*
白い頬の上で、涙がはじけた。
必死の形相に反して、彼の手に力は込められていない。
彼女の詰めた醜い爪痕から、じわじわと血がにじむばかりだった。
「……逃げてくれ」
少年がかすれた声でそう言った。
「どうして?」
「僕は君を殺せない。だから遠くへ逃げて。あの子の目も、僕の手も届かない場所に」
「あなたが殺さなくても、いつか私は誰かに殺されるわ」
それならこの優しい手に殺されるのも悪くない。
さっきまでとは正反対のことを考えている自分に気がついて、彼女はひっそりと笑う。
「早く逃げてくれ。僕の腕は使えないけど、僕はナイフだって持っているんだ」
ぼろぼろと彼の目から涙があふれる。
なんて透明な雫。
どうしたらこんなに美しい涙が流せるのだろう。
彼女はずっと人形だった。傀儡。つまらない空っぽの生き様。
もしも、彼の手を取って逃げたら、彼のようになれるだろうか。思い描いてしまった。
人形のくせに。
「わかったわ。逃げてみる」
願いを押しつけた。
「……そしてあなたを待ってもいい?」
驚愕に、彼の顔が引きつる。
喉が震えて声が出ない。
「僕は……」
振り絞る。
「僕は、行けない」
振り絞って。
「逃げて、早く……! 早く!」
心が揺らぐ前に。
はじかれるように少女は駆けた。
気づいたから、願いの終わり。一瞬にして散った儚い幻想。
目にあふれた醜い雫を彼に見せたくなかった。
彼の涙がはじけたその上を汚したくなかったから、乱暴にぬぐって走った。
そして、運命が追いかけてくるのを待った。
走る少女のあとを、黒衣をまとった男たちが追っていく。
彼らはまともな騎士などではない。見るだけでわかる。
おぞましい、人を殺すものだ。
少年は走った。
追いかけて追いかけて、少女の亡骸を見つけた。
*
赤い女剣士が抑揚のない声で告げる。
「二人の間に何があったかは知りませんが、彼女を殺したのは別の人間です」
それはナイフのように王子の心臓に刺さる。
傷口を抉る。
「……それは、それは誰なんだ、いったい誰が……誰が彼女を殺したって言うんだ!」
「そしてまた殺すおつもりですか?」
「――――……俺はっ!」
「あなたは殺しませんよ。王子としての役目から逸脱していますから。彼が悪の娘だという大義名分がなければ、彼ですらあなたには殺せなかったでしょうから」
王子の目から雫が落ちる。
それは慟哭。
怒りとも、悲しみとも、憎しみとも、そして後悔とも違う。
そのすべてが混ざり合い食らい合った愚かな感情の塊。
醜い、愚か者の涙。
「どうしてだ」
絞り出すように王子が呟いた。
「どうして私にそんな話をする。知らなければ……知らなければ私は」
「あなたと私は共犯です。あなたも私も、あの二人の入れ替わりに気づいていながら気づかなかったことにした。それぞれ互いの、醜くて勝手な望みのために」
そっと、崩れ落ちる王子に女剣士がささやく。
「ならば真実を共有するのもいいでしょう」
「……真実」
その言葉に込められた意味を、彼はかみ砕こうとする。
なんて薄っぺらな言葉だろうか。
思惑に歪められ突きつけられ、こんなにも心を抉るのに、こんなにも短い言葉ですべてが収束してしまう。
「王子、あなたは思ったことがありませんか? すべて誰かの思い通りに動かされているのではないかと」
狂った王女。殺された歌姫。憎む王子。戦う女。愛す召使い。
すべてがすべて絡み合って捻れ合って。
「これが誰かの書いた戯曲ならば、まだ救いもあったでしょうが」
「すべては現実だった」
いつの間にか海が赤く染まっていた。
目立つはずの赤い鎧が、夕日の中に紛れていく。
「もしも、あのまま戦争が起きなければ、この国はどうなっていたと思いますか?」
「……圧政に耐えかねて崩れていただろう。革命が起こればまだしも、それすら起こせる余力があったとは思えない」
「ええ。革命が成功したのは青の国と緑の国の援助があったからです。では、戦争が起きなければあなた方の国はどうなっていたと?」
「私と……彼女の婚姻で同盟関係を結んではいただろうな」
「そして紫の大国に驚異と見なされ滅ぼされていたかも知れない」
「それは……――」
「十分あり得た話ですよ、王子」
赤い陽の中で赤い女剣士が笑う。
優しく、諦めたように。
すべて終わったというように。
「まさか、私の国にこの国を統一させるために戦争を起こしたというのか?」
「そういう解釈もできるということですよ」
「馬鹿な」
「では王子は彼女のあの行動をどう捕らえますか? いくらなんでも処刑の場で自分の存在をひけらかせば捕らえられることくらい、幼い子供でも理解できる道理です」
「彼女は自ら囚われたと?」
