目が覚めると、身体の自由が利かなくなっていた。麻痺しているというのではなく、何かで全身を抑えつけられている感触がある。暗闇に目が慣れてみると、どうやら布団で簀巻きにされた上から紐で縛られているらしいことがわかった。
「……やれやれ」
こんなことしなくても、手も足も出ないし出す気もないのに……などと思いながら左を向くと、数センチの距離に壁があった。そして右手では、リンがミニテーブルに突っ伏して、葉月はわざわざ持参したらしいマットレスのようなものに横たわって、めいめいがすやすやと寝息を立てていた。2人とも毛布などはかけていない。やけに暑いと思ったら、普段ほとんど使わない暖房がガンガンに利かされているらしかった。
「……うっ」
秋らしさを真っ向から排除したような暑さの中だというのに、ふと身震いする。……やばい。
「リン、リン?」
僕の顔に足を向けて寝ている葉月には届かないギリギリくらいの声で何度か呼びかけると、リンはパチリと目を開いて身を起こした。
「マスター……?マスター、目が覚めたの?」
葉月から背けるように移動した卓上ライトで、僕の顔を照らす。
「……おはよう」
まぶしさに少し目を細めつつ、僕はリンに微笑みかける。
「良かった……。葉月さんは大丈夫って言ってたけど、やっぱり心配だったんだ」
そう言って笑うリンの目に、何やら泣き腫らしたような赤みがさしているのが見えた。
「ごめん、ちょっと急いで紐を解いてもらえるかな」
「え?」
きょとんとするリンに、少し焦りを顕にしつつ告げる。
「と、トイレ」
「あ……」
慌てて立ち上がると、リンはテーブルの上のカッターを掴んで駆け寄ってくる。
「今、切ってあげるね」
用が済んでから元に戻さないと大変なことにならないか、とも思ったが、
「絶対ほどけないって、葉月さんが言ってたから」
ということで、まったくさすがと言う他ない。――本当に、さすがの恐ろしさだ。
リンが5本の紐を切り終え、布団をはがしてくれたところで、僕はありがとうと告げるが早いか立ち上がり、トイレに駆け込んだ。
用を済ませて元の場所に戻ってくると、リンはライトの明かりで何かの紙切れに目を落としていた。ふん、ふーんとかすかに鼻歌を歌っているらしいことはわかるが、何の歌かは聞き取れない。
「あ、おかえり」
顔を上げて微笑むリンに、果たして見えるだろうかと思いつつ微笑み返す。
「何見てたの?」
訊ねてみると、リンは紙を取り上げ、ライトの光が当たる位置に広げてみせた。
「……ああ、それか」
リンが見ていたのは、僕が彼女に歌ってもらうために書いた最初の曲の楽譜だった。
「私ね、この曲、すごーく好きだよ」
そう言って笑うリンに、申し訳ない気持ちが募る。
「ごめんな……まだ、何もできてなくて」
リンは微笑みを浮かべたまま首を振って、楽譜に目を落とすと再び歌いだす。それは本当に、ただ頭に浮かんだメロディを、覚束ない音楽知識を絞り出しながら楽譜に起こしただけのものだった。歌詞も付いていなければ、伴奏もまだできていない。コードというものが何なのかすらよくわからない現状、何をどうしたら曲として完成に近づけられたものか見当もつかない。
しかし、それでも嬉しそうにハミングするリンに、僕は少なからず勇気づけられたのだった。
僕はテーブルの隅に押しやられていたノートパソコンを取り上げると、その場にあぐらをかいて足の間でそれを開き、電源ボタンを押した。
何か肉が焼けるような、おいしそうな匂いに鼻を刺激されて目を覚ます。顔を上げると、葉月がガス台の前に立って、鼻歌混じりにフライパンを動かしていた。少し遠巻きに、リンも立ってその姿を見つめている。
「……おはよう」
あくまでリンに言ったつもりが、葉月も同時に振り返った。
「おはよう、マスター」
「ぷっ……相変わらず、寝起きの面のひどさったらないわね」
朝から失礼千万な葉月の言動は努めて無視しつつ、リンに笑いかける。
「ソーセージエッグ、あんたも食べるわよね?」
「そりゃ、ソーセージも卵も買ってきたのは僕だしな……」
この私が作ってやろうってのに可愛くないわねえ、などと悪態をつきつつ、葉月はしっかり3人分のトーストとソーセージエッグを用意してくれた。狂人ながらこういうところはまともというか、人並みに家庭的だ。
ふとノートパソコンの画面を見ると、結局ピアノロールに2つのコードが並んだだけで、歌詞を書くはずだったメモ帳には寝落ちした後に頬や顎で入力してしまったらしい大量の意味不明な文字列が踊っていた。僕はそれを閉じ、MIDIの方は一応保存してから、ノートパソコンを閉じてテーブルの下に押し込んだ。
1人分が1皿に大雑把な盛りつけ方をされた朝食は、それでも3皿並ぶとミニテーブルの上を埋め尽くした。
「いただきます」
リンはしっかり両手を合わせて、深々と頭を下げてから食べ始めた。
「おいしい!」
ぱっと表情を華やがせて、リンはフォークを動かすペースを早める。
「そーお、いい子ねリンちゃん……陸、あんたは」
「えっ」
幸せそうに朝食を頬張るリンの笑顔に目を奪われていた僕は、急に名前を呼ばれて思わず身をすくめた。
「おいしいかって訊いてんのよ」
「……ああ、まあ……」
もっとちゃんと誉めなさいよ、と口を尖らせる葉月はしかし、朝から妙に機嫌がいいようだった。
「何かいいことでもあった?」
「ふふん、まあね」
1人わざわざナイフ(そんなもの買っておいた覚えはないので持ち込みだろう)で小さく切ったソーセージを口に運びつつ、葉月は例によって、わざわざ断る必要もないほど普段通りに、不敵な笑みを浮かべた。
「もうすぐ釣れそうだし、ね」
脇に置いたモバイルPCの画面を覗きながらそう言う葉月の真意など僕には分かるはずもないし、わざわざ訊く気にもならなかった。
……というより、わざわざ訊くまでもなく、「それ」は僕たちの前に姿を現した。
朝食を終えた僕は、当然のように3人分の洗い物をして、ついでに葉月に求められるままコーヒーを淹れようとしていた。
「……来たっ!」
そう叫ぶが早いか、葉月は何やら高速で打ち込んでいたモバイルPCを手のひらに載せて立ち上がり、留め具の一つも飛ぶのではないかという勢いで窓のカーテンを開けた。
「あっ……」
声は聞こえなかったが口の形はそう言っていたし、そう言う耳慣れた声が僕の脳内で再生された。
「なるほど、あんたが使い………ってわけね」
窓枠の脇に立って、わざわざ僕とリンに「それ」を見せつけるようにしながら、葉月は呟いた。
「それ」は、猟犬のように舌なめずりをする葉月と目を合わせたまま、指一つ動かせずに固まっていた。その姿を認めたリンは、しばらく座椅子に座ったままきょとんとしていたが、やがて少しずつ笑顔になると、すっくと立ち上がって窓に駆け寄った。
「レン!レンも来たんだね!」
リンと同様、本物と言う他ない鏡音レンの姿が、窓の向こうにあった。
僕のリンちゃんがこんなに可愛いわけが……ある(第3話 あの子が窓からコンニチハ)
リンちゃんが実体化して愉快なことになったりするSSです。
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