第四章 06
駆け寄る近衛兵たちの様子に吟遊詩人は演奏をやめ、踊り子も周りの者たちも踊りをやめて不安そうに近衛兵を見た。
「……姫が王宮から姿をくらませておられる。誰か、焔姫の姿を見た者はおらぬか!」
近衛兵の言葉に、周囲の者たちは騒然となった。
「姫様が?」
「……そんな馬鹿な」
「姫様……」
「重ねて問う! 姫を見た者はおらぬか?」
お互いがお互いの顔を見合わせ、皆が首を横に振る。店内を振り返ると、先ほど自慢げに焔姫の事を話していた店主や給仕の娘が青い顔をしていた。店の女将も手を止めて驚愕に目を見開いている。
焔姫には誰もが傲岸不遜だとか苛烈だとかのイメージを抱いているが、戦以外で王宮を出る事はまず無い。個人個人に対してはともかく、この都市国家に対して何かしらの迷惑になってしまうような行動をとった事は皆無だった。そういう意味では、焔姫が行方不明になるなどという状況が起こりうるとは、この国の誰もが予期していなかったのである。
当然、焔姫は今まで街中へと出てきた事はない。皆があり得ないと思っていた事もあり、すぐそこに本人がいるという事実に気づいていなかった。
それは近衛兵たちですら同じだったようで、平服を着た焔姫がすぐそこにいるというのに気づきもしない。その事に安心しながら、焔姫と男は近衛兵たちにばれないようにこっそりと一歩下がる。
店の脇まで下がり、男は焔姫を見る。
「一晩の夢も……これで終いじゃな」
焔姫はさみしそうに笑うと、男とともに近衛兵に見つからないように裏路地へと入った。
「……皆にこれ以上迷惑をかけるわけにはいかん。早く戻らねばな」
「……申しわけありません。ここまでの騒ぎになるとは」
「よい。なれにも迷惑をかけるわけにはいかんから、誰にもばれぬようにせねばな」
こんな状況だというのに、そう言う焔姫は少し楽しそうな表情をしていた。
二人は裏路地を抜け、近衛兵を避けながら王宮へ戻る。普段こういう事が無いせいなのか、手薄なところを通り抜けていくのはそこまで難しくはなかった。
「これはこれで……余の軍の練度が低いのではと思えてしまうの」
焔姫が道中そう漏らしてしまうほどで、二人は危なげなく王宮に帰還する。
近衛兵たちは総出で街中へと出ていってしまったのか、その裏口もひと気がなかった。
侍従たちを避けながら王宮内を抜け、男の居室へと入る。ここに焔姫の服を残してきたからだ。
部屋の扉を閉め、二人はほっと息を――。
「……おかえりなさいませ。姫」
その落ち着き払った声に、二人はぎょっとして振り返る。
明かりのない室内には、人の気配などまったく感じられなかった。だが、扉のすぐ横には確かに男が立っていた。そしてこの声は男にも聞き覚えがある。近衛隊長だ。
「……すべてお見通しだったという事かえ、アンワル?」
暗がりで近衛隊長は首を振る。
「いいえ、すべてと申し上げるつもりはありません。ですが……おおむね想定通りになった事は否定しません」
「……王宮の警護を手薄にしたのもわざとという事か」
「ええ。姫様と楽師殿がこの部屋にやって来やすいように指示をしておきました」
焔姫の信頼が厚い近衛隊長だけあって、頭が切れる。彼の雰囲気を前に、焔姫はともかく男は動く事など出来なかった。近衛隊長に殺意は無さそうだが、しかし押し殺した怒りが伝わってくる。
「事態が発覚して私はまずこの部屋に来ました。楽師殿がいらっしゃらない上に、ここで姫の衣類を確認した以上、楽師殿の関与は決定的です。それが分かれば、無理に探す必要はありません。万一に備え国から出ていく者を監視した上で、この部屋で待てばいいだけです」
近衛兵に隙などなかった。二人は近衛隊長の思惑通りに動いていただけだったのだ。
「……残念です」
その彼の言葉は、黙認するつもりがない事を明確に告げていた。
近衛隊長は手を伸ばして内側から扉をノックする。と、松明とともに五名ほどの近衛兵が入ってきた。それだけでなく、近衛兵のあとから宰相も入ってくる。
「このような事が無ければ、楽師殿は姫に相応しい方だと思っていましたが……」
近衛隊長は表情を消したまま続ける。
松明の明かりで、男にはやっと近衛隊長の顔を見る事が出来た。普段の穏和な近衛隊長しか知らない男には、そこに立つ人物が同一人物とは思えなかった。それほど、雰囲気が違ってしまっている。
「規律は絶対であり、いかなる例外も認められない。……姫の言葉でしたね」
反論の余地を先に潰され、焔姫はのどの奥でうめく。
男も、その言葉を焔姫から聞いた事がある。あれはいつの事だったか。
「姫! 心配しましたぞ。まさか楽師殿にたぶらかされるとは……」
「何を。サリフ、汝は――」
心外そうに口を開く焔姫の言葉など、宰相は聞く耳を持たなかった。
「姫をたぶらかして何をしようとしたのかは知る気もないが……楽師殿、見損ないましたぞ」
「……」
男は反論しなかった。
焔姫のためにともともと覚悟の上でやった事だ。焔姫を街中へと連れ出した事が間違っているとは欠片も思っていないが、それがこの都市国家としてやってはならない事だというのもまた理解している。自らの立場はどうなっても構いはしないが、下手な事を言って焔姫の立場をより苦しいものにしてしまうのは避けたかった。
焔姫は、この国に必要な人物だ。自分のせいでこれ以上の余計な汚名をつけるわけにはいかない。
「楽師殿……いや、元楽師殿を捕らえよ。明日、国王より罪状が言い渡される」
「サリフ!」
その罪状が死罪以外に無い事が分かっている焔姫は、怒号を上げる。男にとって期待出来る事は、せいぜいそれがどれほど苦痛の少ないものであるかどうか、という事くらいだろう。
焔姫の怒号も、宰相はまったく意に介さなかった。
「……姫。普段のわがままとこれは話が別ですぞ。国王からは、姫にも数日の謹慎が下る事でしょう」
近衛兵が男を捕らえる。
男が連れ去られるのを、焔姫は泣き出してしまいそうな顔で見つめていた。
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