どこかで猫の鳴き声がした。歌うような、楽しそうな声だった。気がつかぬうちに視線は声の主を探していたが、この場所がペット禁止のマンションだと思い出してあきらめる。
いつもどおりの朝だ。慣れた朝だった。
テレビの雑音に耳を傾けるでもなく、いつものように朝食を前に座る自分を意識する。聞いていない言葉を意識するというのは思ったよりも気を使うモノなのだと、そんなくだらない新しい発見に思わず目を細めた。
冷蔵庫から出したヨーグルトはゆっくりと室温を吸い取って順調にぬるくなっていくが、いまだに放置されたままだ。質素な机には新聞と朝食のヨーグルト、それとテレビのリモコンがオブジェのように並んでいる。
ふとヨーグルトを食べるためのスプーンを出すのを忘れていたことに気がつく。
――私は食べないから、忘れていました。
言い訳にも似た理由を見つけて椅子から立ち上がると、あわせるように廊下のほうから足音が聞こえてきた。
2DKのマンションの癖にいやに安い家賃だった理由を伝えるような、軽くしかしむやみやたらに響く足音。フローリングがきしむことはないが、確実に下階に足音が響くようなそんな薄さだ。気がつけば、足音が響かないように歩く歩き方はマナーとしてではなくて、集合住宅という状況に覚えさせられたいた。
テレビのスピーカーは安物で、乾いた硬質の音が当たりに飛び散ってはさっさと消える。テレビを背後にすれば、声は擦れ通りやすい高音と低音だけがノイズのように聞こえてくるだけだ。
「おはよう」
「おはようございます」
けだるそうないつもどおりの挨拶を交わして、スプーンを食器棚から取り出す。実家から持ってきたのだというその食器棚は、年季が入っており真新しいマンションの内装から浮いている。
「はい、スプーンです」
「ありがとう。やっぱ朝はヨーグルトだな!」
酔っ払いの嬌声に似たイントネーションに、彼女はため息を漏らしながらテーブルに着いた。寝起きで血圧が上がってないのに、無理やりテンションを上げるからそうなる。まるで酔っ払いのような醜態のままヨーグルトをうれしそうに食べているおきぬけの姿をじっと観察するのも好きではあるが、あまり見続けると変な勘違いを始めるので仕方なくテレビに視線を向けた。
『――の計画は、ボイジャーに続く新たなメッセンジャーになるわけですね。えー、そうですね、またこの計画はそれだけではなくニューホライズンズに続く準惑星に対する調査も含まれています。えー、また新たな――』
派手なCGに彩られたスタジオの画面に、無精ひげを生やしたいかにもいかにもな博士風の男と、個性というものをどこかに忘れてきた女性アナウンサーが話している。
「へぇ、また飛ばすんだ」
「また?」
ヨーグルトをもごもごと租借しながら――流動食のようなものをなぜ噛む必要があるのだろうか彼女は理解できない――まただよ、と彼は答えた。
「いつだっけかな、結構最近だけど同じようなこといって飛ばそうとして失敗してんだ」
まったく記憶に無い言葉に、首を傾げる。はて、そんなことがあっただろうか。信用していないわけではないが、情報が少ないというのもあって気になる。
――室内に設置されている無線中継ポイントへ質問信号をひとつ。お久しぶりとばかりに、反応が返ってくる。回線をオープン、ネットワーク越しに用意されている統合データベースへアクセスを開始。復調複号転調変換転送保存削除転写また複号、歌うように情報をやり取り。ようやく目当てのニュースの過去ログを見つける。日付は、二年前だ――
計画は二機の探査船を打ち上げる予定だったらしい。今回はその二回目だ。ボイジャーと同じく姉妹探査船となるはずが、名前も付かず工場の事故で一度もその体を地面から離す前に壊れたらしい。あまりにもあまりな扱いだ。
なにせ、計画の全容がようやくでき始め、これから名前を公募しようとした矢先の事故だったらしい。探査船1号機は、製品認識番号のまま鉄くずになった。そして残った予算すべてを二機目につぎ込まれ今ようやく計画が動き始めたというのが事のあらましだ。
