大きく弧を描いた口元が、闇夜に浮かぶ。
反響するのは哄笑。香るのは鮮血。
その強烈な印象が、消えてくれない。
俺は椅子に腰掛け、俯いていた。
「レン、どうしたの。酷い顔をして」
「…いえ」
直属上司であるルカさんにそう言われ、一言だけ言葉を返した。
怜悧な美貌が、応じるように黙って俺の顔を覗き込む。
「嘘をつくな」「ごまかすな」。言外にそう言っているのだ。
俺は言葉を返さない。いや、正解には返せない。考える度におぞましさと憎悪がないまぜになって襲って来て、上手く言葉にならないからだ。
あの作戦から本部に帰り着いてもう数時間は経つというのに、自分でも驚く程に精神が回復していない。別に殺人現場なんて目新しくもないのに、何故今回はこんなに…
「昨日は上官について、例の殺人鬼の件に向かったのでしょう?何があったの」
「…」
口を開き―――閉じる。
…やはり、無理だ。
そんな俺をどう思ったか、ルカさんは続ける。
「上官も言っていたわ。まさか現場に立ち会うとは、思っていなかったと。今までの犯行はすべて昼間だというのに、今回に限っては真夜中。我々をおびき出そうとしていたのかも知れない、と」
「…私達は、仕留められませんでした」
「そのようね」
さらりとした言葉。これはルカさん流に、俺に続きを促しているのだ。
流石に今度は続けないわけにはいかなくて、何とか言葉を搾り出す。瞬間的に吹き上がる様々な負の感情に掠われそうになるのを必死に堪えながら。
怖い。おぞましい。そして、それ以上に―――
憎い。
「アレは狂っています。野放しにしていい存在ではなかった。仕留めるべきだった」
「…」
吐き捨てるような言葉に、ルカさんは黙って耳を傾けた。
彼女は俺の言葉を止めたりはしない。だから、一度弾みのついた感情は留まる事なく転がり、心の中の糸を搦め捕っていく。
粘性の黒い糸が加速度的に付着してみるみる体積を増す。
「あんな機会を得ておきながら、何故易々と見逃さねばいけなかったのですか!?上官から『極力手を出すな』とさえ言われていなければ、私も殺しに掛かれました!絶対に息の根を止めることが出来た筈です!なのに、何故…!」
「上官に聞いてみれば良いのでは?」
「カイト指揮官には尋ねました!」
「何と?」
「…今は言えない、と…!」
納得できない!
そう喚きたくなるのを堪えて、唇を噛む。
それでも、激情で体が震えるのは押さえられない。こうして体が震えていれば、この感情も少しはかさを減らすのだろうか。
ルカさんはそんな俺の様子に暫く目を注いでから、一つ息を吐いた。
息が詰まる、とでも言いたげに黒い制服の首元を手で直しながら静かに口を開く。
「今の貴方、おかしいわ。いつもとは大分違う。もしかしたら上官は、貴方がこうなるのを見越していたのかも知れないわね」
「!」
びくん、と体が跳ねる。
上官の考えは推し量れない。本当にそれが理由であってもおかしくない。
―――あの人に、俺は「使えない」と判断されたのか?
特別警察史上最強とされる俺の上官、カイトさん。彼の元で末端として働き始めてまだ数年だけれど、俺は彼を心から尊敬している。
その彼に「戦力にならない」と判断されたのだとしたら。
「頭、冷やしなさい」
羞恥と落胆、そして怒りに言葉を封じられた俺の前で、無情にも扉は開き、閉まった。
俺は規定の室内着に着替え、椅子に座った状態で頭を抱えた。
本当は分かっている。自分が「アレ」に何を重ね合わせているのか。
その異常な思考の方向性はやや違うにしても、人を物のように扱う遣り様や躊躇いのない動き、決して共感できない言動等が、強烈に俺に襲い掛かって来たのだ。
それは記憶の初めの方、まだ隣に俺の片割れがいた時のこと。
笑顔の記憶も幾つかあった。正直、あれが俺にとって最初で最後の笑顔の記憶じゃないだろうか。今でもそれは大切なかけらで、願わくば消えることのないようにと願う。
でも、それ以上に漠然としながらも当時の記憶を縛るのは、恐怖だ。
―――使えない。
その言葉を聞いたのは、全てを奪われたあの日のことだった。
―――所詮、こいつらも欠陥品…ガラクタか。
何のことだったのか、それは未だに分からない。あの場にいたのが誰なのか、そもそもあれが何処だったのか、それすら分かっていない。
ただ一つだけ確かなことは、俺達は良い様に使われて捨てられたということだ。
もしも。それを考えては、いつも身を切られるような痛みを感じる。
もしも誰かが彼等を止めることが出来ていたなら、俺達が分かたれることは決して無かった筈なのに。
―――レン。
二度と聞けないだろう、あの明るい呼び声。
彼女は生きているんだろうか。あの日、「使い物にならない」と分かたれた俺達。
叫んでも叫んでも、伸ばした手が彼女に届くことはなかった。非情なまでに確実に広がる距離、掠れていく声。
大きな背中に担がれた金髪が、苦しそうに揺れていた。
