第二章 ミルドガルド1805 パート21
それは、迷いの森以上に不思議な場所であった。
目の前に見えるのはまるで村の入り口をあらわす門扉のように植えられた二本の大イチョウ。その大イチョウの奥に見えるのは赤煉瓦作りの聖堂であった。横に長く造られているその聖堂は相当数の部屋が用意されているらしい。ここがビレッジだろうか、とリーンが考えたとき、ハクが全員に振り返り、そしてこう告げた。
「ここがビレッジよ。あたしの、生まれ故郷。」
やはり、とリーンが考える。直後に、ルカが口を開いた。
「あの時と同じままね。」
「ご存知なのですか?」
ハクが少し驚きを見せた表情でルカに向かってそう訊ねた。
「エノーがこの村に引っ込んで行った直後に、一度だけ。もう数百年も前の話になるけれど。」
そう言いながらルカは過去を懐かしむかのように瞳を細めて見せた。
「大婆様に?」
ハクがそう訊ねると、ルカはほんの少しいたずらっぽい笑みを見せてから、こう言った。
「そうよ。さぁ、エノーに会いに行きましょう。」
言い終わるとルカは聖堂へと向けて颯爽と歩き出した。その後ろに、戸惑った表情のままであるハクが続き、リンがハクの隣を歩き出した。その二人についてリーンが歩き出そうとしたとき、何の前触れも無く聖堂の玄関が開かれた。その玄関から現れた人物は年のころはもう百も越えているように見える老婆である。
「久しぶりね、エノー。」
ルカは聖堂の玄関口で歩みを止めると、その老婆に向かってそう声をかけた。老婆はそのルカの姿を確認し、背後から付いてきている合計五名の表情をじっくりと観察するかのように眺め渡すと、視線をハクに戻してからこう告げた。
「良く戻ってきたね。」
その言葉に、ハクは緊迫した、不安そうな表情で小さく頷いた。エノーと呼ばれた老人はそのハクの姿を見て僅かに瞳を細めると、続いてルカに向かってこう言った。
「何しに来たんだい?」
僅かに毒気が含まれているその言葉にルカは苦笑しながら、こう答える。
「分かっているくせに。」
「もう一度異世界の扉を開くというのかい?」
ふん、と鼻で鳴らすような冷淡な口調でエノーはそう言った。
「それが必要だから。」
「開くには三つの鍵が必要だよ。」
「もう、揃えているわ。」
ルカはそう告げると、ハクの姿を視界に収めた。そして、言葉を続ける。
「一つは場所。それは即ちビレッジ。もう一つはアイテム。それは緑の国に伝わる王家のクリスタル。最後は人。即ちハク。」
あたし?
その言葉を耳にした瞬間、ハクは自分の耳がどうにかなってしまったのではないだろうか、という感覚を味わうことになった。あたしが、異世界との扉を開く鍵。そんな力があることなど今まで考えたことも無かったし、そもそも魔術と言うものに触れたこともない。その無力な自分自身に、その様な力があるなど、到底信じることが出来なかったのである。何かの間違いだろう、とハクは考え、否定の言葉を聴きたくて思わず視線を送った先、エノーはしかし、それに対してはなんら反論せず、代わりにルカに向かってこう答えた。
「どうしてハクが鍵だと分かったんだい?」
「簡単よ。」
ルカはそう言うと、懐かしむように瞳を細めながらこう言った。
「緑の国の始祖、フェルナンデスも立派な銀髪の持ち主だったから。それも、緑髪ばかりだった一族の中で唯一の、ね。」
その言葉に、ハクは戸惑った様子で息を呑んだ。そのハクの様子を眺めて瞳を細めたルカは、続けてこう告げた。
「ビレッジの構成員は元々緑の国の王族よ。異世界の秘密を守るために王家とは別にこの場所に残ったの。でも、時が流れるにつれて誰もがその事実を忘れてしまった。」
あたしに、ミクさまと同じ血が流れている?
