お父さんがわたしに縁談を持ち込んで来てから数日、お父さんはわたしに何も言って来なかった。もっとも、何も言って来なかった、というより、ほとんど顔をあわせなかった、の方が正しいのかもしれない。例によって帰宅が遅いし……。わたしの方も、家にいても仕方がないので、一限から講義がない日でも、その時間には学校に行くようにしている。勉強なら、図書室でもできるし。
ハク姉さんから話を聞いたレン君のお姉さんは、わたしに「念のために、お役所に婚姻届の不受理申出を提出しておきなさい」と助言してくれた。勝手に婚姻届を提出されて、結婚したことにされてしまうかもしれないからと。わたしはぞっとするものを感じながらも、お姉さんの助言に従って、それを提出しておいた。
レン君のお姉さんは「どうしようもなくなったら、逃げてらっしゃい。リンちゃんはもう二十歳なんだから、お父さんでも無理矢理連れ戻すことはできないのよ」とも言ってくれた。すごく嬉しかったけれど、そんなに迷惑をかけていいものだろうか……。
そうして、土曜日。ミクちゃんと講義に出て、お昼を食べて帰宅すると、お母さんが複雑そうな表情でわたしを出迎えた。
「ただいま、お母さん」
「お帰り、リン。あのね……」
お母さんは、困っているようだった。一体どうしたんだろうか。
「お母さん?」
「ええ……実は、お客さんが来ているの。それでお父さんが、リンを呼んでいるのよ。帰ってきたら、すぐに連れて来なさいって」
お客さん……嫌な予感がする。わたしは、その場から逃げ出したい衝動に駆られた。でもそういうわけにもいかない。わたしは鞄をお母さんに預けると、重い足取りで応接室に向かった。ドアを叩く。
「誰だ」
「リンです」
「……入れ」
ドアを開けて、中に入る。お父さんは応接室の椅子に座っていた。ソファには、知らない男の人がかけている。高価そうなスーツを着た、神経質そうな印象の人。わたしより大分年上。わたしの偏見かもしれないけど、感じの悪そうな視線で、わたしを見ている。
「リン、座れ」
お父さんに言われたので、わたしはしぶしぶ、別の椅子に座った。捨て台詞を吐いて出て行ってしまいたい気もするけど、初対面の人の前でそんな振る舞いをするのは、さすがに大人気ない。
「石山先生の息子さんの、ソウイチさんだ」
……これもお見合いというのだろうか。お見合いにしては、相手の両親はいないけど。ルカ姉さんの時はここではなく奥のお座敷で、確か相手のご両親も一緒だったはずだ。別に本格的なお見合いをしたいわけじゃないけど。誰であろうと、レン君以外の人はお断りだ。
「初めまして、石山ソウイチです」
ソウイチさんとやらは、淡々と言って頭を下げた。仕方がないので、わたしも頭を下げて「……巡音リンです」と、自己紹介する。
お父さんがわたしに向かって、ソウイチさんの経歴とやらを語り始めた。父も祖父も国会議員だとか、一流大学を出ていて、今は父親の傍で修行しているとか、そんなことをだ。長男だから跡を継ぐのだろう。……お父さん、わたしを政治家の妻にしたいということ?
とにかく、このソウイチさんとかいう人がどれだけ将来有望な人だろうと、わたしに結婚する気はない。わたしは相槌を打つことすらせず、ただ黙って話を聞いていた。
そうこうするうちに、お父さんの話は終わった。……話が終わったのなら、出て行ってもいいのだろうか。わたしが椅子に座ったままそんなことを考えていると、ソウイチさんが口を開いた。
「リンさんは、ご趣味とかは?」
「読書とクラシック音楽の鑑賞です」
ルカ姉さん、この時はなんて答えたんだろう? やっぱり読書だろうか。なんだかんだ言って、無難な趣味よね。こういうのって。
「そうですか。やはりクラシックはいいですよね。なんといっても品がある」
クラシックは好きだけど、それ以外の音楽だって同じくらい好きだ。レン君が貸してくれたCDの中には、すてきな曲がたくさんあったもの。お父さんがうるさいから、興味のない振りをしているだけで。
それに……音楽の品って、どこで判断するの? わたしにはわからない。『RENT』の中でロジャーが演奏するムゼッタのワルツは、ものすごく感じが変わっている。あれは原曲と比べて品が無くなっているって、この人は言いたいの?
