昨夜、というよりすでに日付が変わって草木も眠る丑三つ時と言ってもいい深夜。
カイトは自室にあるパソコンの前に座っていた。大きく伸びをして背中を後ろに反らせると、ちょうどファイルの送信が完了したことを告げる音が鳴った。
「よし、送信完了」
椅子から立ち上がり壁にかかっている時計を見れば、すでに短針は2の位置をとうに過ぎていた。
いつもならすでにベッドに潜り込んでいる時間なのだが、今日はマスターから頼まれていた歌録りをしていたらこんな時間になってしまった。
朝食は7時過ぎにみんなで食べると決められているため、さすがにそろそろ寝ないとまずい。起きられなかった場合のメイコの怒りは恐ろしく、全く起きなかった時にアイスを一週間禁止されたこともあった。たかがアイスと言うかもしれないが、カイトにとってはアイスが食べられないというのは死活問題にも近かったのだ。
弟や妹たちには呆れた表情をされたが、これだけは譲ることができない。
そんなこともあり、それ以来カイトは7時に起きることができるように、なるべく早めの就寝を心がけていたのだ。
早めに寝ても自分では起きられない場合が多いのだが、目覚ましをセットすればすんなりと起きることができるようにはなっていた。ただ、目覚ましをセットし忘れることはよくあるので、ほとんど妹たちに頼り切った起床となっていた。
「そろそろ寝ないと、まずいなあ。起きられなかったら、メイちゃんにアイス没収されてしまう……」
冷蔵庫には昼間に買ってきた新発売のハーゲンダッツが置いてある。あれを没収されたら、もう泣くどころじゃ済まないかもしれない。
明日は絶対に起きると気合を入れつつベッドに入り、枕の脇に置いてあったリモコンで消灯しようとした時。
点けっぱなしだったパソコンから、何かを受信する音が聞こえてきた。
ベッドから抜け出るのは億劫だったが、マスターからの用事だった場合無視してしまうと後から自分に被害が来ると思い、カイトはずるずるとベッドから這い出る。そして暗くなっていたディスプレイの電源を入れた。
明るくなったディスプレイの中央に映るのは、メールを受信したことを示すアイコンがぽつんとあった。
アイコンをクリックしてメールを開いて見ると、差出人は予想通りマスターだった。件名は「おまえの大事なものは預かった」だった。
「何考えてんだ、あの人。相変わらず分かんない人だな」
ぽつりと感想が洩れる。
呆れられることは多々あるが、カイトが呆れるということは滅多にない。そのカイトを毎回呆れさせることができる人が、カイトたちがマスターと呼んでいるその人だった。
メールの本文にはファイルを受け取ったという報告とよく分からない激励の言葉があった。
「君たちの新たな旅立ちを祝福する。健闘を祈る……いじょ、う?何だこれ」
メールを何度も読み返すが、数行にしか満たない本文を読み間違うはずもない。何度見てもそう読めてしまう内容に、カイトは首を傾げた。
「新たな旅立ち」という言葉が引っかかったのだ。
近々、何かを始める気もなければ、どこかに入学・入社する予定もない。
マスターの言う「新たな旅立ち」が何を指すのか分からず、カイトが眉間に皺を寄せてディスプレイを見つめる。しかし、そうやっていても何も思い浮かばなかった。
結局、マスターのいつもの悪戯だと結論付けてカイトは寝ることにした。時計を見れば、すでに3時を過ぎている。さすがに寝ないと、メイコに明日からアイスを没収されてしまうかもしれない。
カイトはベッドに潜り込んだ。そして、今度こそと思い室内の消灯した。カーテンの開かれた窓から外の光が射し込み、室内を淡く照らす。
電源の点けっぱなしになっているパソコンの稼動音が小さく響くのを聞きながら、カイトは大人しく目を瞑った。
昨夜のことを話し終わると、カイトはそっとメイコを伺うように視線を向けた。腕を組み姿勢良く立つメイコの背からは、先ほどまでの暗雲と雷鳴が綺麗に消えうせていた。
その様子に内心ホッとすると深く息を吐いた。思ったより緊張していたようだった。
「で、そのメールは消してないわよね?」
「そりゃ。スパムでもない限り、即削除なんてしないし、残ってるけど」
「じゃあ、ご飯が終わったら見てみましょう!!」
そう言い切ると、メイコは自分の席へと落ち着いた。
カイトを含め年下連中は目が点になった。一瞬、メイコが言ったことが分からなかったのだ。いや、後でメールを見るということを言っているのは分かっているのだが、何故そういうことに至ったかの経緯が全く分からなかった。
パンを一口大に千切り口へ放り込むメイコは、自分を見つめる視線に気づいて首を傾げた。
「どうしたの?」
「なんでメール見る必要があるの?」
「ああ、あのマスターのことだから、何かメールに仕込んでないか気になってね。でも、すぐに見ないといけないわけじゃないし、朝食が終わった後でも大丈夫よ」
にっこりと笑ってスプーンを持つメイコの目は、その表情とは裏腹に笑っていなかった。
再び、リビングの空気が凍る。
ミクは小さく「そうだよね……」と言った後、メイコから視線を逸らせて朝食を再開した。リンもレンもミクに習い、何事もなかったようにパンに手を伸ばす。
触らぬ神に祟りなしだ。
この場は何事もなかったように切り抜けるしかない。そう直感が告げていた。
カイトは疲れたように天井を見上げた後、厄介なことになりそうだと深くため息を吐いた。
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