それからというもの、リンが昼にやってくることはなくなりました。来るのは夜になってからか、まだ明ける前のどちらかです。そして、細かくしたパンを池に投げると、あわただしく行ってしまうのです。今までのように、池のほとりにたたずんで、レンを眺めながら、あれこれ話してくれるということはなくなりました。当然、歌を歌ったり、絵を描いたりすることもです。
レンは、リンの訪れが減ってしまったことや、話をしてくれなくなったことが、淋しくてなりませんでした。魚になってしまってからというもの、レンは誰とも話をしていません。リンに話しかけることこそできなかったものの、自分に話しかけてくれるリンの声を聞くことが、今ではレンの何よりの楽しみとなっていました。
レンはしばらくそうやって淋しがっていましたが、やがて、リンの様子が変わってきたことに気づきました。今まで、ちゃんとした格好をして身ぎれいにしていたのに、明らかに、着ているものがみすぼらしくなり、全体的に薄汚れてきていました。きれいな金髪も、汚れて輝きを失ってしまっています。
それだけではありません。以前と比べて、リンは明らかに痩せてきていました。表情に苦悩の色が濃くなり、かつてのような明るい笑顔を見せることは、まったくといっていいほど、なくなりました。餌をくれる手はがさがさに荒れてひび割れ、身体のあちこちに、傷や痣ができているのも見てとれます。
レンは不安でなりませんでした。リンの身に、何かが起きているのです。でも、それが何なのか、リンは教えてくれようとしません。言葉を伝える術があれば、レンはリンを問い詰めていたでしょう。でも、魚であるばかりに、それができないのです。
リンはどうしてしまったのか、そればかりを考えていた、ある日のことです。レンに、聞き覚えのある声が、かけられました。
「どう? イタズラ好きの王子様。少しは反省なさったかしら?」
からかうような声に、レンは聞こえてきた方を向きました。そこにいたのは、ルカでした。どういうわけか、今のレンと同じぐらいの大きさに縮んでおり、すぐ近くを漂っています。
「あんた……!」
レンは、いらだちをこめてルカをにらみました。ですがルカは、涼しい表情をしています。それどころか、レンの前で大げさにため息をついてみせました。
「どうやら、反省はされていないようね」
「うるさいなあ! なんで反省しなくちゃならないんだよ!」
不思議なことに、ルカの言うことは、はっきり聞こえるのでした。そしてレンの言うことも、ルカに伝わっていました。
「あらあら、まったく反省していないなんて、困った王子様ね。それじゃあ、私は退散するわ……でも」
ルカはレンの方を見て、くすっと笑いました。そして、余裕に満ちた態度で、こう言ったのです。
「あなた、いつも餌を持ってきてくれる女の子が、どんなことになっているのか知りたくないのね?」
レンは言葉につまりました。それは、レンが今、知りたくてならないことです。リンがいったい、どうしているのか。
「それは……知りたい」
「そう、知りたいの。で? 人に物を頼むときは、どうするのだったかしら?」
レンは内心煮えくり返っていましたが、それでも、ルカに向かって頭を下げました。今は彼女しか、頼れる人がいないのです。
「お願いします。どうか、リンがどうしているのかを教えてください」
ルカは頬に指を当て、思案する表情になりました。そんなルカを、レンはじりじりしながら見ていました。魚の姿でなかったら、飛び掛っていたでしょう。もっとも、飛び掛ったところで、無駄だったでしょうが。
「うーん、そうねえ……ぎりぎりだけど、合格点をあげましょうか」
「教えてくれ! リンはどうしているんだ?」
「話すより、見た方が早いわ。少し待ってて。あなたの意識だけ、連れて行くから」
ルカが手にした杖をかざすと、レンは、自分の身体が軽くなるのを感じました。いえ、違います。レンの意識だけが身体を抜け出して、空中に漂っているのでした。
「こっちよ。私たちの姿は誰にも見えないから、そっちの心配はしなくていいわ」