なんだか、胸がムカムカしてきた。
「あなたのような若いお嬢さんは、クラシックのような格調高い音楽を大いに聞くべきだと思うんですよ。最近流行の品のない音楽なんて聞いていたら、耳が腐ってしまいます」
比較しても仕方がないけれど、レン君だったらこんなことは絶対に言わないわ。わたしは頷くことすらせず、そんなことを考えていた。もっとも、相手はわたしの反応など気にせず、喋り続けている。
「この前、日本を代表する指揮者の先生の話を伺う機会があったのですが、やはり優れた音楽を聞いてこそ、優れた感性が育つと言っていました。なのにその優れた音楽を多くの人が聞こうとしない。これは実に嘆かわしい事態であると。僕も全く同感でして……」
何が言いたいんだろう、この人。学校教育において、もっと音楽の比重を大きくしろとでも言いたいのだろうか。わたし相手にする話じゃないような気がする。
「そう言えば少し前にも、ヨーロッパの伝統あるコンクールで入賞した方と話したんですよ。世界でも一、二を争う有名なコンクールで、審査員の方々に絶賛されたそうなんです。僕の前で演奏もしてもらったのですが、やはりこういう人の演奏は違いますね。そもそも……」
退屈な話は延々と続いた。どこそこの有名な先生がああ言っていたとか、有名な演奏家さんがどうしたとか。もしかして、自慢がしたいんだろうか。
「……わたし、ロッシーニが好きなんです」
話が途切れた時、わたしはそう言ってみた。向こうの話をずっと聞いているのに、うんざりしてしまったから。ソウイチさんが、え? と言いたげな顔になる。
「ロッシーニ……ですか」
「ええ。オペラが好きなんです」
「ロッシーニなんて、『セビリアの理髪師』しか評価されてない一発屋じゃないですか。その『セビリアの理髪師』にしたって、モーツァルトの二番煎じに過ぎません。イタリアオペラなら、ヴェルディやプッチーニを聞くべきですね。ドイツならやはりワーグナーでしょう。そもそもロッシーニのような軽薄な音楽を作る人間が、ヴェルディやプッチーニと並び評されていることがおかしいです」
わたしは、呆れて物が言えなかった。ロッシーニが軽薄ですって!? 確かにロッシーニの音楽は全体的に軽い。軽くて、特にブッファの場合はそれが顕著だ。音が全体を通して跳ね回っているような、そんな楽しさを持っているのがロッシーニの音楽だと、わたしは思う。それをこの人は軽薄としか表現できないのか。
それに、『セビリアの理髪師』しか評価されてないだなんて。最近はずいぶん見直されてきているのに。大体この人は一度でも『チェネレントラ』や『ランスへの旅』や『ウィリアム・テル』を見たことがあるのだろうか。
視線をテーブルに落とす。紅茶のカップが目に入った。これを頭からぶちまけてやりたい気持ちに駆られる。……やらないけど。
レン君は、ヴェルディがいいって言ってたっけ。オペラのDVDを色々貸してみたのだけど、レン君が褒めたのはヴェルディだった。ヴェルディの曲が一番、音が鳴った時「これから何が起こるんだろう」って、わくわくさせてくれるって。そういうふうに説明してくれたら、わたしだってわかるのに。わたしはヴェルディはあんまり好きじゃなかったんだけど――話が悲劇ばかりなのだ――レン君がそう言ってくれたので、前よりヴェルディが好きになった。
結局……何を考えても、レン君に行き着いちゃうのかな。今どうしているんだろう。手紙を貰えるのは嬉しいけど、やっぱり、会って話がしたい。
「今度、ヴェルディの『運命の力』が上演されるはずですが、一緒に見に行きませんか」
「……お断りします」
こんな人と一緒にオペラを見るなんて真っ平だ。座っている時間が苦行になってしまう。そう思ったわたしは、即座にそう答えた。ソウイチさんが、見事なまでに引きつる。
「こら、リン! 失礼なことを言うんじゃない!」
お父さんが怒鳴った。何を言われようと、行きたくないものは行きたくない。
「すいません躾のなってない娘で……これの母親がどうしようもない女性でして、どうも血を引いたのか……」
なんでそんなことを言うのよっ!? 大体、わたしを生んだのがどんな人だろうが、わたしには関係ないわ。わたしのお母さんは育ててくれたお母さんだけよ。
「わたしを生んだ人のことなんか関係ないでしょう?」
そんな人はわたしのお母さんじゃない、ということを意味合いを込めて、わたしはあえてこう言った。
「口答えするな。だから躾がなってないと思われるんだ」
お父さんの言う躾って、何なんだろう。ルカ姉さんみたいに、何を言われても頷いていろということ? わたしは、そんなのは嫌だ。ルカ姉さんは、どうして平気だったんだろう。そして、今でもそうなんだろうか。
「とにかく、わたしは結婚する気はありません」
わたしはきっぱりとそう言って、お父さんが止めるのを無視して、席を立った。お父さんは珍しいことに、力ずくで引き止めたりはしなかった。さすがに、この人の前で親子喧嘩は見せたくないんだろうか。
応接室を出ると、お母さんが廊下に立っていた。何か言いたそうなので、わたしはお母さんの前で足を止める。
「リン、お父さんは……」
「わたしにあの人と結婚しろって。でもわたし、嫌だって言った」
お母さんは、心配そうな表情でわたしを見た。
「……そう」
「わたし、部屋で勉強するから」
それだけ言うと、わたしはお母さんを廊下に残して、自分の部屋へと戻った。
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空は生憎の曇りだというのに今日はなんだか蒸し暑かった。ったく。楽歩の奴…バスの冷房くらいつけろ...【リンレン小説】俺の彼女だから。。【ですが、なにか?】
鏡(キョウ)
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