に侵食されて動けない。
 と、ふわりと重みが外された。レンカが体を離して唇の束縛を解いたのだ。
 息を吸うと同時に、ヴァシリスの視界に、踏み込んだ姿勢のままあっけに取られている軍服の数名と、その向こうから覗き込んでいる島の人々の姿が見えた。
 
 ……どうしろと! 

 ヴァシリスの背に冷や汗が流れ落ちる。これは、茶番で誤魔化しきれる状況ではない。
 しかし、若いレンカの判断は、まだ望みを捨てないことを選んだ。
「いっ……」
 す、とするどく息を吸う彼女。次の瞬間。
「いやあああこないでえええ! 駐留さんの変態! ノゾキ!」
「ちょ、レンカちゃん?!」
 彼女は、なんと手近にあった椅子を思い切り振り上げた。
 そして、あろうことが踏み込んできた軍服組に向かって投げつけたのである。

「うわ!」「おい!」「落ち着けッ!」

 まともな反応とまともなアドバイスが彼らから向けられるが、レンカはそれがリントを救うと信じていた。
 彼らの避けた椅子が通りにすっ飛んでいき、島の人たちの騒ぐ声も聞こえる。

「レンカちゃんちょっと待て、それはいくらなんでも……!」
 と、背後の資料棚からリントが抜け出し、裏口を出て行くのが見えた。
 裏口から飛び込んできた連中が、ヴァシリスとレンカへ注目した隙に、背後をすり抜けて逃げたのだ。
 
 ヴァシリスがごくりと安堵の息を唾とともに飲み下す。
 あとは、おそらく年長の自分に掛かるだろう、この騒ぎの責任をどう取らされるかだ。
「リントが、見つからずに逃げおおせれば」
 この一幕は、笑い話で終わる。
 正面で暴れるレンカと揺れる裏口の扉を見やり、ヴァシリスは切にそう願った。

「なんとしても逃げ切れよ、リント……!」


* *

 リントは裏口を抜け、すぐに路地の家の裏手に潜った。
 家々の庭を伝うように抜け、海岸までたどり着いたら、あとは葡萄畑と人気の無い岬の草原だ。そこから、岬には上らず、レンカがいつも石を拾いに行くときに使っていた、入り江に入り込む道へたどり着けば、当面は一安心である。

「まさかそう来るとは思わなかった」
 レンカの大立ち回りの騒ぎが聴こえてくる。こんなときではあるが、思わず笑ってしまった。
「なんだか、いろいろヒゲさんには謝らなきゃいけない気がするな」

 家のひしめく狭い庭の、石造りの塀を乗り越え、リントは抜けていく。庭を伝うのは初めてだ。運動量もさながら、誰かに見られたらという緊張感が、リントの鼓動を上げていく。
 と、足に植え込みのつるが引っかかった。
「うわ」
 まずい、と思ったときには、地面に叩きつけられていた。背の高さほどの塀から落とされ、リントの呼吸が止まる。
「いったたた……」
 這いつくばり、泥にこすれた顔を上げると、そこには洗濯物を取り込もうとした顔見知りの女性の顔があった。

「え」
 ふたりの言葉が止まる。
 リントの意識が白くなる。……見つかった。

「リ、リントくん?!」
 女は叫んだ。
「あ! リントくん、生きてたんだね!」

 ……馬鹿野郎!

 リントが青ざめ、とっさに今来た塀をよじ登る。

「あ、ど、どこいくんだい! みんな探していたんだよ!」

 ……だから、探してほしくなかったんだよ!
 再び木のつるに足をひっかけて、今度は通りへ落ちた。

「リントくん! 島のみんなも心配して……!」

 女の声が響く。
 ……まずい。まずいまずい。今度こそおしまいだ……。
 脳裏に、レンカとヴァシリスの姿が浮かんだ。リントを逃がすために努力してくれた理解者たちを、

「オレは、オレのミスで……」

 と、横の路地の物陰からさっと手が伸びた。白い軍服の袖口が見えた。
「!」
 とっさに振り払おうとしたリントの体が引き寄せられ、耳にくっと温かい感触が当たった。

「私。ルカ。待ってた」

 ルカの声が吐息の熱さでささやく。はっ、とリントの顔が強張った。
「なぜ、ルカが、オレを?」
「見つからないわけ無いでしょう、この状況で」
 ルカが静かにささやいた。
「大丈夫」
 ルカの声が、リントの耳に静かに響いた。

