扉が開け放たれた翌朝のこと。僕はマスターが起きるのを待って、姿勢を正し切り出した。
「マスター。お願いがあるんです」
「何だ?」
「仕事……もう一度見つけてきて下さい。お願いします」
そうして僕は頭を下げた。仕事を失くした元凶である僕がこんなことを言うのは、お門違いも甚だしい。それは重々わかっている。マスターもそう思ったのだろうか、目をぱちくりさせて顔を覗き込むように問いかけてきた。
「いきなりどうした?何か気に入らないことでもあったのか?」
その見当違いな指摘に僕は首を振った。そんなわけがない。僕はとても幸せで、幸せすぎて怖いくらいで、それをぶち壊そうとした自分自身を憎んですらいる。
昨日マスターに言われるまで、僕は何も気付かなかった。“好き”という単純な言葉を直接口にしてもらうまで、全く思い及びもしなかった。マスターが僕のことを“好き”だということ。だから今回も抱き締めて許してくれたこと。僕だから――笑いかけてくれること。
“嫌いじゃない”はイコールで“好き”とは繋がらない。人間の感情は難解で複雑で、理解するには何百年もかかってしまう。でもマスターの“心”は、しっかり僕の胸に届いた。遅すぎて手遅れになりそうで、だけどようやく受け止めることが出来た。そんな今の僕に不満なんてあるはずもない。
「じゃあ、何でそんなこと言い出したんだ?」
僕のこの鈍感さはマスターから移ったのかもしれない。疑問符をぽんぽん空中に浮かべているマスターを見つめ、僕は少しおかしくなって口元が緩むのを自覚した。
「何笑ってるんだよ。まったく……お前はいっつも核心を言わないよな。だから負担になって爆発するんだよ」
「すみません、マスター。そんなつもりはないんです。今回はきちんと話しますから」
不機嫌そうに口をへの字に曲げるマスターだけど、本当は僕を気遣ってくれている。それがよくわかるから、僕はすぐに理由を説明した。
「僕は何も食べなくても生きていける身体ですけど、マスターはそうじゃないですよね。食べ物を買うにはお金がいりますし、お金は働かないともらえません。僕は……マスターにはずっと元気に生きていてほしいから――……だからもう一度仕事を見つけてきてほしいなって思ったんです」
そうして言葉を並べるごとに募る自己嫌悪と罪悪感。それらが全身に重く圧し掛かり、僕はつい顔を俯けてマスターから視線をそらした。覚悟していたとはいえ、いざ声に出してみるとあまりの厚顔無恥に頭を掻き毟りたくなる。マスターの目を見ることが出来ないまま、僕は言い訳がましく続きを口にした。
「すみません……我儘ですよね。今更こんなことを言っても、何の罪滅ぼしにもなりません。それはわかっています。でもこれが今の僕の正直な思いなんです。マスターに対する、精一杯の誠意です」
そこでようやく一息つき、意を決してマスターを見据える。そんな僕をずっと見ていたらしいマスターは、目が合うと不思議そうにまじろいで首を傾げた。
「何で謝るんだ?別に悪いことなんか何もしてないだろ」
それに今度きょとんと瞬いたのは僕だった。マスターは何を言っているのだろう。まさか忘れたとでも言うつもりだろうか。あまり口にしたくはなかったけれど、背に腹は代えられない。また伏し目になりそうな自分を叱咤し、僕はどうにか思い出したくもない過去の汚点を引っ張り出した。
「だってマスター、僕のせいで仕事――」
「お前のせいじゃないって。仕事辞めたのは俺の判断だろ?お前は一言も“仕事辞めろ”なんて言わなかったぜ?」
「それはそうですけど……。でもマスター――」
「まあ、今はそんなことはどうでもいいんだ。些細なことだしな」
僕の言葉をとことん遮り、本当に何でもないことのようにマスターは話を切り上げた。そうして少し考える素振りを見せた後、どこか意味ありげな笑みを浮かべて続ける。