「まだ私が生まれる前じゃないですか」
「えー、そうだっけ? あーそっか、二年ぐらい前かぁ」
寝癖だらけの髪の毛が、ふらふらと揺れる。正直いってだらしが無いと思ったこともある。
いや毎日思ってる。
それどころか、3ミリセカンドごとに思っている。
もう呪詛に近いかもしれない。
そんな愚痴を友人に吐いたら、物作りをする人間は大抵"どこか"が抜けてるものだと諭された。"どこか"どころか、半分ぐらい置き忘れてきているような感じもする。そんなもんだろうかと納得はできなかったものの、文句は口にださないでおくことにした。半目のまま事の本人を眺めていると、視線に気づいたのかニヘラと笑い返して来た。何か勘違いしたかもしれない、が今更訂正するのも面倒臭いのでため息だけ吐き出して返事にする。
きれいに平らげたヨーグルトのカップが、朝日を浴びてきらきらと光っている。
テレビでは、末端衝撃波面を超えたボイジャーがまだ数年ほど稼動することが可能であるという話を誇らしげに伝えていた。
すでに冥王星には数年後にニューホライズンズが向かうことになっているというのになぜ今更準惑星に降格された冥王星に探査船が飛ぶのだろうか。理解できず、首をかしげる。感傷のようなものだろうか、それとも……。
予定ではこの新しい探査船はニューホライズンズの初速秒速30kmを超える速度で冥王星へ向かい、そのまま太陽系を脱出するらしい。
「へぇ、ゴールデンレコードみたいなのまたやるのか」
「なんですかそれ?」
「ボイジャーだと、地球の音がいっぱい入ってるやつだ。あと絵とか。まえに裸の絵のせたパイオニアで怒られて、しょうがないからシルエットだけになったけど。他には、いろんな国の言葉とか、あとクラシック」
「宇宙人に聞かせるんですか」
「むしろ、SF作家の食い物だなー」
「それでまたっていうのは?」
「ボイジャーみたいに宇宙人にメッセージだってさ、ほら」
いってテレビを指す。
『今回は公募でこのディスクに乗せる曲を決めるようですね。締め切りが迫ってまいりました。今回は既存曲の投票以外にも自作の――』
テレビはいつものように嬉しそうに何かを伝えている。嬉しい感情が普遍すぎて、なんだか麻痺しそうな気がした。
◇
マンションの二階だというのに、猫が廊下を歩いていた。ペット禁止のマンションだというのにだ。まるでこの場所にいるのは当然だ、といった風に猫は目的地を目指すようにすたすたと歩き去っていく。おもわず追いかけるように足を速めた。野良猫というにはあまりにきれいな真っ白な毛並みと堂々としたその姿は、どこか威厳すらかんじる。
「だれか飼ってるのかな?」
問いかけに答えるように猫が足を止めた。
「って……」
自分が住んでる部屋の前だった。
両手に下げた買い物袋の重さもわすれ、彼女は勢い良く扉を開ける。
「イサムさん! 猫にえさ上げちゃだめっていったじゃないですか!」
答える代わりに、ダイニングに続く扉がゆっくり開いていく。隙間からイサムが玄関を覗いた。そして玄関で鬼がごとく激昂している彼女ににらまれ動けなくなった。
猫は玄関の扉が開いたので、二人を無視して我が物顔で部屋へと入っていく。
「えーと、その」
ごめんなさいと、イサムは頭を下げた。
野良を餌付けしたことをしこたま怒られて、イサムは涙を流しながら部屋の隅でうずくまっている。近くにはメモ帳が一つお供のように添えられていた。たまに視線をめぐらせたかと思うと何かぽりぽりと書いては、まためそめそとうずくまる。そんなことをずっと繰り返していた。
「野良だとおもったら、飼い猫だったんですね。どこで盗んできたんですか」
「迷子だったんだもん。おなかすかせてたんだもん」
「子供じゃないんだから……」
ため息すらもうでない。子供じみたではなくて、これでは本当に子供だ。
「飼い主さがしましょうよ」
「なぁ」
足に擦り寄ってくる猫を抱き上げて、首輪を見ると住所と電話番号が書いてある。
「迷子じゃないじゃないですか……首輪にちゃんと家かいてますよ」
「……」
「ほらここ」
