カウントの後に溢れだす電子音の洪水。真夜中の遊園地。闇の中、回転木馬の脇、色とりどりの電飾に浮かび上がるのはピエロ。だぼだぼの靴をひきずって。泣いてる癖に笑って。重力に縛られながら軽やかにステップを踏んで。ふわふわと夢を詰め込んだ風船を沢山の人に配る道化師。
 私は少し離れたところで風船を手に歌う。道化に恋をした少女。もう風船は貰っちゃったから。傍に行けないの。傍に行ってもピエロは笑いながら泣いて、離れてしまう。

 ちがうの、ワタシはあなたがいいの。あナたのソバにイたいの。居たいの、いたいの。そばに、いさせて、ふレタイ、だきシメ、タい、

「…ちょっとストップ」
ふつ、とマスターの手に寄って不意に途切れた曲に私の想いは中空で行き場を失った。
 画面の向こう、マスターは難しい顔でマウスを動かしていた。クリックひとつで変る、私の中の音質。かちかちとメモリが動き、自分の内側でいくつもの数字が動き回るのを感じながら、私はじっとマスターを見上げた。
 打ち込まれた通りの音を、いつの間にか私は奏でる事が出来なくなっていた。半音低い。上ずった音になる。一呼吸置かないと次の音が出せない。かすれる。とぎれる。
 いつから壊れてしまったのか、マスターに指摘されるまで自分でも気が付かなかった微かなズレ。それは本当に微かな違いだった。普通の人間ならば、そういう日もあるよね。で済ます事のできる狂い。自分でもどうする事の出来ない、微かなひっかかり。
 いつの間に、こんな風になってしまったのだろう。体中のあちこちで生まれた熱が生む掻痒感を肌の下で感じながら私はそう思った。
 一片の曇りもない晴れた日の空のような素直な声に、いつの間にか一滴の水滴や、どろりとした甘いものや、必死さの滲んだ媚びが、混ざっていた。

この狂いはいつから身の内にあったのだろう。
髪飾りを貰ったときから?マスターの照れるような姿を見た時から?他の「ミク」に出会った時から?マスターに可愛い姿を見せたいと願った時から?
マスターにインストールされて、出会った最初のあの日から?
私はアプリケーションソフト。機械だ。特に音に関する事で狂いが生じるなんてあってはならない事で、そもそも人であるマスターが気が付くよりも先に、自分で気が付かなくてはならない。
微かな違いでさえ聴き分ける能力を最初から有しているはずなのだから。
音を感知する部分がまず狂ってしまったのか。あるいは。

 気が付いていてもなお、見ないふりを、気が付かないふりを無意識のうちにしてしまうほどに。私は狂ってしまった。ということ。

 黙って見つめるだけの私に、心配するな。と言うようにマスターが笑いかけてきた。
「なんか変な所を俺が触っちゃったんだろうな。ごめん、ミク」
「ううん。大丈夫ですよ」
そう私がふるりと首を横に振ると、ごめんな、とマスターはもう一度歌ってくれないか、と申し訳なさそうに微苦笑しながらマスターは言った。
「なんか調子悪そうだし、休ませた方が良いかもしれないけど」
「大丈夫ですって。私は歌うための存在なんだから。そんな気にしないでください」
マスターの労るような眼差しを受けて、私は慌てて首を横に振った。ゆるりとふたつに結った長い髪が肩の辺りで揺れる。その様子を見て、マスターがふと笑って手を伸ばしてきた。
 こつん、とマスターの指先が画面にぶつかった音が響いた。
「ああ、そうだよな。触れないのにな」
何やってるんだろ俺。と恥ずかしそうに笑って。髪の毛、とマスターは言った。
「ミク、前髪がなんか変になってるぞ」
「え、やだ」
大きく頭を振ったからだろうか。慌ててささっと手ぐしで前髪を整えてみせると、うん大丈夫。とマスターは頷いた。
「っていうか。なんだろうな。手を伸ばせばミクに触れられるような気がしたんだ、今」
そう照れくさそうに言って。触れることはできないのに、マスターは再び手を画面に向かって伸ばしてきた。
 こつん、とまたマスターの指先が画面に触れる音が聞こえてきた。
「目の前に居るのにな。ミクはここに居るのにな。触れないなんて変な感じだ」
俺も末期だなあ。なんて笑いながら言うマスターの姿に、身体の内側で何か軋む様な音が響いた。

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微熱の音・8~初音ミクの消失~

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投稿日:2011/07/01 20:32:38

文字数:1,769文字

カテゴリ:小説

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