「本当に何も言っていかなくていいのか?」
「はい。大丈夫です」
暖房によって暖まった部屋特有のどこか息苦しい重さの空気と、眠気を誘う午後の日差しが普段よりもどこか時間の流れがゆっくりと感じさせる。
普段であれば人の出入りも多く、いつ来てもそれなりに騒がしく感じる場所であるこの職員室も、明日から冬休みを控えた二学期最後の今日ともなれば、成績表も渡し終わっているし休みの部活動も多く静かなものだった。
いくつもの事務机が並び、持ち主それぞれの性格を如実に表した姿をしている中の一つ。どちらかといえばかなり乱雑な机の前に初音ミクは立って、そのデスクの主である担任に書類を手渡した。
もうすぐ三十だというのに、まだどこかあどけなさの残る顔に露骨に寂しそうな表情を浮かべた担任である男は、その書類をしぶしぶと受け取るとデスクの上に置いた。
出来る事ならその書類を受け取りたくないとありありと書いてある顔で、しかし口を開いて出た問いはその書類を受理した上での言葉であった。
乱雑というよりもまさに男所帯の縮図だと言わんばかりに乱れている机の上。そこに置かれたその書類には退学届という文字が刻まれている。
生徒達から教師というよりは友達のように愛されてきたこの担任は、同じように。いや、それ以上に生徒達に愛情を注いでくれてきた。
ミク自身もこのどこかだらしない担任の事は憎めない愛嬌があり好ましく思っていたし、良くしてもらった恩義も感じている。
そんな彼だからこそ、ミクが提出したこの書類を受け取りたくはないという気持ちを、教師としての立場上としてではなく心の底から思ってくれているのだという事がよくわかる。
しかしそれを受け取らないわけにはいかないという葛藤の狭間に追いこんでしまったことを、ミクは申し訳なく思った。
だが、こればかりは仕方がないのだ。
「慣れてますから、引越し」
父親の仕事の都合で昔から方々を転々としてきたミクにとって、学校を去るというそこまで珍しいほどの事でもなかった。
たまたま今回がしばらく安定して一年ほど留まる事ができたのだが、また訪れるであろう転勤の事があったため、ミクは必要以上に友人達との距離を詰めたりはしなかった。いつのまにか身に染みついてしまっていた処世術である。
友達がいないとか、クラスで浮いていたというわけではない。学校に居る間はそうでもないが、学校外での関わりというものをほとんど持たなかったのだ。
ミクが親の転勤で転々としてきているという事を皆知っている事もあってか、友人達側からも距離を詰めにくかったのかもしれない。
しかしそういった距離感をミク自身はとくに不満には思っていなかった。いや、そういうよりは当たり前になってしまったのかもしれなかった。
「でもなぁ時期が時期だろう。せめて後少しだな……」
やはり納得いかないと洩らす担任に、ミクは苦笑いしつつ告げた。
「父の仕事の都合ですし、たかだか十五歳の。中学生の力じゃどうにもできないですよ」
中学校三年の冬。
高校受験を目の前に控え、さらに卒業も控えたこの時期に転校というのは確かに担任の言うようにタイミングが悪いとは思う。しかしそれは国内であればの話しだ。
「でも私ちょっとラッキーかなとか思うんですよ? だって受験地獄ってほどの事してないままに、アメリカの学校の転入決まっちゃいましたし」
しかたがないと答えた事で担任の肩が落ちたのに気づき、わざとおどけてミクは言った。
今までは国内を転々としていた父の転勤先であったが、今回はアメリカへと決まってしまった。そのため国内の高校を受験しても仕方がないため、他の生徒達と同じような受験地獄は味わう事がなく済んだのだが、ミクにはそれが少し寂しくもあった。
「それじゃあ私。係りの仕事が残っているんで」
なんと返していいのか戸惑っている担任が少し可哀想になって、ミクは自分から話のきりをつけた。
皆が下校してしまっても学校に残っていたのは、この書類を提出するためというよりもその係りの仕事が本題であった。
「なんだ、その……。転校しなきゃ行けないのに、あんな仕事頼んでしまって、すまんな」
「いえ、楽しいです卒業文集作るのって。転入してきた私でも皆の今までのことが判って」
クラスの卒業文集の製作委員を男女一人ずつ担任が選んだ際に、転校生という立場だからこそ逆に皆を知ってもらうためにという思いでミクを指定した事を担任は少し後悔しているようだったが、ミクとしてはやりがいもあれば楽しい仕事だったのでむしろ恩を感じるほどだった。
何よりも、この係りを任されたことでミクはとてもかけがえのないものを得る事が出来た。
そうした事までも伝えるつもりはなかったが、せめて感謝の気持ちだけでも伝えたいとおもったミクは、その午後の日差しが差し込む室内に似つかわしい柔らかな花のような笑顔浮かべて言った。
「だから先生が私を選んでくれた事。感謝してます」
「初音……」
柔らかな日差しに、腰まであるようなミクのツインテールに纏めた長い緑色の髪が透けて淡く光る。 その姿は笑顔と相まってどこか儚げに見えた。
声を詰まらせて名前を呼ぶ担任が、今にも泣き出してしまいそうな気配を見せたので、ミクは慌てて頭を下げるといそいそと職員室を後にした。
逃げるように飛び出した廊下は、普段と違ってシンと静まりかえっている。
誰も見ていないという事と、小さく高鳴って逸る心に押されるようにして、ミクは軽くステップを踏むように、髪を揺らしながら廊下を教室へと駆けたのだった
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