ex.
彼は誰よりも早く店についてスーツから制服に着替えると、少し落ちつかなげに深呼吸をした。
――平常心、平常心。
――変に不安をあおらないような態度で――。
ガチャリ、と音を立てて扉が開く。
彼と同い年くらいの、二十代後半の女性が入ってきた。
「おはようございます、みくさん」
「あ……、その……」
元気よくあいさつをした彼に、女性は面食らったのか、少しだけ返答に詰まる。
「お、おはよう……ございます」
そう頭を下げる彼女に、彼はなにも気にしていない、と態度で示そうと、努めて明るい口調で告げた。
「開店一時間前には新商品が届くそうなので、商品チェックをお願いしていいですか? 僕はそれまでに店舗清掃と開店準備を済ませようと思ってるんですけど」
「えーと……」
彼女は少し考えると――開店までにしなければいけない仕事の時間を逆算しているのだと、彼にはわかった――しっかりとうなずいた。
「わかりました。じゃ、それまでに他のことはこちらでやりますね」
しっかりとした口調だった。
彼に対して色々考えていたことがあったはずだが、彼の言葉で思考が仕事モードに切り替わったようだった。
「すみません、お願いします。あ、他の方が来たら――」
「――はい。もとは……店長、はそちらにいると伝えます」
「お願いします。あと――」
「……?」
「本橋のままでも、いいですよ」
「それ、は……」
「まあお任せします。それじゃ僕は」
そう言って、どこか困惑した彼女を置いたまま、そう言ってバックヤードから出ていく。
「……」
会ってすぐ、昨日のことについて話す度胸が、彼にはなかった。気にしていない振りをするので精一杯だったが、それはもしかしたら彼女もそうだったのかもしれない。
彼はまたいつものように休みなく働き……彼女もまた、夕方まで彼と同じように働いた。
「すみません。これで……上がります」
夕方四時過ぎ、バックヤードで彼女にそう言われて、もうそんな時間になっていたのかとハッとした。
なにも言わないまま、なんとなくそのままにしてしまっていいはずがない。
「あ……はい。わかりました」
「お疲れ様です」
「お疲れ様でした」
わざわざ彼の元へとやってきて、会釈をする彼女に、彼は続けた。
「みくさん」
「……え?」
「ええと……取りつくろっても仕方がないというか、みくさんが納得いかないでしょうから、素直に言います」
「……」
彼の言葉に身構える彼女を、なるべく意識しないようにして続けた。
「……まだ、理解が追いついていません。失礼な話かもしれませんが、僕はそんな――環境に置かれている人がいるなんて、思ってもいませんでした。本当にそんなことがあるのかとビックリしましたし……正直な話、おそろしいとも思いました。受け入れがたい話だとも」
「そう……ですよね」
「だから、受け入れられるようになるための時間を……もらえませんか?」
「……」
彼女はぽかんとして、彼の顔をのぞきこんだ。
「……? え。……え?」
自分はなにかとんでもない聞き間違いをしてしまったんじゃないか、といった思考が容易に読み取れるほど、彼女の表情は困惑にゆがんでいた。
彼は真剣な顔で、彼女を見返している。そこに冗談や嘘があるとはとても思えなかった。
彼は気恥ずかしそうに頭をかく。
「その……うまく説明できないんですけど……。みくさんの過去を受け入れるのは、今の僕にはできそうにないんです。でも、今のみくさんにはすごく助かってますし、必要な人だとも思っているんです」
「でも、それは――」
「矛盾してるように聞こえます?」
弱った、という様子の彼に、彼女は困惑しながらも素直にうなずいて見せる。
「うーん……、なんというか……昨日、みくさんから話を聞いて、やっぱり拒否感みたいなものが出てきたりしてしまうんです。それは、申し訳ないんですけど否定できないです。……でも、今のみくさんが優秀な人なのもまた事実なんですよ」
「……はぁ」
「現在のみくさんに対する評価を、過去のことだけで変えたらいけないって思うんです。それは……反省して、罪を償って、変わろうとしている今のみくさんに対して失礼なことじゃないかって。けど、そう考えようとはしても、気持ちがなかなかついてきてくれなくて」
その言葉に、彼女は少しだけ瞳を見開いた。
「だから……気持ちがついてきたら、そのときに改めて言おうと思ったんです」
「言う……って?」
「それは――」
ちょっと恥ずかしそうに、彼は言いよどむ。
「僕と――付き合ってくれませんかって。……結婚前提の話として」
「……!」
「……半年先になるか、一年先になるかわからないですけど……」
そう弱々しく声を漏らす彼を前に、彼女は息をのんだ。こらえられず、口元を手のひらで覆う。
瞳からは透明な雫があふれ、すぐにほほと指先を濡らした。
「あ、いやその、……みくさん? すみません。えっと……」
泣き出してしまった彼女を前に、どうしたらいいかわからずに狼狽するしかなかった。だが、彼女はなにか言葉を口にできる様子ではなかった。
そんな状況で、バックヤードの扉が急に開く。