ルカに導かれた先は、あの大きなお屋敷でした。意識だけになった二人は、石の壁をすり抜けて、建物の中にするりと入り込みました。
レンはあちこちを見回しました。お城ほどではないものの、お金のかかった調度品が並んでおり、裕福な家であることが伺えます。
「リンはどこ?」
姿が見えないのなら、声も聞こえないでしょう。レンは、ルカに尋ねました。
「あわてないで、こっちよ」
ルカに連れて行かれた先は、屋敷の厨房でした。そこの洗い場で、リンは皿を洗っていました。脂にまみれた食器を洗い桶に入れ、お湯を注いで、布でこすっています。
「リン! 何だって皿洗いなんか」
リンは、ごく普通の家の娘だったはずです。それがどうして、こんなお屋敷で皿洗いなどしているのでしょうか。
「黙って見てなさい」
レンが見ている前で、リンは皿洗いを終えました。重い桶を運んで中の水を捨てると、皿を拭いてしまっていきます。かなりの重労働らしく、リンの額には汗が浮いていました。
ようやく、全部のお皿をしまってしまうと、リンは一息ついて、壁にもたれかかりました。これで少しは休憩できるのだろうか、そうレンが思った、その時です。
「誰が休んでいいと言った! 早く鍋を洗ってしまえ!」
料理長とおぼしき人が、リンを怒鳴りつけました。リンは飛び上がると、かまどに向かいました。大きな鍋にお湯を沸かすための水を入れようとしますが、疲れていたのか、よろけて、鍋をひっくり返してしまいます。汚れた水が、厨房の床一面に広がってしまいました。
「何をやってる、このグズ!」
料理長はリンに近づくと、その頬を力いっぱい張りました。弾みで、リンはさっきの水たまりの中に、倒れてしまいました。
「リンに何てことするんだよ!」
思わず、レンは叫びました。ですが、誰にも聞こえていません。料理長はレンの目の前で、リンをののしっています。
「この役立たずが! 誰のお情けで、ここに置いてもらえるのか、わかっているのか!?」
リンはうつむいたまま、答えません。厨房には他にも働いている人がいましたが、とばっちりを恐れているのか、誰一人、リンを助けようとしませんでした。
「とっととその床を掃除して、それから鍋も綺麗にしろ」
リンはよろよろと立ち上がると、掃除道具を取りに行きました。頬を涙が伝っています。
「なんでこんなことになっているんだ?」
レンは、ルカに尋ねました。リンは確か、自分と同じ年でした。餌をくれながら、いくつになったのか、話してくれたことがあったのです。レンはリンのことなら、たいてい知っていました。リンはあの家で、母親と二人で暮らしていたはずです。父親は事情があって離れたところに住んでいるとかで、時々、二人を尋ねて来ていました。父親が来る日、リンがとても嬉しそうにしていたのを、レンは思い出しました。確か、池に父親を引っ張ってきて、自分を指差しながら「この子、市場で買ってもらったの。きれいでしょ? それに、頭もいいのよ。わたしが呼ぶと出てくるの」と、言っていたことがあったはずです。
「じゃあ、ちょっと事情を聞いてみましょうか」
その言葉とともに、近くにあったルカの気配が、ふっと消えました。そして次の瞬間、厨房にある勝手口の扉から、呼ぶ声が聞こえてきました。
「すいません、どなたかいらっしゃいませんか?」
近くにいた人が、扉を開けました。するとそこには、フードのついたマントを羽織り、荷物を抱えたルカが立っていました。
「私は小間物を商っているのですが、良かったらおひとついかがでしょうか? 要望があれば、占いもしますよ」
明らかにうさんくさい様子なのですが、人々はルカを中に入れました。ルカの魔法のなせる技なのかもしれません。ルカはたくみにあれこれ喋り、働いている人たちの運勢を占ったり、ちょっとしたものを買ってもらったりしていました。
ほとんどの人の占いをしたり、品物を買ってもらったりした後、ルカは、リンに声をかけました。リンは床の掃除を終え、鍋を磨いているところでした。
「そこのお嬢さん、良かったらあなたも占ってあげましょうか?」
「いい……お金、持ってないから」
リンはかぶりを振ると、そのまま、鍋磨きを続けました。
