注意書き
これは、拙作『ロミオとシンデレラ』の外伝です。
外伝その四十八【嫉妬は愛の子供】のレン視点になります。
よって、それまでのお話を読んでから、お読みください。
【悲しみと涙のうちに生まれ】
「そんなっ!」
リンの叫ぶ声が聞こえてきて、俺は思わずリンの方を見た。場所は、我が家の寝室。ついさっき起きたばかりで、朝食はどっちが作ろうか、なんて話を仲むつまじくしていたところに、電話がかかってきたのだった。
鳴ったのはリンの携帯で、リンは携帯を手に取って話を始めた。俺はすることもなかったので、ベッドの中からそんなリンを見ていた。長引かないといいな、と思いながら。
「お母さん、嘘でしょう!? 嘘って言って!」
電話をかけてきたのは、リンのお母さんのようだ。何だかよくわからないけど、ショックな話らしい。はっきりわかるほど青ざめている。
「だったらわたし、そっちに行く! そっちに戻ってお母さんの看病をするわ!」
看病? リンのお母さん、病気になったのか? リンは半泣きになりながら、電話に向かって話している。俺は腕を伸ばして、リンの肩を静かに抱いた。
「うん……うん……レン君とは相談する。でも……うん、わかった」
リンは電話を切ると、顔を覆って俯いてしまった。俺はリンの肩を抱いたまま、そっと揺さぶる。
「リン、今の電話は?」
リンがぱっと顔をあげ、こっちを見る。瞳には涙が浮かんでいた。
「お母さんから……お母さん、病気なの。癌だって」
癌!? リンのお母さんが!? こっちで暮らすようになってから、日本にはそんなに帰っていない。気軽に帰れる距離じゃないってのが一番大きいが。……前に帰国したのは、リンの姉のハクさんの結婚式の時だ。
「レン君、わたし、日本に戻りたい」
俺にぎゅっと抱きつくと、リンはそう言った。日本にか……。リンはお母さんを慕っているから、お母さんが病気になった今、日本に戻って看病したいというのは当然だろう。
でも、癌ということは、長い闘病生活になる可能性が高いよな……。
「……でもね、お母さん、戻って来なくてもいいって言うの。ニューヨークは遠すぎるから、気軽に行ったり来たりできない。わたしの負担にはなりたくないって」
リンのお母さんの言いそうなことだ。リンと結婚して、その後で何度か話す機会があったが、リンのお母さんというのは、ものすごく我慢強いというか、遠慮深いというか、とにかく何でも耐えようとする人だ。あのお母さんなら、リンには戻って来ないでと言うだろう。……俺は困ってしまった。
とりあえずリンを抱きしめて、優しく背中を撫でる。まずは落ち着かせないと。そうしながら、リンにかける言葉を考える。
リンがお母さんのところに戻りたいと思う気持ちはわかる。母親だし、病気だ。でも、長期に亘って日本に戻すのは難しい。俺はこっちで働いているし、リンにはそれを手伝ってもらっている。ついでに言うと、俺はリンと離れたくない。
俺がかける言葉を考えあぐねて、ただリンを抱きしめていると、リンが顔を上げてこっちを見た。頬が涙で濡れている。
「レン君、わたし、どうしたらいいの?」
俺は深いため息をついて、リンの髪をくしゃくしゃと撫でた。
「リン……リンがどうしても日本に帰って、お母さんの看病がしたいって言うんなら、行っておいで」
リンと離れるのは嫌だ。けど、リンの心が痛むような選択を強いるのはもっと嫌だ。
けど、俺の言葉を聞いたリンは、首を横に振った。
「……ううん、仕事があるもの。それに、わたしはレン君の傍にいたい」
リンは手を伸ばして、俺の頬に触れた。
「ここでの人生を決めたのはわたしだから。……でも、一度、様子を見に戻りたいの」
リンの目を正面から見る。……嘘はついてないようだ。俺としては、リンを長い間日本に戻すのは嫌だし、ずっと俺の近くにいてほしい。だからリンがこう言ってくれるのは嬉しい。でも、それで、リンは本当に後悔しないんだろうか。
俺とリンはその後も相談して、とにかく一度日本に戻って、リンのお母さんを見舞うことにした。俺の方は休みを取ることになったが、これくらいは仕方がない。
リンのお母さんが癌か……。不安になった俺は、一度自分の実家にも電話をかけた。電話に出た母さんは、俺がリンのお母さんの話をすると、やっぱり驚いていた。
「母さん、母さんは平気?」
