目を覚ましたとき、真っ先に目に入ったのは真っ赤な空だった。
 まるで世界が終わってしまうような不安を与える赤く染まった色に目を覚ましたばかりの私は手を伸ばし、そして手を伸ばしきる前、透明樹脂の冷たい感触が指に触れた。意識がはっきりと覚醒していく。自分を囲むのは狭い空間。まるで棺桶のような冷凍睡眠装置。ああ。とまだほんのすこし現在と過去とが入り混じった意識のまま、私は手元にあるスイッチをいくつか押した。ロック解除。かちかち、と自分を収納していた棺桶のようなこの装置のロックが外れる音を耳に届く。本来ならば自動で蓋も開くはずなのだが、長い年月を経たせいで蝶番が壊れてしまったのかもしれない、蓋はほんの少しだけ開いただけで止まった。
 ほんの少しの隙間から入り込んできた、記憶していた空気よりも酸素濃度の濃い、大気。
 重い蓋をゆっくりと持ち上げて外す。湿度も高いのだろう、ねっとりとした質量を有する空気が肌にまとわりつく。私は蓋を無理やりこじ開けて棺桶のような冷凍睡眠装置から起き上がり、外へと出た。
 風が、私の二つに結い上げた長い緑の髪を揺らして、通り抜けた。
 眠りに落ちる前の記憶では、巨大なビルの中に冷凍睡眠装置は置かれていたはずであり、私以外にはたくさんの人間がその中に収められていたはずだった。
 私が立っているのは、かつてビルだった建物の残骸の中だった。壁も崩れ落ちて床も穴だらけだった。土が堆積し、生命力の強い植物が侵食し、その太い枝や幹がこの建物を支えているようだった。崩れ落ちた部屋の片隅に、私が収納されていたのと同じ形の冷凍睡眠装置が無造作に転がっているのがいくつか目に入った。そのどれもが機能していない様子だったので、私はそっと目をそらした。中にいた人間達が目を覚ましてから装置は壊れてしまったのだと、そう願いながら。
 ビルの天井はなくなっていて見上げれば空がよく見えた。真っ赤な空が広がっていた。朝焼けだろうか、それとも夕焼けだろうか。それとももう、この世界の空は青ではなく赤なのだろうか。
 床が崩れいているぎりぎりのところまで進み、私は外を見回した。ぎらぎらと刺すような攻撃的たオレンジ色の太陽にかすかに顔をしかめる。

 眠りに着く前に記憶していた世界と、全く異なった風景がそこには広がっていた。

 遮るものがなにもない、人間の文明と呼べるものが効力を示さない、小さくてか弱いものなど簡単に押しつぶしてしまうような、そんな世界の光景。
 湿度と酸素濃度が高い空気が風となり、私の二つに結った長い髪を、ミニスカートの裾を、首に巻いたネクタイを揺らし、舞い上げる。
 ああ。とうめき声にも似た嘆きの声が私の声帯から漏れる。こらえることのできない嗚咽がこぼれ落ちる。目をそらしたい現実から目をはなすことができず、顔を歪めて泣くばかり私を、苦笑しながら抱きしめてくれる人は、ここには、けれどいない。
 
 本当に、世界は終わってしまったんだ。


 なんにもなくなっちゃった世界で、ミクの歌声が響いたらきっと気分爽快なんだろうなぁ。
 どんなふうに響くのか、この耳で聴きたかったなぁ。

 あと1年後には隕石がたくさん落っこちてきて世界が終わってしまう。そんなニュースが流れて、世界各地で暴動が起きたり宗教にすがったり科学の力でなんとかしようと頑張ったりしている人たちがいるなか、そう、マスターは無邪気に笑って言った。
 
 私のマスターは世の中にあるたくさんの音楽を、私に教えてくれた。マスターには絶対音感というものがあったのだと思う。聴いた音は全て音符に当てはめて再現する能力があった。マスターの手にかかれば世の中のすべての物音に音階があり、世の中で鳴り響くすべての音が神様から届けられた音楽だった。
 一度耳にすればどんな曲だって再現することができた。有名無名にかかわらず、気に入った曲があればマスターはどんどん私に教えて歌わせた。マスターはその身の内に取り入れた曲を私という媒体を使って構築した。動画などにして投稿する際は、流石に全く同じ音にしてしまうことは避けていたが、それでもほとんど同じ音を再現してしまうマスターのカバー動画は、よくコメントなどで「猿真似」と呼ばれていた。
 「猿真似」「偽物」「盗作」
 ひどい言葉をたくさん言われたのに、マスターは私に歌わせることを止めなかった。オリジナルの音楽が作れないのに、原曲そっくりの音ばかりを、マスターは私に歌わせ続けた。
 なんで?と訊いたことがあった。なんでマスターは私にカバー曲を歌わせるの?と。

