あのとき少年は、まばたいて問い返した。
『リンは?』
『リンはクマのぬいぐるみ。胸に抱えて寝られるほど大きいもので。いつも寝るときレンを下敷きにしちゃうから、代わりにするものが必要だって』
『……。』
いつか、"リンは寝癖が悪すぎ。おかげでオレがいつも下敷きになってちゃんと寝られないんじゃん"と流したことがある。があの時は、リンがかっとなって枕をオレの顔に投げつけることで一蹴してたので、まさかそれをずっと気にしてるとは思ってなかった。
オレは、うれしいんだろう。それともわるいのだろう。これはひどいアイロニー。これからオレの言うプレゼントは、リンがオレのため頼んでいたぬいぐるみの役割を無用にさせてしまう。
"オレ専用の空間"と答えたレンの言葉に父親は少し驚いたように彼を目にしていたが、すぐ快く笑いながら承諾した。あながちに誕生日プレゼントがなくても、そろそろ部屋を分ける時になったと思っていたんだと。そして今日、この日が来るまで。リンに分かればうるさくなるから、後で自分が説明するからリンには知らせないように頼むのも少年は忘れなかった。
その間ずっと、オレがどうやってこれを伝えるか、どんな気持で考えたのかなんて全然分からないくせに、"私がきらい"なんだと?
世界で一番あきれる質問を聞いたようにレンの顔が自嘲で歪めて行く。彼の分身は今、この日まで絶対疑うわけのないことを口の外に切り出して確認しようとしている。そんなに不安になるほど、オレは冷たく言ったのだろう。
闇の中に沈んでいた瞳が徐に、心細い目で少年だけをじっと見ているまったく同じな色の大きい瞳を見詰めた。
「ーだったらどうする?」
ひとところに抱いていた不安が当たってしまったのか、少女の瞳がもっと大きくなって目立つほど搖れ始める。それでもリンはぎゅっと唇を噛み締めると、生気地に少年をにらめて言い放つ。
「うそつき。」
スカートを握っていた白い手が少年の服をぎゅっと捕まえる。まだ迷っているが清らかな緑瞳が、真実を捜すように少年の顔を眺めていた。
「あたしにはレンのことが分かる。レンは今、嘘をついてー」
「なんでオレのことが分かってると勝手に思うの?」
少女がまた短剣を他のルーレットの穴に突き入れる前に話を打ち切りながら少年は裾を握っている少女の手を離す。嘘ではない。リンはオレのことを一番知ってると確信しているはずだけど、本当に大事なことは何一つ分かってない。
力が抜けたように裾から離される手と手が、大きさをはかるように突き合わせた。幼い頃にはまったく同じだった指の長さが、今は目立つように違っていた。長さだけではなく、太さも肌も、ずっと細くて、白い。女の子の手。
誰が誰なのか服を脱がないと区分さえも出来なかった昔と違って、今は双子といっても二人を区別できない人はいない。
「れ……ん?」
「リンは、何もわかってない。」
成長なんて、しない方がよかったんだ。そのままいつまでも二人で笑いながら過ごせると信じていた幼い日々。そのまま永遠に暮したら良かったのに。
ーリンは永遠に僕の隣にいられない。
いつだったのかは分からない。最初からリンが傍にいることが非常に自然な事だと認識していたように、ある日そのまま自然に悟った事実だった。
二人は一人ではない。各自独立の存在で育って、自分の人生を生きて行く。そしていつかは恋人が出来て、彼と結婚する。オレより大切な誰かができるまで見守ってくれ、いつかはその人に手を渡さなければならない。
そこまでがオレの役目。リンの隣で最後までとどまれるのはオレではないものだ。
だからこれ以上、境界を越えちゃダメなのだ。
もう立っている時はレンを見上げなきゃね、とぷっと吹き出したリンの顔に心臓が切れになる痛みを感じていたその瞬間、気づいてしまった。
そして悲しいことに、愛情が自分に許された標準値を越したら駄目だと頭の中で警報が鳴らしたその時、もう一つのことまで分かるようになってしまった。
今この想いを気付いた瞬間、いや、実はそれよりもずっと前に。
線は超えてしまった後だったと。
決まってる温度以上に暖められて泡が沸き立ち始めた水が、ビーカーの下にぷくぷくとあふれて上がる音が聞えてくる。カチ、カチ、カチ。時計が示している時間は11時54分。
「…つまらなくなったんだよ」
ルーレットの筒のなか、いつ死ぬかも知れない不安にいっぱいになってぶるぶる震えているオレが、できるだけ恐怖を隠すため虚勢で包装した顔で話してる。
彼は合わせてる手から力を抜いて指を緩く曲げる。それから分からなさそうな顔で彼を見ているリンの手をくるむようにそっと握った。戯れるように滑らかな手の甲をしばらくいじくっていた手が、握っている手をこちらへ引く。
か細い指の節に控え目に唇を近寄せ、軽く口付けるまで少女の手は受動的におとなしく動いた。
「これ以上は、」
唇も、手も放し、一言一言はっきりと言いながらリンの顔を眺める瞬間。
やっと丸く開いた目でこちらを見つめたリンの肩がはっと震えた。
リンは思わず一歩退いた。ぽとりと後に退くとき彼女の足に振られたチェス版上のナイトとクイーンのこまが倒れた。
こんなレンは知らない。まるで知らない男の子を対している気がした。
初めて少女が少年を"こわい"と思った瞬間だった。
本能的に恐怖を感じた緑眼を読み出した緑眼の持ち主の顔に、自嘲の笑いが浮かぶ。ほら、君だってほのかには気づいているんだろ?この以上は危ないって。
レンは腰をかがめてリンのあしもとに倒れてるナイトの駒を取り上げた。昨日のチェスゲームの勝負、まだ終わらなかったのに。
「オレが疲れるからダメ」
少女の体をすれちがって、部屋の隅のおもちゃがつもるところにレンは近付いた。木のブロックとレールが取りちらされた隅に近付い、リンが一生懸命積んだ木の城の前に立ちながら少年は苦笑をした。
ー残念、お姫さま。永遠にあなたを守ると誓ったナイトは、これからは反対にあなたを傷つけようとしている。
「ままごとはコレでおわり」
がらがらー。
チェックメイトの一手と同じく、ナイトを城の上に強く押さえ付けると、木城があえなく崩れ落ちる音が静かな部屋の中ひびく。
新しい部屋?独立の空間ー?
そんなものはどうでもいい。本当に欲しいものはただひとつ。
だけどその一つは、いくら望んでも決して手には入らないもの。そして欲しいことだっていけないもの。
残ったことはただ、それをあきらめるため必死に労力することだけ。そして今度賜った監獄は、それを行うための第一歩。
崩れた城を背いたまま、少年はそのまま固いように動かない少女に近付いた。もうそろそろ、リンの体臭なんてちょっとも付け出さない冷たい空気だけでいっぱいなオレの部屋に帰る時間だった。
「だから、」
ガーン、ガーン、ガーンーーー。
ついに誕生日が完全に過ぎたことを知らせる柱時計の鐘の音が部屋外からけたたましく鳴らし始める音が聞こえた。
そしてその音が聞こえると同時に肩をそっと抱きしめてやさしく、耳もとに最高の甘い声でささやいてくれたその言葉は。
「ーおやすみ」
幼年時代へのさよならを告げるお別れの声であった。
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