姉貴が結婚して家を出てしまったので、実家で暮らしているのは母さんだけだ。まだまだ元気だと思っていたけれど、誰だって年を取る。リンのお母さんと俺の母さんの年齢はそんなに変わらないし、こんなことが起きるとどうしても不安になってくる。
「まだ、あんたに心配されるほど老いぼれちゃいないわよ」
母さんの声は、いつもと変わらなかった。少し安心する。
「それよりあんたのところ、孫はまだなの?」
「……そろそろ作ろうかって話はしてるけど」
生活も大分落ち着いたし、子育てにかかる時間を考えると、今が一番いいんじゃないかと思う。リンも同じ意見だった。
というか……リンのお母さんのことを考えたら、今すぐ始めた方がいいんじゃないかな。考慮に入れとこう。
俺はそれからしばらく、あれこれ話をして、電話を切った。母さんからは、姉貴のところに生まれた子供――つまり、俺の甥だ――の話を長々とされた。……まあ初孫だしな。姉貴は育児ノイローゼにもならず、元気なようだ。
俺とリンが日本に戻るための準備を始めた一方で、向こうでは妙なことになっていた。リンの一番上の姉であるルカさんは、子供を産んだのがきっかけで心を病んでしまっていた。リンのお母さんはルカさんを病院に入れることを望まず、自分の手許に引き取ってしまった。
俺は、この辺りの話を最初はリンに伏せていた。リンとルカさんの間には、深い確執がある。確執というか、ルカさんが一方的にリンを敵視しているというか。リンの方はルカさんに敵意なんて持ってなくて、むしろひどく心配していたりする。だから、俺はこの話をリンに聞かせたくなかった。リンがまた、一方的に悩むのを見たくなかったんだ。
幸いリンのお母さんやハクさんも協力してくれたこともあり、しばらくはこの話は、リンには内緒にできていた。ただ、やっぱり年単位でこの状態となると、あれこれ不都合も出てくる。そんなわけで、結局リンもこの事実を知ることにはなってしまった。リンのお母さんがルカさんとは上手くやっていると説明したので、リンも一応納得はしたが、顔は会わせてないので、どんな具合なのかよくわからない。
そんなわけで、リンのお母さんはルカさんと一緒に暮らしていたのだが、ここに来て、事態は少し妙なことになり始めた。これよりちょっと前にリンのお父さんが失明し、リンのお姉さんの旦那さんにほとんど会社を譲ってしまったような状態になっていたんだが、それだけではなく、リンの生家までそっちに譲ってしまったという。
リンのお父さんというのはもともと理解不可能な人だったが、それは今でも変わってない。リンのお母さんと離婚してすぐ、リンと変わらない年齢の人と再婚してしまったというし。この話を聞いた時には、さすがにリンも俺も唖然としてしまった。リンのお父さん、自分が何をやっているんだかわかっているんだろうか。
で、まあ、そんな結婚が上手くいくはずもなく、例によってごたついているらしい。ただ離婚しない状態でリンのお父さんが死ぬと、遺産の半分はその再婚相手に行く。それで、リンのお父さんは会社関連のものと自宅は、先にルカさんに譲ることにしたようだ。とりあえずお父さんの遺産はどうでもいいが――リンもいらないって言ってるしね――とにかくそんなわけで、ルカさんとその旦那さんと娘(リンの姪)とリンのお母さんが、リンの生家に住むことになった。リンのお父さんは、再婚相手とその間に生まれた子供(リンの異母弟)と一緒に、田舎に引っ込んでしまったんだとか。多分毎日修羅場だろうが、それは俺には関係ないし、どうでもいい。
「あの家に戻るの、何年ぶりかしら」」
複雑そうな表情で、リンは呟いた。もちろんいい思い出もあるんだろうが、それでもそういう気持ちになってしまうのは、仕方がないだろう。
「お見舞いに行くだけだから」
ルカさんとは長い時間を過ごさない方がいいだろうから、泊まるのはいつものように俺の実家ということで、リンも納得している。
そんなわけで先に俺の実家に行って荷物を置くと、俺とリンはリンの実家に向かった。……相変わらずでかくて手入れの行き届いているリンの実家に着くと、リンはインターホンを押そうとして、ためらった。
「リン?」
「うん……大丈夫」
リンはインターホンを押した。中から出てきたお手伝いさんは、リンと俺を見て驚いていたが、話は聞いていたらしく、あれこれ言われることはなかった。
中に入ったリンは、勝手知ったる足取りで歩いて行く。一つの部屋に入ろうとドアを開けた瞬間、中から言い争う声が聞こえてきた。