ーだって、世界には素敵な音がたくさんあって、素敵で可愛くて格好良い音楽がたくさんあって、それでもって私のそばには素敵で可愛くて格好よくてたまらないミクの声があるんだよ?そんなの歌わせたいに決まってるじゃない。それに、こんなに楽しくて仕方のないことをちょっと悪口言われたくらいで止められるわけないよー
 至極真面目な顔で、マスターはそう言い切った。
ーちょっとどころの悪口なんですか?これー
 パソコンのデスクトップに流れる荒れに荒れたマスターの動画。それを横目で見て、首をかしげながら私が問いかけると、マスターはバツが悪そうに肩をすくめた。
ーやっぱり原曲が大好きな方々には、原曲を冒涜しているとしか思えないよね。しょうがないよね。ホント、ただのまねっこなわけだしー
ーマスター自身がオリジナルの曲を作ればいいだけだと思うんだけどなー
ーミクの可愛い声が、私なんかが生んだ音を奏でるなんて勿体無いにもほどがあるんだけどなー
ーいやいやいや。マスター。もったいないことなんてないですよ。マスターが即興で弾くピアノとか、大好きだもん私ー
ーそう言ってくれるのはミクだけだよー
ーじゃあじゃあ、私のためだけでいいから、曲を作ってください。マスターお願いー
ーうーん、可愛いミクのためなら…一曲ぐらい、なら作れる…かな?ー
あまり期待しないでね。と困ったように笑ったマスターは、けれど、ちゃんと私との約束を果たしてくれた。
 たった一曲だけ作られた、マスターのオリジナル曲。完成したあと、けれどマスターは動画に上げることはしなかった。
ーミクのためだけに作ったんだから、他の人に聴かせなくていいんだー
そう屈託のない笑顔で笑ったマスターに、なんて勿体無いこんなに素敵な曲なのに。と私は残念に思ったものだった。その時は。

 
 一年後にたくさんの隕石が降ってきて世界は滅亡する
 そのニュースが流れたとき、マスターと私は一緒に夕御飯の準備をしていた。その日の19時、国営放送局の臨時ニュースで重大な発表が行われるとの通達が数日前から流れていて、あらゆる企業や学校がその時間帯には家にいられるように就業時間を早めたりしていた。
 マスターもまた定時より早めに仕事を終えて帰ってくることができ、一緒にほんの少し凝った料理を作っていた。
 次の日は休みで、大好きなネギ料理、たくさん食べても臭いを気にしないで済むのが嬉しいな、とか、来週一週間分の食材を明日は買いに行かないとね。なんて話をマスターとしていて。一応、大事なニュースが流れるらしいから指定のチャンネルに合わせてテレビをつけてはいたけれどあまり気にしていなくて。それよりも、台所に置いてあるラジオから流れるクラシックを今風にアレンジした音楽の方が耳に優しくて。
 だから、突然聞いていたラジオの音楽が止まって、DJの人が硬い声でテレビをつけて国営放送にチャンネルを合わせてください。ってアナウンスが流れたとき、何が起こるんだろ?ってキョトンとしながら私とマスターは顔を見合わせていた。

ーここで皆様に大切なお知らせがあります。落ち着いて聞いてください。…出来ることならば大切な人の手を握って、この知らせを聞いてくださいー

 そんな前置きを置いた、国営放送のきちんとした身だしなみの男性アナウンサーの声が揺れていたことを、よく覚えている。
 テレビの前へ移動して、マスターが、私の手を握り締めた。私も、マスターの手を握り締めた。
 そして、少し揺れた声でアナウンサーが告げた、1年後には地球は滅亡するというニュースを、私はマスターの手のひらの暖かさを感じながら受け止めた。