差し出された猫の首根っこ、首輪が顔を出している。そこに、書かれていたのは住所ではなくて、
「バーコードじゃんか! 読めるかよ! 俺まだ人間だよ!」
「携帯電話にバーコードリーダー付いてるじゃないですか」
「首輪のデザインかっておもうじゃん! 俺悪く無いじゃん! ただ迷子の子猫を保護しただけっていうか、かわいそうだったから……」
だんだん語尾が小さくなっていく。
「今じゃ、迷子の子供の親捜したら犯罪ですからね。むしろ猫でよかったというか」
もしかしたら恩返しでも期待してるんじゃないかと思い、軽くめまいがするのを目頭を押さえて我慢する。
「猫は犯罪じゃないもん!」
「可愛くいってもだめです。それと賃貸契約に違反してます」
時間は昼を回っている。ヨーグルトを出して、自分は猫の飼い主に連絡を取るべきだろうか。そこまで考えてもう一度首輪を見る。
住所は近所ではなかった。遠くもないが、少なくてもちょっとお使いレベルではすまない距離。電車をつかって二駅ほどだが、猫を入れるキャリングケースなどない。無理に鞄につめるのはきっと猫好きのイサムは許さないだろう。自分もそんなことまでするなら、タクシーのほうがよいと思う。
――そんなお金ないですけど。
「昼ごはんたべたら、とりあえず飼い主に連絡するから……」
言われて視線を首輪に落とすと、
「あれ? 電話番号かいてません。住所と名前だけですね」
バーコードの情報密度はそこまで高くない。物理的な情報強度も簡単なCRCが付いてるだけだ。こすれて消えることを考えたら普通に文字を書いても、特に問題なんてない。
「何でバーコードなんかにしたんだろ。誰も読めないだろ」
イサムがつぶやきながら猫を覗き込んでいる。
住所から電話番号を割り出そうとしてみて初めて気がついた。
「この猫、なんかおっきな建物に住んでるみたいなんですが」
「え? どういうこと?」
「工場とか……飛行場じゃないか、学校とか?」
「名称なんかかいてないの?」
「住所といっても、これ座標なんで……。私のもってる地図はそんな詳しくもないですから建物の名前までは」
ああなるほど、とイサムはほうけた顔で頷く。
「というより、俺はミクが地図情報もってることに驚きだよ。てっきりネットのサービス利用してるのかと」
「……ああ、そうでした」
猫があったかくてすっかり忘れていた。とにかく昼ごはんを用意して、ソレからにしようと猫を床にはなす。と、猫はミクの手から離れるのが嫌なのか身をよじった。
困った顔をしたところで、猫がわかってくれることはない。
「こっちこい、ピート」
イサムが手招きをすると、耳がぴくぴく動いて飛び出すようにイサムに向かう猫。
少しだけ寂しくおもうが、手から離れたのはよかった。抜け毛がないことを確認して、ミクは冷蔵庫へとむかう。
と、
「何で名前までつけてるんですか」
疑問を口にだしてみる。
イサムは真っ青な顔をして視線をそらす。
すこし飼い主に合いに行く前に家主に話すことができた。ため息はでない。なんだかんだいって、いつもどおりだ。冷蔵庫には、大量のヨーグルトのカップ。
冷蔵庫越しに猫を膝に乗せてニヤニヤしている家主をみる。主食はヨーグルト、家にいるときはまるで子供のように気が抜けてる、ひがないちにちメモ帳に作詞したり、鼻歌を歌いながら作曲している。自由奔放といえば聞こえがいいが、どちらかといえば自由人だ。
「最近寒いから……かな」
「ああ、ピートってそういう……」
でも扉を開いても、夏なんてやってきやしない。入ってくるのは冷気で、向こう側にあるのは寒空のみである。
Re:The 9th 「9番目のうた」 その1
OneRoom様の
「The 9th」http://piapro.jp/content/26u2fyp9v4hpfcjk
を題材にした小説。
次 → http://piapro.jp/content/rmbzm8ngq3gnikwb
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