「そう? でもあなた、気になる相をしているのよね。もしよかったら……」
「そいつに構うんじゃない!」
不意に、すごい声で料理長が怒鳴りました。その天井が震えそうな声に、リンをふくめ、厨房にいた人たちは一斉に縮み上がりました。ルカだけが、平然としています。
「あら、それはどうしてかしら?」
料理長は、見るからに不機嫌になりました。そしてルカに「商売は終わったんだろ、出て行け」と冷たく言いました。
「事情が気に……」
「あんた、悪いことは言わないから、早く出て行きなさい」
ルカに、働いている女性の一人がそう声をかけました。そしてルカの手を握って、勝手口から庭に出ました。レンはリンが気になりましたが、ルカがこっちを見たので、ルカの後を追いました。
「人の家のことに、首を突っ込むもんじゃないよ」
「それはわかっているわ。でもあそこまであからさまだと、気にするなという方が無理よ。あの子一人だけまだ年端がいかないし、それにあんなぼろを着ているのも、あの子だけだわ。いったいどうしてなの?」
ルカはそう言って、目の前の女性の目をじっとみつめました。もしかしたら、何か魔法を使ったのかもしれません。女性はため息をついて、口を開きました。
「あの子は……いわゆる『隠し子』って奴でね。つまりは旦那様と、外の女性との間にできた子なのさ」
「だからって、台所で下働き?」
「事情が複雑でね。この家はもともと、奥様のものなんだよ。旦那様は入り婿で、どうしても立場が弱い。ついでに言うと気も弱い。一方で奥様は激しいご気性の方。旦那様、きっと、精神的に辛かったんだろうね。外にこっそり愛人を作って通っていたはいいが、その愛人が病気で急に亡くなってね」
レンは、はっとなりました。春になってからリンはずっと浮かない表情でした。あれは、母親の病気が原因だったのです。
「旦那様の愛人――つまり、あの子の母親だね――ってのは身寄りがなかったらしくて、あの子の引き取り先もみつからなくて、旦那様、見るに見かねて手許に引き取ったんだ」
「あれが引き取ったって言えるのかしら? 誰か人を雇って面倒を見てもらった方が、ずっと良かったように思えるけど。それくらいの財力はありそうだし」
ルカの言葉に、女性はうなずきました。
「そう思うけど、気が動転していたんだろうね。いきなりあの子をここに連れて来てしまって、わけを話してしまった。おかげで奥様は大激怒。問答無用で厨房に連れて行って、ここで一番きつい仕事をさせろと命じてしまったのさ。旦那様は奥様には逆らえないし、古くからいる使用人たちはみんな、奥様の味方ときている」
「さっきの料理長とか?」
「あの人、とくに奥様への忠誠心が強い人でね。若いころに大失敗をして追い出されそうになったのを、奥様にかばわれたらしいんだ。だからだろうね、あの子に手ひどくするのは」
「でも、あの女の子をいじめたところで、何の利点もないのでは? それにあんな扱いを受けていたら、下手をするとあの子は死んでしまうわ」
ルカの言葉を聞いた女性は、なんともいえない表情で、肩をすくめました。
「……仕方がないよ。きちんと結婚した両親の間に生まれて来なかったんだから」
女性の言葉に、レンは憤りました。確かにこの国には、きちんと結婚した夫婦の間に生まれなかった子は、神様の恵みを受けられないという俗信があります。それは、リンが責められなければならない理由なのでしょうか。どう考えても、納得がいきません。あんなにいい子なのに。
「そりゃ、中にはあの子をかわいそうだって思ってるのもいるよ。でも、だからって、何ができる? 奥様に逆らったら、ここじゃクビだよ。ここの給金、結構いいしね。わかったらあんたも、とっとと帰りな。で、あの子のことは、忘れてしまうのが吉だ」
「……そうさせてもらうわ」
ルカはくるりと背を向け、裏門から外へと出ていきました。レンはどうしようか迷いましたが、リンが気になったので、厨房に戻りました。
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