飛び起きるようにして女は目を覚ました。
胸の奥が燃え上がるように熱いくせに、全身は汗に濡れて冷えていた。
荒い息を吐きながら起き上がろうとしたが身体に力が入らず、ベッドから転げ落ちてしまう。床にぶつけた頬が痛かったが、それには構わず女は這うようにして床を進み、テーブルの上に置いていた鏡を覗き込んだ。
目を真っ赤に染めた哀れな女の姿が映っていた。
安堵の息をこぼし、女は天井を見上げた。呼吸を整えながら喉に触れると、違和感に気付いた。鏡でそこを見てみると、浅黒い痣が浮いていた。指でなぞってみると、それはまるで誰かに首を絞められたようだった。
途端に怖くなり、女は声を出そうとした。
だが唇から出てきたのは醜く掠れた声だった。他でもない自分自身でさえぞっとするほどにしわがれた声に、背筋が冷たくなる。大きく身体が震えたが、女にはそれに構っている余裕などはなかった。立ち上がろうとしたが膝が笑い、また床に転がる。
「うっ……うう、ううー!」
まともに出て来ない声で呻きながら、腿を殴った。痛みと引き替えに血が通うような感覚に、先程よりも確かな力が足に宿るのが分かった。まだ細かく膝は震えていたが、どうにか女は立ち上がるとドアを殴るようにして開け、リビングへと急いだ。
水道を捻り、水を喉の奥へ流し込む。むせるほどに飲み込むと、何度も咳き込んだ。喉の奥に異物がいるような気がした。それを吐き出そうと何度も何度も繰り返し咳き込み、最後には胃液まで吐き出した。
一度、口をゆすいでそっと声を出す。
腹の底から、喉の奥から、音が出ていく。その響きは女のいつもの声であり、そのことに女は涙がこぼれるほどに安心した。
ゆすいだ口元を手の甲で拭い、テーブルに手を突く。その拍子、指先がテレビのリモコンを床へ落とした。あ、と女が声を漏らした時には、テレビの電源が入っていた。
聞こえてきたのは、少女の歌声だった。
――なんて綺麗な声だろうと、思った。
この声に比べれば、自分の声など掠れ声と何ら変わらない。
そう思いながら、女は目を閉じると、少女の声に合わせて歌を口ずさんだ。けれど自分の耳に聞こえてくるのは、少女の声とはまるで異なる歪な歌声だった。歌えば歌うほど、聞けば聞くほどに、自分の声のみっともなさばかりが感じ取れてしまう。情けなくなり、もう止めようと目を開いた女の目に、少女の気持ち良さそうに歌う笑顔が飛び込んできた。
「――っ!」
気付けば女はリモコンをテレビに投げ付けていた。
液晶にヒビが入るが、そんなことでは少女の歌声も笑顔も消えてはくれない。それが悔しくて憎らしくて消したくて殺したくて女はテレビをひっくり返した。液晶が割れ、配線が歪み、あの笑顔は見えなくなったが、それでもテレビはしぶとく少女の声を流し続けていた。
荒い息を吐きながら、女はその場に膝を突くと、顔を覆い隠しながら泣いた。
悔しかった。それ以上に、死んでしまいたくなるほどに悲しかった。
少女と初めて出会ったのは、二年以上前のことだ。最初見た時には、可愛い子くらいにしか思わなかった。まだ右も左も分からなかった彼女のことを支えてやろうと思ったこともあった。
けれど少女は自分とは違っていた。あっという間に世間の注目を集め、たちまちの間に上り詰めていった。その声域は幅広く、女には出せないような声も少女は簡単に歌ってみせた。その声質は優しい曲にも激しい曲にも合わせて変わり、女がどれほど努力したところで届かない領域が存在することを暗に告げていた。
気付けば、少女の歌声を聞かない日はなかった。
テレビで、ラジオで、ありとあらゆるメディアが彼女の声を取り上げていた。だけれど、自分の声が取り上げられることはなかった。少女に負けていられないと、今まで以上に歌った。どんな曲でも与えられるのならば歌い、歌い続け、そしていつかは自分の歌声がメディアに流れることを目指した。
――現実は優しくなくて、事実は残酷だった。
少女の歌声が透き通れば透き通るほど、自分の声は鈍い音を奏でるようになった。追い付こう追い掛けようと藻掻けば藻掻くほど、喉は女の想いを裏切り、声は遠く離れていった。
これが持って生まれたものの違いなのだと女が気付くのに、さほど時間は必要がなかった。
持たざる者がどうすればそれを手に入れることができるのか、女には分からなかった。それは恐らく持っていなければならないものであり、それを持っていない自分には歌う資格さえ与えられていないように思えた。
