それは、心を砕く。
それは、心を疲弊させる。
それでも、止まらない感情の名前を、あたしは何と名づけよう?
……綸 四……
深く闇に沈む自宅は、恐ろしい程静かだった。
「……気づかれなかった…のかな…?」
正直なところ、こんな時間に自室から消えた自分に、きっと周辺は大騒ぎになっていると思っており、屋敷が近づいてくるにつれて鼓動を早くしていた綸であったが、その思いに反して屋敷周辺は実に静かであった。
かといって、正面から敷地内に入るわけにはいかない。脚の痛みはもちろんあったが、それ以上にそっと歩みを進めて、綸は屋敷をぐるりと囲む高い塀に沿って歩き始めた。
正面玄関から左へ。角を曲がり、しばらく歩いた所に、使用人たちが使う小さな出入り口がある。そこは蔦に覆われていて、一見するだけでは門扉があるとは思えない。
手探りで蔦の中の取っ手を見つけ出すと、それをゆっくりと回した。少々錆びを擦るような手ごたえがあったが、音はせず扉はゆっくりと蔦の中で開いたようだった。
蔦を潜り、そっと屋敷の庭へと入る。
静まり返った屋敷は、幼い頃から知っている建物であるのに関わらず、どこか不気味な様相で立ち塞がるようであった。
綸は一度ゴクリ息を飲むと、意を決するようにして歩き出した。
敷地内に入る事は心配していなかったが、ここからが問題だ。さすがに、この時間では台所へと繋がる勝手口も、使用人たちが生活する棟の扉も開いていないだろう。
果たしてどうしたものかと、綸が屋敷の周囲を歩き始めた時だった。
「あら、こんな時間にどうしたのかしら?」
「……!!」
闇夜を滑るような柔らかな声に、綸は文字通り肩を震わせて振り返った。
鮮やかな緋色の洋服は、この夜の闇の中でもはっきりと眼に映る。美しい絹糸のような亜麻色の髪が、女性らしい甘い微笑みを浮かべた小さな顔を縁取る。彼女は、こんな時間にこんな場所を歩いている綸を責めるといようりは、どこか楽しげな様子だ。
それでも、綸は十分後ろめたい心地であった為、彼女から一度視線を外し、それからもう一度上目遣いに見上げた。
「……鳴子(めいこ)姉様……」
綸は、彼女をそう呼んだ。
鳴子と呼ばれた女性は、艶やかに微笑むと綸を手招きした。
「いらっしゃいな。こんな所で立ち話なんて、あたしはやぁよ?」
「……あっ……のっ……」
「ほら、突っ立ってないで?」
そういうと、鳴子は颯爽と歩き出してしまった。
一瞬どうしたものかと思案した綸であったが、すぐに自分に選択の余地は無いと判断し、大人しく鳴子の後に続く事にした。
鳴子は、綸の母方の親戚にあたる。綸より四つほど年上の彼女は、このご時世…彼女の年齢でいえば珍しい独身女性だ。鳴子自身、女学校を主席で卒業し、新聞社に勤めているのだが、正直なところ男性よりも仕事もでき、頭の良い女性は結婚からは遠ざかる。つまり、世の中まだまだ男社会なのだ。女性は、三歩下がって夫と子どもに仕える良妻賢母であれ、というのが風潮なのである。
鳴子に言わせてみれば、「自分と釣り合わない男と結婚するくらいなら、一生独りで構わない」と豪語しており、親族はもちろん近所からも「行かず後家」と囁かれている事すら、笑い話としてしまうくらいの女傑である。先日など、その古めかしい風潮を打破しようと女性たちに呼びかける記事を書き、良くも悪くも有名な記者として名を上げたところだ。
そんな彼女は、仕事場に近いという理由で、綸と共にこの屋敷に住んでいる。
実は、綸を女学校に行かせるよう勧めてくれたのも彼女だった。
両親からしてみれば、綸を女学校に行かせるよりも、家の中で大人しく花嫁修行をさせたかったらしいが、そのあたりの交渉術に関して鳴子に全く歯が立たなかったらしい。
一緒に暮らしているとはいえ、そんな状況であったので、綸の両親と鳴子の関係は険悪といったわけではないが、さして良好とも言えなかった。