ーあーうん、まあ、とりあえずご飯食べようかー
しばしの沈黙の後に、いつもどおりの声でマスターが声をかけてきた。そっとつながれていた手は解けて、マスターのピアノを弾く人の硬い指先が私の肩を軽く叩いた。
ーほらミクの大好きな唐揚げの塩ネギダレ漬けが冷めちゃうよ。運ぶの手伝ってー
なんてことを言いながら、マスターが台所から料理が盛り付けられたお皿をリビングのテーブルに運んでくる。その動きにつられて私も緩慢な動きながらもマスターを手伝って、茶碗にご飯を盛り、味噌汁をよそった。
ーはい、いただきますー
ー…いただき、ますー
機械である私に有機物のエネルギー摂取は必要ない。本来電力だけ与えればいいのだ。だけどマスターは、私と一緒にご飯を食べることを求めた。美味しいものを大好きな人と一緒に食べることができるのって、本当に幸せだよね。そうマスターが笑顔で言うから、私は本来必要のないはずのものを美味しく感じることができた。

ーご飯食べ終わったらさ、さっきラジオで聴いた曲を検索しようよ。チェロの音だったけどひとまず私ピアノで弾くからさ、ミク、音階でいいから主旋律を歌ってよー
ーいいですよ。って、あ、ちょっと思い出したんですけど、さっきのクラシックの曲をモチーフに作られたミク歌があった気がするんですがー
ーなにっそれはかなり重大な情報。よしその曲も探して一緒に歌ってもらうからねミクー
ー了解ですマスターー

 ご飯を食べながらの他愛のない会話。どんな歌を歌おうか、とか、あの曲可愛かった、とか、あの動画は神だったよマジで。とかとか。
 それが私たちの日常だった。ご飯を食べて掃除をして生活を営んで、そして歌を歌って。
 いつもどおりの日常。当たり前だった日常。これからもずっと続くはずだった日常。当たり前の顔をしてなんでもないことのように流れていく時間が、あと1年だけで終わってしまうという事実。
 信じがたい事実に私の情報処理速度はなかなか追いついてくれず、他愛のない会話をいくつか重ねて。私は機械のはずでおかしな話なのだが、事実を事実としてなぜ素直に受け入れることができなかった。
 おかしいな不思議だな。こんなふうにご飯を食べている場合じゃない気がするのだけど、だけど、目の前でマスターが、美味しそうにご飯を食べていて、これから歌う予定の曲の話をしていて、ミク乗っかっているネギばっかりじゃなくて唐揚げも一緒に食べなよ、なんて笑いなが言ってきて。
 だけど1年後にはもうこれらすべてがなくなってしまうんだということで。
 そしてようやく現実から目をそらしていた私の中にこの情報はきちんと入力された。
ーミク?ミーク?大丈夫?ー
ごはんを食べる箸を止めて固まった私に、マスターが手を伸ばしてきた。ピアノ弾きの硬い指先が私の前髪をくしゃくしゃ、と撫でる。小さな子供を安心させるようなその指の動きに、私は甘えたくなって泣き出したくなった。
ーだって、だってマスター、1年後に地球、終わっちゃう、ってー
ーあ、うん。そうみたいだねー
嗚咽混じりに言葉をこぼす私の横にマスターは移動してきてそっと抱きしめてくれた。
 マスターの細いうでは儚くてやさしくて。お日様の柔軟剤の匂いがした。それに加えて揚げ物を作った時の油の匂い。更に付け加えてタレで使ったネギの匂い。
ーミク、ネギ臭いー
ーマスターだって同じ匂いがしますー
泣いていたはずなのに、なくなってしまうことに対する恐怖と悲しみに打ちのめされていたはずなのに。日常が生む何気ない物事はこんなにもまろく優しく、私たちを包む。
 泣き笑いの微妙な表情の私を抱きしめたままどうにもならないことって、あるよね。とマスターは言った。
ーなんていうかさ、隕石がたくさん落っこちてくるだなんて、私らにはどうすることもできないじゃん。かといって、誰か何とかしてよ、って思っても、なんとかできる人たちは既に、なんとかしようと色々頑張っていると思うんだよね。だからさ、いつもと同じに過ごそうよー
ーいつもと同じに?ー
ーそう、ミクにたくさん歌を教えるからさ。ミクはたくさん歌ってよ。それでいい。それで十分ー
屈託のない調子でマスターはそう言った。けれど、地球が滅亡するニュースを伝えたアナウンサーのように、ほんの少しだけその声は揺れていた。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
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あなたと私だけの歌【終末ボカロ企画・pixvより】

pixivでの企画「終末世界のボカロ作品を書きませんか」にそっと乗っかって投稿した作品です。
そっとピアプロにもうp。

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企画元⇒「終末世界のボカロ作品を書きませんか」
http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=36798456

閲覧数:1,178

投稿日:2013/07/08 14:40:03

文字数:5,196文字

カテゴリ:小説

ブクマつながり

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