でも片目を潰された俺は、痛みのあまり追うことはおろか立ち上がることさえ出来なかった。あの時走って追うことが出来たら、未来は変わっていたのだろうか。
やがて、その姿が見えなくなって…
そして俺はひとり、小さな孤児院に放り込まれた。
今でも考えることがある。
連れ去られたリンは、どうなってしまったんだろう。
捨てられたのは、俺達のうちどちらだったのだろう。
彼女は死んではいない。きっとどこかで、生きている。
自分にそう言い聞かせたあの時の恐怖感は、今でもまざまざと思い出せる。
―――きっとどこかで生きている。
その思いが、俺をこの道に進ませた。
孤児院では猛勉強した。体も鍛えた。二度と同じことがあって欲しくない、その思いを胸にしてひたすら学び続けた…
…いや、飾るのはやめよう。それだけが学問に打ち込んだ理由じゃない。
暗澹とした気分になりながら、鏡に映った自分の顔を眺める。
顔を斜めに切る、醜い傷痕。そして、潰された片目。十年程経ったのにこれであれば、恐らくもう傷は消えないだろう。
―――醜悪な化け物は、俺も同じか。
自嘲気味に胸の中で呟き、椅子の背に置いた漆黒の帽子を掴む。
この帽子と揃いの黒の眼帯は、もはや手放せない。
思う。果たしてあの殺人鬼は、自分の顔を見て取ることが出来たのだろうか。
アレに語りかけられた時、俺は動揺した。怪物、化け物…不本意ながら、自分がその範疇に含まれるのだという自覚を持っているからだ。
当然だ、この場所に辿り着くまでどれほどこの痕の事で嘲られ、怯えられただろうか。
今まで友人は出来なかった。特警の中でさえ、俺の素顔に怯む人間がいる程だ。
大人達の多くでさえ俺を避けた。
―――なんて醜い。恐ろしい。
幼かった俺にはその囁きの意味がわからないとでも思っていたんだろうか?だとしたら、甘過ぎる。
俺には全て理解できていたのだから。
ただ。
なんとはなしに、俺は指先で傷痕を辿った。
姉…リンにも似たような傷痕がある筈だ。俺のものより少し浅い、でも痛々しい傷痕が。
だから、俺は堪えていられた。同じではないにしても、この痕は俺達を繋ぐ絆なんだと思うことが出来たから―――…
…いや、止めよう。
回想を頭を振って振り払い、改めてあの異常者について考える。今は思い出に浸る時ではない。
きっと、全ては見えなかった筈だ。俺がアレをしっかりと目視出来なかったのと同じく、向こうからもこちらは見えなかった。少なくとも今はそう思っていて問題ないはずだ。
最も、冷静に考えるなら、見られていようがいまいが大きな問題ではない。顔を覚えられて俺が狙われることにでもなれば逆に好都合、向かって来たところで息の根を止めてやる。
アレの常人を遥かに上回る反応速度。でも、俺には自信がある。あれなら、仕留められる。
―――心も体も、人外か。
背中を駆け上がる怖気に身を震わせながら、鏡に握り拳を押し付ける。
上官は作戦会議に際して、終始徹底してアレを「娘」と呼んでいた。
その感覚が分からない。
アレを人間だと言えるのか。国の重要部を狙って放たれる、あの狂った猛禽が人間だと?…冗談じゃない。
俺は国家のために悪を刈り取る。でもあれはもう、国家がどうのなんて可愛らしいものじゃない。
愉しんで殺戮を行う。
そんな存在が、許されるわけがない!
「何が、『何故私は生きているのかな』だ…!」
思い返せば、確かにそれは涼やかとも言える少女の声だった。あの凄惨な殺戮の場には不似合いな声で、あの場に良く合う執拗なまでに何かの感情が滲んだ口調で、あの問いは放たれた。
それは、おぞましさを増す手助けをするに過ぎない。
その声には罪悪感も何もなかった。呼吸をするように自然に、悦んで人々を殺す。
放っておけばどれ程の被害が出るか、想像するだに恐ろしい。
見たところ、歳は俺とそう変わらないだろう。それであれだけの身体能力と残虐性、知能を持ち合わせているのだとしたら…
「分からないのなら、俺が意味を与えてやるさ」
びし。
力任せに拳を押し付けていると、鏡に亀裂が入った。
部屋の景色が、俺の姿が歪む。
その歪んだ世界を睨みながら、低く宣言する。
そう、これは宣言だ。
「お前は、俺に殺されるために生きているんだ」
あの日、誓った。
悪の全てを、俺は許さない。
世の平穏を乱す存在を見過ごしたりしない。
俺から全てを奪ったものは、この手で壊し尽くしてみせると。
異貌の神の祝福を 2.L
レンは絶対容姿にコンプレックス持ってると思います。
そしてテレビっ子で本能的なリンちゃんとは逆に、レン君はエリート。友達いないし、笑う事もありません。あんまり長くする予定が無いので、ここで補足説明…
あと、書いてて浦沢直樹さんのMONSTERを思い出しました。MONSTERは名作すぎですね!
大体そんな感じかな、と思いながら描いています。ちょっと違いますが。(どっちだ)
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