「それ以外に何かいい説明が出来ますか?」
王子は険しい顔で考えを巡らせる。
答えは、出なかった。
「たとえ召使いと入れ替わったところで、処刑のあとに遺体は残ります。双子といえど性別の違いはごまかせません。王女が逃れたことはすぐに民衆に知れ渡ります。そして王女が生き残っていると知られれば、王女の人格がどうであれ、それを利用する者が現れる」
そうだ、事実、あれが王女の影武者ではないかと疑いを向けてきた者は少なくない。
そしてその中に、腹の中で謀略を巡らせている者がいなかったとは言えない。
国の栄華は人を狂わせるもの。
醜く歪ませ、人を、殺す。
「そこまで考えての行動だったと、私は信じているんですよ、王子」
「……君は、王女を憎んで革命軍を率いていたのではなかったか?」
「私は一度も姫を憎いと思ったことはありません」
きっぱりとした嘘のない言葉だった。
「確かに私は城から追放された身でしたが、それは親族に紫の大国に通じる裏切り者がいたからで、家族を殺されたというのもその処刑のことです。姫の判断は正しかった。幼かった姫の判断が、です」
「ならなぜ革命を」
「そう望んでいると思ったからです」
赤い女剣士は婉然と笑う。
「言ったでしょう。私もあなたも醜く自分勝手な望みのために罪を犯した共犯だと」
そして唐突に理解する。
ああ、彼女は。
この気丈な女剣士は、この重く苦いものたちを一人で背負うことが出来なかったのだと。
共犯という言葉にすべて押しつけて、その痛みを誰かにも味合わせなければ耐えられなかったのだと。
痛みを押しつける相手として、自分は最適だった。
「王子、あなたには良い国を作ってもらいます。私と、本当に、良い国を」
女剣士は彼に背を向けて、海辺を歩いた。
まだ冷たい波に足を浸して、行き交う波の瀬戸際に立つ。
「私はあの二人の望んだことだからという自分勝手な思いこみのために」
赤く染まる空を見上げた。
彼女を失っても世界は色を失わなかったし、彼女を亡くしても世界は音を殺さなかった。
「そして私は、愛した娘のためという自己満足のために」
女剣士が振り返った。
意外な答えが返ってきたと顔に書いてあったが、すぐにほころばせた。
照れたように笑う。
それは密約。
醜く愚かな、残された者たちの、哀れな生きる糧。
不意に、彼女が足下に視線を移した。
波に漂う小さな小瓶がそこにはあった。
瓶を拾い上げコルクを抜き取ると、中から二枚の紙が出てきた。
一枚は最高級と思われる羊皮紙。かつて城で使われていた公用の物と同じ紙で、もう一枚はぼろぼろのただの切れ端だった。
けれどどちらも書かれている言葉は同じ。
似たような癖の字でつづられた言葉は、ところどころ濡れてにじんでいた。
海の水だろうか。それとも。
女剣士は静かにその紙をたたむと再び瓶の中へと戻した。
そうして、高く高く掲げると、水平線に向かって投じる。
赤い夕日に照らされながら、一つの願いを込めた小瓶が、宝石のように煌めいて波の間に消えた。
「……今のは?」
王子が訪ねると、女剣士は泣きそうな顔で振り返る。
おまじないですよ、と。
*
静かな潮騒。
小さな港は静寂に満ちていた。
朝靄の広がるその浜辺で、一人の少女が水平線を眺めていた。
特に行く当てがあってこの場所に来た訳ではなかった。
ただ歪なにぎわいを見せる街の中央から逃れるように、歩き続けていたらここに着いてしまった。
目を閉じれば面影がよぎる。
その最期を見に行くつもりはなかった。
きっと彼は望まないだろうから。
「言い伝え、知っていますか?」
不意に声がした。
はっとして顔を上げても望む人はいない。
わかっている。
わかっていたのに。
どんなに打ち消そうとしても、面影が消えない。
もうすぐ失ってしまう半身。
恋に落ちた遠い人より、こんなにも愛おしいなんて思わなかった。
今ならわかるのに。
私はただ、ままごとのような恋を、してみたかっただけ。
「知っていたのに……」
彼が誰に恋をしたかも、誰が誰のために罪を犯そうとしたかも。
「ごめんなさい」
呟いた言葉は永遠に届かない。
もう二度と届かない。
もう何もかも終わってしまった。
すべてが遠い。
波が編み上げの靴を濡らしていく。
その足下に、小さな瓶が転がっていた。
見渡せばたくさんの小瓶が浜辺に流れ着いている。
この辺りの海流は複雑で、この浜から何かを流そうとしてもほとんどが戻ってきてしまう。
(そんなの意味ないじゃない。だいたい瓶に入れて流しただけでかなうなんて、そんな馬鹿な話があるわけないわ)
(だからこそですよ。こんな風に戻ってこなければ願いは叶うと、そう思われたんじゃないですか?)