ハクが整理できない思考の中でそう考えたとき、厳しい口調でエノーは言葉を返した。
「鍵だけでは異世界の門を開く訳にはいかないよ。明確な理由。それが無い限り、許可することはできない。」
「理由なら、あるわ。」
それでもルカは冷静にそう答えると、背後に控えたリンとリーンの姿を視界に収めた。そして、言葉を紡ぐ。
「黄の国の王族最後の生き残りであるリン。そして、二百年後から現れた未来人リーン。本来出会うはずも無い、同じ魂を持つ人間がこの場所に揃った。そしてリーンは聞いたと言うわ。森の意志を。彼女は千年樹に導かれてこの時代にやってきた。」
ルカが言葉を切ると、エノーは興味深そうにリーンの姿を観察し始めた。暫く思考するように沈黙を保った後、エノーが再び口を開く。まるで深い嘆息を漏らすように。
「白ノ娘が、悪ノ娘と触媒となる娘を連れてきた、ということか。これも運命やもしれぬな。」
「許可を頂戴。エノー。歴史を変革するために。」
続けて、ルカが静かにそう告げた。その言葉に、エノーは諦めたかのように瞳を一度閉じる。一陣の風がエノーのくたびれた緑髪を撫で、そして吹き去っていった。そして、重たい沈黙を破るかのようにエノーが口を開いた。
「異世界に向かうことが出来る人間は限られている。見たところ、悪ノ娘と触媒の娘の二人しか向かうことが出来ぬだろう。」
「構わないわ。」
そう告げたのはリン。
「二人なら、何処へでもいける。」
つづけて、リーンもそう言った。二人なら、どんな困難があっても大丈夫。そして、必ず何かを変えることが出来る。リーンはそう考えたのである。その二人の、四つの視線を受けて苦笑するかのような笑みを見せたエノーは、今度はハクに向かって言葉を投げた。
「ハク、ただ王家のクリスタルに身を任せるといい。そうすれば道は開ける。」
あたしが、道を開く。
言葉を失ったかのようにただ呆然と沈黙したハクに向かって、リンは優しい笑顔を見せながらこう言った。
「ハク、お願いしてもいいかな?」
「リン。でも、あたし、やり方が分からないわ。成功する保障もない。」
もし、もし仮にあたしに異世界への扉を開く力があったとして。リンを異世界へと送り出して、そしてリンが無事にミルドガルドへと戻ってくるという保障は今のところ何もない。もうこれ以上親友を失いたくない。ハクが思わずそう考えたとき、リンはハクの掌を優しく握り締めた。
「大丈夫。ハクのことを信じているから。それに、あたしとリーンしか行くことが出来ないみたいだし。」
「でも。」
「ちゃんと戻ってくるよ、ハク。あたし、ハクの事大好きだから。」
そう言って、リンは少しだけハクの手を握る力を強くした。少しでも自らの体温をハクに受け渡すかの様に。そして、言葉を続ける。優しい言葉を。
「だから、お願い。ハク。」
そう言ってリンは手を放した。再び自由になった手で、ハクは首元のクリスタルに触れる。その時、クリスタルが一際大きく輝いた。
「そのまま、身を任せると良い。」
エノーの声が響く。溢れ出した光を抑えるようにハクは両手でクリスタルを握り締めた。直後に、記憶が遠く遥かなる過去へと遡って行くような感覚をハクは味わう。自らの培ってきた歴史?いいえ、違う。もっと過去、あたしの血に流れている王族の記憶。
「主よ、ミルドガルドの創造主よ。」
無意識のままにハクの唇から言霊があふれ出す。今まで唱えたことも無い祈りの文句にハクの自我は戸惑いを見せたが、無意識は何事も無かったかのように言葉を紡いで行った。自我の記憶が薄れ、過去と現在が同期してゆく。自らがまるで粒子になったかのような自由を味わいながら、ハクは言葉を紡ぎ続けた。
だから、ハクの耳には届かなかった。
鋭い殺気が、ビレッジを一瞬で覆い尽くしたことに。
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