「あたしは少なくとも、姉さんのせいでいっぱい苦労をした。あたしだけじゃない、リンだってそうよ。姉さんさえいなければって、ずっと思ってたわ」
「だから何よ!? あなたとリンには、守ってくれる人がいたじゃない!」
部屋の中には、女の人が二人いた。片方はリンのすぐ上の姉、ハクさん。もう片方の人は初めて見るが、ハクさんが、「姉さん」と呼んでいるということは、ルカさんだろう。二人とも大声でやりあっている。
「守ってくれるって言ったって、あのお父さんの前じゃどうしようもないわよ! それに、カエさんのことを言っているんなら、カエさんが守ろうとした中には、姉さんも入ってる! それもわからないっていうの!?」
よりにもよって喧嘩の真っ最中か……ついでに言うなら、二人とも俺たちの存在に気づいていないようだ。
「とにかく、私はリンが嫌いなの! 顔も見たくない!」
突然、ルカさんが大声で叫んだ。瞬間、俺の隣のリンの表情が強張り、手にしていたハンドバッグを落としてしまう。
言い争っていたハクさんとルカさんは、その音でようやく俺たちが来ていることに気づいた。二人とも口論をやめて、こっちを見ている。ハクさんの方は、決まりが悪そうだ。
「あ……リン……戻ってくるの、明日じゃなかったの?」
連絡はしておいたはずだよな。ハクさんと話したのはリンだけど。
「え? 今日って言っておいたはずだけど……」
リンが困ったような表情で、こっちを見る。日付を間違えてはいないと思うんだが。
「じゃ、あたしの勘違いか。……あれ、リン。荷物、それだけ?」
「レン君の実家に置いてきたの。あっちに泊めてもらう予定だから」
リンの顔は真っ青だ。図らずも姉の本音を聞いてしまったわけか。俺からすると驚くような話じゃないけど、リンにはショックだろう。
「……ルカ姉さん。そんなに、わたしのことが嫌いなんだ」
悲しそうな声で、リンが言う。ハクさんが割って入った。
「リン、姉さんの言うことなんか気にしちゃ駄目よ」
「ハク、あなただって、さっきまで私のことが嫌い嫌いって言っていたじゃないの。あなたは私が嫌い、私はリンが嫌い」
冷たい口調でルカさんが言う。……ハクさんがルカさんを嫌ってることは、リンから聞いている。
……リン、よく羨ましがってたよな。俺と姉貴みたいに仲良くしたいって。別に俺たちは、そこまで仲いいわけじゃないぞ。どこにでもいるような、当たり前の姉と弟だ。ただ、リンの家には、当たり前ってものがなかったんだよな。
「うるさいわね! 時と場所を考えたらどうなの!?」
ハクさんが怒鳴る。それには同意したい。
「……いい。なんとなく、わかってたから。ルカ姉さんがわたしのこと、嫌いなんだって」
リンは俯いて目を拭っている。俺はそっとリンの肩を抱きしめた。同時に、苛立ちがこみあげてくる。なんでリンが、こんな思いをしなくちゃならないんだ!?
「ハク姉さん、お母さんは?」
「カエさん、今は気分が悪いって、上で休んでるの。もうちょっとしたら下りてくると思うけど……」
「……そう。じゃあ、悪いけど、ちょっとだけこっちで待ってもいい? わたしがいるのが邪魔なら、どこか別の部屋に行くから……」
「いい加減にしろよ!」
さすがの俺も我慢の限界だ。俺の怒鳴り声に、みんな驚いてこっちを見る。前からずっと、思ってた。ルカさんは確かに色々苦労をしたのかもしれないし、それは気の毒なことだとは思う。けど、リンに嫌な思いをさせる権利なんかないはずだ。
「リンがそこまで遠慮する必要はないだろ! 大体あんた、何なんだよ。リンにあんなひどいことをしたのに、まだリンのことを責めるのか!?」
「レン君、その話は……」
リンが俺を遮りにかかる。が、俺も今回ばかりは譲れない。
「リン、悪いけど俺も黙ってられない。あんたは知らないだろうけど、あの頃のリンはずっとあんたを心配してたんだよ。姉さんの様子がおかしい、どうしたらいいんだろうって、夜も眠れないぐらい悩んでた。それなのに、あんたはそのリンに何をした!? 階段から突き落として病院送りにしておいて、よくそんなことが言えるよな!?」
「姉さん、リンを階段から突き落としたって……」
ハクさんが唖然とした声をあげる。やっぱりリン、ハクさんにも話してなかったのか。ついでに言うと、ハクさんはこの話を疑ってないようだ。
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