「店長……? あ、ここにいた――」
「あ……橋田さん」
「……」
入ってきたのは、四十代のパートの主婦だった。
彼と、泣いている彼女の姿を見て、その人はすぐさま視線を険しくする。
「ちょっと店長。いくらなんでも泣くまで叱ることないでしょう?」
「え……? いや、ちが――」
「そりゃーみくちゃんは仕事が早いけど、だからって敵対心燃やして些細なミスでそんな問い詰めるなんて、見損なったわ!」
ずいっと二人の間に割り込み、その人は彼から彼女を守るように立ちふさがる。
「だから違いますって! そんなことするわけないじゃないですか!」
「じゃあなんでみくちゃんが泣いてるのよ。店長が泣かせた訳じゃないんなら、あたしが納得できるように説明して見せなさい」
「いや、それは――」
話そうにも話せない。
経緯がややこしいし、簡単に他者に話せない内容も色々ある。
「ほら見なさい。女の子を泣かせるなんて恥ずかしいと思いなさい!」
「だから違うんですって……」
頭を抱える彼に、彼女もなんとか涙をぬぐって声をあげる。
「あ、あの……。ほん、本当に……その、ち、違うんです……」
「みくちゃん!」
その人は振り返って、みくの肩をがっしりつかんで力説した。
「あなたは被害者なんだから、店長の味方することなんてないの! こーゆー女の子の扱いをわかってない人にはね、ガツンと言ってやらなきゃいけないのよ!」
「でも、その……」
その人は彼女の弱々しい反論など意に介さなかった。
「ほら、店長は向こうに行って! 仕事が止まってるんだから」
「あ。あー……」
そこを突かれると、彼も反論を続けていられなかった。
「――わかりました。みくさんは今日はこれで上がりなので、落ち着いたら帰してあげてください。僕は店内に行ってきます」
「はいはい。こっちはいいから、店長は早く行って」
「……」
「時間ができたら、店長にはあたしから説教ですからね」
「誤解、解けそうにないですね……」
「……ふふ」
参った、と肩をすくめる彼に、思わず彼女はくすっと笑ってしまった。
「じゃあみくさん、明日もよろしくお願いします。あー……橋田さん、そんなに睨まないでくださいよ」
「当然でしょ。こんなに泣かせといて明日もこき使うつもりなの?」
その人の視線は、なんて非情な男だ、と言っていた。
「わかりました。わかりましたよ。出勤の意思はみくさんにお任せします。どちらでも、僕は文句ひとつ言いません」
「よろしい」
両手を挙げて降参する彼に、その人はうなずく。
「じゃ、これで――」
「――あの、本橋、さん」
「……?」
立ち去ろうとする彼を、彼女が引き留める。
「その……えっと……ありがとう、ございます」
彼女がなにに対しての感謝を告げたのか、彼は少しだけ考えてしまう。
「どう、いたしまして。……でも、それを言うのはまだ早いですよ。僕が……受け入れられるようになってからでしょう」
「……そう、そうですよね」
そう言うが、彼女の表情はどこか穏やかで、柔らかくなっていた。
彼が初めて見た表情なのは当然だったが、彼女自身にとっても、こんな風に穏やかな表情ができたのもほとんど初めてに近かった。
二人のこれからが明るいわけではない。
このお互いが抱く安心もまた、本当に成就されるものかどうかわからない。
だがそれでも。
それでも、彼女には必要だった。
彼のような人が。
受け入れてくれる人が。
……言い換えれば、生きる希望が。
これまで打ちひしがれ続けてきた彼女にも、生きていていいんだと、生きていたいと思わせるなにかが。
自らの罪を赦してくれる誰かが。
その切実さは、彼にはわからないだろう。
自らの言葉が、どれほど彼女の心を救ったのかなど、想像もついていないだろう。
彼は普通で、仕事一辺倒で、それでいて女性の気持ちに鈍感な、どこにでもいる男性だった。
彼女にとって、その“普通”がどれほどありがたいのかどうかも彼は知らない。
だが、それでよかった。
二人の道が重なったとしても、別れることになったとしても、彼はその“普通”さのおかげで、誠実であろうとするだろうから。
それは、彼女の心に大きなものを与えるだろう。
彼女が一歩踏み出して、その先へと進んでいくための力を。
周囲から見ればひどく小さいかもしれないが、彼女から見ればとても大きな一歩を踏み出すための――。
――勇気を。
水箱 おまけ
前のバージョンが無くなっていたので、再掲。
みく嬢への救済パート。
成就するかどうかは不明ですが、そうなってくれたらいいな、と思います。
……とりあえず、橋田さんの誤解はなかなか解けないと思いますが(笑)
ともかく、今回書きたかったこととはかけ離れているし、本編とテンションが違いすぎるし、元々の書きたかったことが台無しになりかねないので、おまけ扱いです。
今回の話を一つの物語として見たとき、ハッピーエンドにならないままが正解ではないかと思うので。
幸せになってほしい、とは思うんですけどね(苦笑)
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