「戦闘用の飛行機に乗りたくないなら、私が、逃がしてあげる」

         *          *

 ほんの数時間前。リント捜索のポスターが張り出され、島の博物館に聴取に行く班が編成されるのを、ルカは事務室の窓から見ていた。
「もし、見つかったら、それも運命……」
 そう、思おうとしたが、どうしても、納得することは出来なかった。
 十日前、ルカはリントと再会した。
 懐かしい女神像の岬の前で、彼は悲しみに歌うルカの名前を呼んだ。 

「……逃亡者なら、身を隠さなきゃいけないのに。悲しむ人間など、放っておけばよかったのに」

 ルカには守りたいものがあった。この島だ。
 軍隊に入ったのは、父親の仕事を知りたいという個人的な感情もあったが、何よりも、『奥の国』が島の国を狙っていることを、幼いころから肌身で感じていたことが、ルカの将来を決めさせた。
 そして、どうせ守るなら、一番良い思い出の残るこの島が良いと感じていた。
 リントとレンカ、それに、ヴァズ。みんな、いいひとたちだった。
 リントが大事にしている島、レンカとヴァズが研究している伝説。
 かれらには、ルカには見えない、過去と未来が見えている。それを大事にしようとしている。
「私には、大事にしたいと思うものが、無い」
 ならば、好きな人たちが大事にしているものを守る手助けが出来たら、ルカが生まれてきた意味があるのではないかと、ルカは考えたのだ。
 そして配属されたのが、偶然にもこの島だった。
 ルカは、運命というものに、初めて感謝した。

 そして、リントに再会した瞬間、ルカは再び決断を迫られた。

「島と、リント。どちらが大事?」

 軍人としての答えは「島」だ。もし軍の者に問われた場合も、「国が大事」と当然、模範解答を答える。たとえ本心は違っても、集団を組んで大きなものを守るためには、そう答えなければならないことを、ルカも解っていた。
 当然、島を守るためならば、リントを捕獲して飛行機に乗せることが正しい。優秀な飛行機乗りの彼は、きっと英雄になれる。

 しかし、島を愛している筈のリントは、召集された部隊に現れることは無かった。
 それどころか、飛行機が落ちて大騒ぎの郵便飛行機組合に連絡も取らず、レンカと岬に居た。逃亡者となったリントにもどかしさを感じたのは、ほんのわずかだった。
 後は、どうしようもないほどの、彼に対する哀れみと愛しさが、ルカの胸を押し上げ、満たした。

「私は、何のために軍に入った? 何を守ろうとした……?」
 ルカの答えは、再会の時、名を呼ばれたことで、決まったのだ。

「リント。こっち」
 ルカはリントの手を引いた。なんと、通りに躍り出た。
「ちょ、ルカ?!」
 ルカはかまわずリントの手を引き、海への道を駆け下る。
 先ほどから続く騒ぎで、何事かと人々が顔を出している中を、二人が手をつないで駆け抜ける。
「ちょっと!ルカ!」
「しゃべらないで、走って。追いつかれないことが大事!」
 後方に駐留部隊の仲間の声を聞きつけたルカが、走る速度を上げた。
「岬へいくよ、リント」
 リントは、ルカのスピードについていくのに必死だった。鍛えられた彼女は、ぐんぐんと風を切って、畑の道を走っていく。
「い、入り江じゃなくて」
「岬。女神像の、岬」

 逃げるとしたら、入り江に隠れることが良いとリントは考えていたのだが、ルカはあっさりと否定した。
 町の人が騒ぎ、駐留部隊の班が追いかけてくる中を、堂々と二人は手をつないで走っていく。リントは走るのに精一杯で、ルカに問い直すことも出来ない。

 リントとルカは、岬への道を駆け上がっていく。追いかけてくる集団が、リントたちを指差し、駆け上がってくる音が響く。

「リント、私を信じてくれる? 追いつかれるまで最低五分、時間がほしいの」

 東の空に月が昇ってきた。満月まで、あと三日。
 夏の中潮は、潮が高く満ちる。


 つづく。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

滄海のPygmalion 18.逃避行

瞳に映ったあなたの熱情。

発想元・歌詞引用 U-ta/ウタP様『Pygmalion』
http://piapro.jp/t/n-Fp

空想物語のはじまりはこちら↓
1. 滄海のPygmalion  http://piapro.jp/t/beVT
この物語はファンタジーです。実際の出来事、歴史、人物および科学現象にはほとんど一切関係ありません^^

閲覧数:127

投稿日:2011/07/03 14:41:12

文字数:3,570文字

カテゴリ:小説

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