「それよりもさ、自分に置き換えて考えてみろよ。例えば俺が――……っと、俺は大嫌いなんだったな。もしお前の好きな奴がお前に対して“ずっと元気に生きていてほしい”って言ってくれたらさ。お前、どう思う?」
「え……?あの、僕はマスターのこと――」
「いいから。どう思う?」
強引に押し切られる形で口を噤まされ、僕は消化不良のまま想像を巡らせた。まさか昨日の一言がここまで尾を引くとは思わなかった。あれは勿論本音じゃなく、ただその時の痛みや苦しみをマスターへの罵倒で和らげようとしただけだ。一時しのぎにもならない衝動的な発言だったけれど、その後は何だかうやむやの内に一日が流れてしまったため、言い直す機会がないままにここまで来てしまった。
「わからないか?」
「いえ……わかります」
黙り込んでいる僕を窺うように見ているマスターへ、僕は仕方なく微笑んだ。言うまでもなく僕はマスターのことが大好きで、そのマスターからそんな風に言われたとしたら。どう思うかなんて決まりきっている。
「きっと――とても嬉しいです」
「だろ?俺もおんなじ。だから謝る必要なんてない。理解できたか?」
言葉の意味する所は無論理解している。感情面でもそれがどれほど幸せなことか手に取るようにわかる。だけど僕としては、マスターの信じ込んでいるとんでもない誤解の方が気になってしょうがない。
それを口にしようか迷っている間に、再びマスターが切り出した。
「でもそれだとお前、また一人になる時間が長くなるぞ。それでもいいのか?」
その部分に関しては迷う必要などなかった。僕は真っ直ぐマスターに視線を合わせ、たくさんの感謝を込めて一言一言を伝えた。
「大丈夫です。マスターの気持ちはちゃんとここに仕舞ってありますから。今も大事に」
そうして僕は両手で自分の胸を押さえてみせた。もう何も入っていないと思った扉の向こう。そこにはいつの間にか宝箱が収められていた。鍵をかけなくても確かにそこにあると実感できる温もりを伴って。その宝箱を開ける呪文は、僕の大好きな人の大好きな声。
「だから、もう平気です。離れていても繋がってるってわかるんです。もう怖くなんかありません」
深く根付いていたはずの疑念や恐怖は、土壌ごと引っ剥がす必要もなくすっと抜けてくれた。マスターが傍にいる安心感に溶かされて、氷のように跡形もなく消えてしまった。
「そっか。それなら良かった」
どんなに言葉を尽くしてもこんな微妙な想いなんて伝わるはずもないのに、マスターにはいつも見透かされているような気がする。今もそうだ。何もかも了解しているみたいな穏やかな顔で、根拠もないのに多分どうにかなると思わされてしまう。
「大体一週間、か。長いようで短い一週間だったな」
「すみません、マスター。随分と我儘に付き合わせてしまって……」
「いいって。俺の方もちょっとした長期休暇って感じで楽しめたしさ。さて、じゃあ早速動き出すとするかな」
そうして力いっぱい伸び上がったマスターに、僕はせめてもの償いの意味も込めて申し入れた。
「僕も手伝います。ネットの検索はきっと僕の方が早いですよ」
「ならそっちは任せた。俺は取っといたフリーペーパーとか雑誌とかで拾ってみる。あー、職安にも行かないとな。昼にでもちょっと出かけてくるか」
「前にしてた仕事に近い職種がいいですよね」
「出来たらな。でもそんな贅沢は言ってられないし、とにかく良さそうなのは片っ端から教えてくれ」
「わかりました、マスター」
こうしてマスターの仕事探しが始まった。とはいえ、そもそも中途採用自体が難しいことに加え、あまりに急すぎる依願退職の前歴は、想像以上の足枷となってマスターを妨害した。マスターはそれを覚悟した上で辞めたのかもしれないけど、僕としてはそんな世の中の仕組みにそこはかとない無情を痛感せざるをえなかった。
