ミクに好きな男がいると知ったのは、偶然だった。
予定より早くバーについたあの日、メイコに頼まれてカウンターの裏側を掃除していたカイトの耳に、砂糖菓子みたいな声が飛び込んできたのだ。
「……から、好きなんて、言えないもの」
心臓が跳ねて、床を拭く手が止まった。或いはその瞬間、顔を出して挨拶してしまえば良かったのかもしれない。しかし、突発事態にカイトが反応を示すより前に明るい声が響いた。
「はいはい、で、何時から好きなの?」
リンの好奇心に溢れた問いかけ。聞かれた少女は戸惑うように沈黙したが、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「きっかけは、初めて会った時だと思う。音楽室から聞こえてきた音色が気になって、それで……でも、きっと、向こうは知らないから。私のことなんて、なんとも思ってないよ」
ミクの声は、聞いているこっちが切なくなるような響きだった。泣いているわけではない、でも、微かな震えが少女の心の内を語っている。
――それだけ、その男が好きなんだろう。音楽室という事は、同じ高校に好きな奴がいるのか。
ぼんやりと考えた直後、心臓のあたりが引き絞られるように痛み、カイトは愕然と瞠目した。
全く気づかなかったわけではない。ただ、認めてしまうのが何だか怖くて見てみぬ振りをしていた感情が、こんなにも自分の内に深く根を張っているなんて思いもよらなかった。
――俺は、ミクのことが……。
遅すぎる自覚は息もできないような痛みをもたらし、カイトは手にしていた雑巾をひたすらに握りしめていた。
あれから、一ヶ月。
隣を歩くミクは、寒さに頬を染めて何かを話している。繋がれたままの右手が、苦しいのに嬉しくて、自分でもバカじゃないかと思う。
――ミクの好きなのは、俺じゃない。
わかっているのに、どうしてミクの言葉に、声に、眼差しに、何かを期待してしまうのだろう。
或いはミクは、こちらの思惑を見透かして、ただからかっているのだろうか。触れる体温も、熱心に語る声も、単なる友人に向けるには過剰で、でもそれは、ペットを手なづけるような感覚だとしたら余りに自分自身が居たたまれない。
――いっそ、終わりにしてしまおうか?
例えば、小さな肩を捕らえて顎に手を添えて、上向かせれば、簡単に唇を重ねられる。最低なキスをして、嫌われてしまえば楽になるだろうか。
足を止めたカイトにつられる形でミクが立ち止まる。繋いだままの右手、無防備に見上げるミクの大きな瞳に、冷たい表情をした男が映っている。
「カイトさん?」
他の誰よりも心地好い声に呼ばれて、カイトは伸ばしかけた左手を止めた。
馬鹿馬鹿しい妄想を実行に移すには、目の前にいる少女はあまりにも大事過ぎた。傷つけられるわけがない。そんな事を、したいわけじゃない。
「……ごめん、その、左手が冷たかったから」
不器用な言い訳をあっさり信じたらしく、ミクは口元をほころばせる。
「それじゃ、今度は左手を繋ぎますね」
簡単にふれるぬくもりは、優しくて凶悪だ。まるで、真綿でゆるゆると首を絞められているような感覚。
深く息を吐いて、カイトは曖昧なぬくもりに身を委ねた。
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