鳴子が偶に仕事が早く終わって帰宅した時に、一緒に夕食をとる事以外は顔を合わせる事も少ない。最も、売れっ子記者である鳴子との生活リズムが全く違うと言ってしまえばそれまでだが。
なので、実は綸自身、鳴子とこうして会話らしい会話を交わしたのは、もう何か月ぶりかも思い出せないくらい久し振りの事であったのだ。
夜も深いというのに、一分の隙もない恰好の鳴子の背中は、迷うことなく彼女が普段暮らしている部屋のある棟へと歩き続ける。
そして、その棟にある扉の眼の前で立ち止まると、何の戸惑いも迷いも無くその扉を押し開いた。
その奥へと続く通路は、淡い光に照らされている。
「さぁ、どうぞ?」
この棟は、鳴子が寝起きをしている部屋以外は、ほとんど使われていない。綸も初めてその通路を覗きこんだ。
鳴子が爪先の尖った靴をたたきに脱ぐ。それを見て、綸は自分が足袋のまま…しかも片方は怪我をして手当してもらったままである事に気が付き、袴の下に両脚を隠す。
そんな綸の様子など、すっかり見透かしたように鳴子は微笑んだ。
「いいわよ、そのまま入って?どうせ散らかってるんだから」
そう言い残すと、振り返らないまま通路の先の一際大きな扉へと向かって行ってしまう。
特に何も言わないのは、鳴子なりの優しさだろう。彼女は強い女性だ。そして、相手にも同じ強さを求める。
綸は背筋を伸ばして、鳴子の後を僅かに早足で追いかけた。
鳴子の部屋は、飾り気のない家具が必要最低限だけ置かれている、仕事を持つ女性から見れば機能的で、年頃を多少過ぎたとはいえ未婚の女性の部屋としては殺風景なものだった。
壁一面に設えてある本棚には、溢れんばかりの本が置かれており、机の上には書きかけなのであろう記事が散乱している。
整理されているとは言い難いが、決して嫌悪感は感じない。
「さ、座って」
鳴子は後からおずおずと入って来た綸に、椅子を勧めた。綸はそれに従って小さな椅子に腰を下ろす。
鳴子は棚の上から、小さな木製の箱を取り出した。そして、それを持って綸の眼の前にしゃがみ込む。
「とりあえず、怪我見せて?話はそれから聞くわ」
思わず綸は真っ赤になってしまった。
この有能すぎる女性は、一体どこまで知っているのだろう……。
「あのねぇ…足を隠しながら引き摺って歩いてるの見たら、怪我してるんだろうなぁ…くらいは想像できるわよ」
そう言いながら足を取られる。一度は逆だった。すっかり黒く汚れてしまった足袋に包まれた足を見て、鳴子は「あら反対?」と朗らかに笑った。
そして、改めて反対の足を手にする。
こちらも黒く汚れてしまったシャツの袖に包まれた足。鳴子がそれをそっと解くと、今度は空色のハンカチ。それは一部が大きく赤黒く染まってしまっていた。そして、その下には破けて足袋。その間から、生々しく皮膚の裂けた綸の素足が見えた。
「何か踏んじゃったのかしらね?」
そんな事を呟きながら、鳴子は手早く足袋を脱がし、傷を消毒する。
神経を急速に駆け上がる痛みに顔を顰める。
鳴子はそんな綸に気付きつつも、手を止める事無く、実に手際よく傷の手当てを終えた。
「さぁ、これで大丈夫よ」
真新しい包帯が几帳面に巻かれた足首を、綸は恐る恐る動かしてみる。もちろん怪我をしているのは足首ではないのだが、やはり動かすと親指の辺りからチクリと痛みが走る。だが、歩けない痛みではないし、これだけ丁寧に包帯を巻かれていれば、上から靴を履いてしまえば怪我を誰かに知られる事は無いだろう。
「ありがとうございます、鳴子姉様」
「いいのよ、これくらい何でも無いわ」
片手を軽く振りながら、鳴子は立ち上がると木箱を元あった場所へと戻す。
それから、仕事の原稿であろう紙が散らばった机の前に置かれた椅子を引くと、そこへゆったりと座って、芸術的に長い脚を組んだ。
「さて」
そして、改めて綸を見る。
「どうしたのかしら?」
「………」
もちろん、綸だってこのまま黙って鳴子が自分を帰してくれるとは思っていなかった。