でも当のマスターはといえば大して気にも留めていないようで、落ちてもすぐに気を取り直し次へと目を向けている。
「マスターって、どうしてそんなに前向きでいられるんですか?」
「前向きかぁ?まあ、お前よりはそうかもしれないけどな。お前はごちゃごちゃと考えすぎ。KAITOってボーカロイドがみんなこうってわけじゃないんだろ。何でお前はそんなに神経質なんだ?」
「いえ、僕のことじゃなくマスターのことを聞きたいんですが……」
「お前、絶対A型だろ」
「そういうマスターは大ざっぱなO型ですね」
「残念、俺はB型だ。納得したか?」
「はい。何だか色々と納得しました」
「まったく……相変わらず失礼な奴だな、お前は」
そんな日々が過ぎ、そろそろ貯金も底を尽いてきた頃。ようやく仕事先が見つかったマスターは、明日からの出社に備えて早めにベッドへ入っていた。そしていつも通り部屋まで付いて行った僕は、寝転がるマスターに向かい改めてお祝いを述べる。
「おめでとうございます、マスター。いよいよ……ですね」
「ありがとな。お前が手伝ってくれたおかげで助かった」
「いえ、マスターが頑張ったからですよ。これで一安心ですね」
「とりあえずの問題は、次の給料日まで生きていられるかどうかだけどな」
両腕を頭の下で組み軽い掛け合いをこなすマスターは、表面上は落ち着いていて変な様子は見られない。それでも流石に少し緊張しているようで、無言の際の表情が微かに固かった。それを確認し、僕はドア近くにある電灯のスイッチへと歩み寄る。
「それじゃあ、電気消しますね。おやすみなさい、マスター」
「ああ、おやすみ。また明日な」
そうして部屋を暗くしたはいいものの、出て行くタイミングが掴めず、僕はしばらく迷った末にその場へ座り込んだ。マスターの方へちらりと視線を向けてみたけれど、この位置からでは目を閉じているかどうかもわからない。まさかこんな早く寝られるはずもないし、どちらにしろ意識はまだはっきりしているだろう。もしかしたらマスターも膝を抱えている僕と同じように、無機質な天井を見つめているのかもしれない。
最近はずっとそうだった。言ってしまえばそれだけのこと。だけど僕を追い出そうともせず当然のように眠ろうとしているマスターに、僕は再び瞳を据えて静かに微笑んだ。こうして闇の中に身を置いていると、色んな嫌なことを思い出してしまうのに、何故か今夜はそれが気にならない。マスターが何の気負いもなくそこにいるから、僕も何の気兼ねなくここにいられる。その幸せが強く胸に沁みた。
どうしてこんなマスターを前の僕は疑ってばかりいたのだろう。マスターは無理してそう振舞っているわけじゃなく、ただ自然に自分のしたいことをしているだけなのに。僕のことを心配してくれて、声をかけてくれて、それで足りなければ抱き締めてくれて。したいことをしただけだから、謝罪もお礼もいらない。マスターは勝手に気負いこむ僕へ笑いかける度に、それを伝えようとしてくれていた。
今なら、それがわかる。そんなマスターの想いを踏みにじってきた僕の言い尽くせない過ちも。
「……僕はまだやり直せる」
マスターは一番謝りたい人、お礼を言いたかった人を永遠に失ってしまった。もう二度とその想いを届けることは出来ない。だけど今の僕にはそれが出来る。そしてそれは言葉じゃなく態度で示すべきものなのだろう。受けた恩は、この世のあらゆる言語を駆使してもきっと言い表すことなんて出来ないから。
「僕は……もう繰り返さない」
何をすべきかは何となく道筋が見えていた。それでもやっぱり決心をつけるには時間がかかり、僕は眠らなくていい身体を幸いに窓の外が明るくなるまで自分と向き合い続けた。
(②に続く)
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