どうしてこんな想いをしなければいけないのだろうか。
最初はただ歌うことだけが好きだったはずなのに。
あの子さえいなければ。
あの子さえ歌っていなければ。
あの子さえ生まれていなければ。
そう思うのに。
「――どうして、あの子の声を綺麗だって思っちゃうのよ……っ!」
「……憧れてるからだよ」
不意に声が聞こえた。
そちらに顔を向けると、男が立っていた。
「あの子は、いつも楽しそうに歌う。あんな風に歌う彼女が羨ましくて、僕は今もまだ、歌ってるんだ。自分の声が、例えあの子に遠く及ばないのだとしても、それ以外の誰かにも及ばないものなのだとしても、ただ僕は――あんな風に歌いたいから、歌うんだ」
男の指が女の頬に触れた。
痣になっているそこを労るように撫でながら、男は笑った。いつもと変わらない笑い方だった。
「めーちゃんが、そんなに苦しい想いをしてまで歌を捨てられないのは、どうして?」
「……あたしは――」
女は男の手を掴んだ。
答えは、握り締めた手が知っていた。
――首元で手は止まっていた。
両手を回せば容易く指は食い込い、あっという間に喉を握り潰すことができると知っていた。肌は柔らかく、その気になれば指を肌の中へ潜り込ませることだってできると理解していた。
「――殺さなくて、いいの?」
不意に声を掛けられた。
見れば、自分の下にいたはずの少女は消え失せ、いつの間にかそこには女自身が横たわっていた。
「喉を潰さなくていいの? 声が出せなくなるようにしなくていいの? 二度と歌えなくなるようにしなくていいの?」
女の手が自分の手を掴み、その首に触れさせようとする。しかし女はゆっくりと首を振った。
「いいのよ。そんなことしなくて」
「あの子を殺せないのなら、自分を殺してしまえばいいじゃない。死ぬのが嫌なら、喉を潰せばいいのよ。そうすれば、もうあなたは歌わなくて済む。あの子の歌声と自分を比較しなくて済むの。もう惨めな気持ちにならなくて済むのよ」
「いいのよ、それでも」
もう一人の自分の手を握り、女はその瞳を覗き込んだ。
「みっともなくてもいい。惨めでも構わない。あたしは、それでも歌う。あたしは、あたしの歌を歌うわ」
「どうして?」
「歌が、好きだから」
女の瞳の中、映る自分の姿は眩しいほどの微笑んでいた。
――きっと、少女のように。
「あ、メイコお姉ちゃん、おはようっ」
今日も少女の朝は早いようだ。
女が部屋を出ると、彼女は丁度長い髪を括り終えたところだった。
「あのね、メイコお姉ちゃん。今日もお願いしてもいい?」
「いいわよ」
女は少女に近付くと、柔らかな前髪を掻き上げ、その額にキスをした。そのまま頭を撫でてやると、少女はくすぐったそうに微笑む。
「……ねえミク、あたしもお願いしていい?」
「え?」
「おまじない。あたしが、上手くいくようにって」
女の言葉に少女は一瞬目を丸くしたが、すぐにこくりと頷いた。
自分が先程されたように女の前髪を上げると、背伸びをしてその額に口付ける。
「頑張ってね、メイコお姉ちゃん」
「ミクも、頑張って」
互いに微笑むと、女は少女が玄関から出て行くのを見送った。
「はい、めーちゃん。コーヒー、ちょっと熱いから気を付けてね」
「うん。ありがと、カイト」
息を数度吹きかけて冷ましながら、女はテレビを点けた。
液晶の端がヒビ割れたテレビからは今日も少女の歌声が聞こえてくる。女はそっと目を閉じると、優しく呟いた。
「ミクの声、やっぱり綺麗ね」
「……そうだね」
それでもいい。
少女の声が、他の誰かの声が、憧れるほどに、羨ましくなるほどに、歌うのが嫌になるほどに綺麗で美しく、自分の手には到底届かないものなのだとしても構わない。
それでも、女は歌う。
悔しくて悲しくて憎くて苦しくて死んでしまいたいと思っても、それでも。
ずっと歌い続ける。
「さ、急いでレッスンに行く準備しないと。カイトも一緒に行くでしょ?」
「まだ時間には早いよ?」
「いいじゃない。思いっきり歌いたい気分なのよ。付き合いなさい、カイト」
「……分かったよ、めーちゃん」
いつか、彼女のように歌えるその日まで。
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