しかし、こうして面と向かって真っ直ぐ聞かれてしまうと、やはり答え難かった。
そんな綸の心中を察しているのであろう。鳴子は真っ直ぐに綸を見つめたまま、それ以上は何も言わなかった。
それは、何も言わなくていい沈黙ではない。次に口を開くのは綸であるという、鳴子の確固たる意志の表れだった。
十分すぎる時間が過ぎた後、綸が一度小さく息を吸った。僅かに俯きながらであったが、ようやくその口唇から小さな声が漏れた。
「……今日…、結納の時の、お着物の採寸があったんです……」
「………」
居候している家の娘の婚約話を、鳴子が知らないわけがない。彼女は、少し顔を険しくして綸の言葉の続きを待った。
「その時……あたし……、何だか………」
あの時…着物の採寸が終った後、新たに洋服の採寸までされるのかと感じた瞬間の、脚元から得体の知れない冷たい何かがざわめきながら這い上がって来る感覚を思い出し、綸は一瞬口を噤む。そして、それを払うように頭を振った。
「……何だか、自分が……小さく、…切り刻まれる気がして……っ!!」
膝の上で握りしめた両の拳が震え、その輪郭が僅かに滲む。涙が浮かんだのだ、と実感すると同時に、小さな一滴が震える手の甲に落ちた。
「………辛かったわね」
いつの間にか、綸の眼の前に膝をついていた鳴子の手が、優しく雫の落ちた手を包む。
「何だか……何だかっ……もう、…このおうちに……あたしの居場所なんて無くて……あたしは、…あたしは、小さく、少しずつ…あたしじゃなくなるって……」
それは、今まで感じた事の無い不安だった。
家族という無償の愛に満ちた場所で、暖かく包まれていたはずなのに、ある日その場所から押し出される感覚。それも、じわじわと少しずつ。今まで自分を認めていてくれた場所に、自分の存在を少しずつ否定されていくようだった。
『もう、ここに、お前は必要ないのだ』と。
そう思ってしまった瞬間、綸の両眼からは止め処無く涙が零れた。
これ以上声を出したら、もう泣き声しか出ない気がして、綸はもう何も喋れなくなってしまった。
「……大丈夫よ、…綸」
俯く綸の頭を、鳴子が優しく包みこむように抱き締める。
「綸は、綸よ?あたしの大切な、可愛い妹」
それから、鳴子はそっと綸の頬を包むようにして手を添えて、ゆっくり視線を合わせようと綸の顔を持ち上げた。
「………っく……」
「今は、辛いわね?でも、あたしは嬉しいわ。だって、綸はちゃんと、今自分の考えを持って、悩んでる」
「………あたしの…?」
「そうよ。世の中には、そんな疑問を何一つ持たずに、ただ他人の言いなりになって生きている人もいる。自分で考えない人にとって、それは幸せな生き方かもしれないけれど、それは本当に幸せかしら?それは、本当にその人の人生かしら?」
鳴子の言葉を、綸は一つも聞き逃すまいと、じっと彼女を見つめた。
「今、間違い無く、綸は綸の人生を歩んでいるのよ?自分で見たものを、自分の心で感じて、自分で考えてる…。それは辛い事だってあるわ。心が傷つく事もあるし、誰かを傷つける結果になるかもしれない。…でも、だからってそれを諦めちゃいけないし、恥じる必要も無いのよ?あなたが、悩んで苦しんだぶん、必ずそれに見合う…いえそれ以上の答えがこの先にあるわ」
鳴子の言葉が、心の一番奥に沁み込んでいく。
綸は、もう一度鳴子の胸に顔を埋めた。鳴子は、その小さな頭を強く抱き締めた。
果たして、この子が抱えている痛みを、鳴子は共有出来る事は無いし、彼女自身、例え共有出来たとしても、それに意味が無い事を十分分っている。
他人の痛みに関して、自分に出来る事など実際何もない事を、鳴子は知っていた。
ただ出来るのは、この痛みに負けない勇気と力と信念がある事を信じる事。
――大丈夫、あなたなら、絶対に乗り越えられるわ
鳴子は、優しく綸の頭を撫でた。
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