(ふん)
つまらなかった。
あのころは何もかもつまらなくて。
この国の先も見えていたし、隣国の王族たちも自分に使える家臣たちも、みんながみんな同じ顔に見えた。
そうして転がっていた瓶を蹴飛ばした私を、彼は哀しそうに見ていた。
いつからか、そんな顔をすることが多くなった。
それでも私が振り返ると、彼はにっこりと笑うのだ。
昔と何一つ変わらないように。
すべてが変わってしまったあとも。
愚かにも私を逃がそうとしたときも。
「……愚かなのは私よ」
知っていたのに。
今更悔いるなんて遅すぎる。
雫が、瓶の上ではじけた。
足下の瓶を拾うと、少女はそれを高く掲げた。
誰の願いかは知らないけれど、それで心が救われるというなら、せめて遠くに流してあげようと思った。
そんな風に、純真に何かに想いを託せるということが、叶うかも知れない願いがあるということが、羨ましかった。
そして、気づく。
瓶の中の見慣れた羊皮紙。
それは栄華を極めたあの城の、私たちの部屋で。
金の模様を入れさせた、この国を表すただ一つの羊皮紙。
手が震えた。
取り落としそうになる手を必死で言い聞かせ、コルクを抜き取った。そんなに古くはない。前に彼とこの港を訪れたときのものではない。
彼がここに来れたのは、
革命軍に城を取り囲まれたのが夕暮れ。
彼の服を私に渡したのが昼過ぎ。
明け方夜も明けないうちに、城から抜け出す彼を見た気がしたのは、夢でなかったとしたら。
懐かしい手触りの羊皮紙を広げる。
そこに書かれていたのは。
それは、
朝靄の港町を一人の少女が走る。
金髪に青い瞳、悪の娘と名高い王女とよく似た特徴の少女は、みすぼらしい格好をして、ただひたすらに書く物を探していた。必死の形相でいったい何を探しているかと思えば、紙とペンを貸してくれと言う。
奇妙な少女は震える手で何かを書き綴ったあと、ふらふらと浜辺へと消えた。
それ以降、少女を見た者はいない。
*
群衆は沸き立っていた。
怒りも苦しみも憎しみも。歓喜も安堵も興奮も。
すべてを飲み込んだ一つの大きな渦が、広場の中に吹き荒れていた。
かつて王女と呼ばれた少女はそこに立っている。
「私にも、まだ叶えられる願いが残っていたのよ」
小さな声で、王女と呼ばれていたその人に向かって呟く。
届かないのは知っていたし、届いても無駄なこともわかっていた。
「でももうあなたに叶えてもらうのはやめたわ」
いつだって私の願いを叶えてくれた。
どんな願いも。
そのためにたくさんの罪を犯しても。
恋した人を見殺しにしても。
(今日のおやつはブリオッシュだよ)
優しい声ばかりが蘇る。
それが私の罪。
愚かで醜い、私こそが悪の娘。
ならば最期まで演じましょう。
この世でもっとも醜い私の、最後の願いのために。
「もう終わってから気づくなんてことはしない」
決めた。
ただ一つの願いのために。
最期まで私のために生きてくれたあなたのために。
そう願う、自分勝手な私のために。
断頭台の隣で赤い女剣士が天を仰いでいた。
幼い頃から随分変わってしまったから気づかなかったけれど、生きていてくれて、こんな形でもまた会えて嬉しかった。
ごめんね、私は結局最期まで、私のためにしか生きられなかった。
さあ、願いを叶えましょう。
「――おーっほっほっほっ!
「愚かな人たち! それでわたくしを殺したつもりなの? 王女と召使いの区別もつかないなんて解放軍も愚劣の極みね!」
どうして、と彼女の口が動く。
生きてほしいと望まれている。
哀れみの混じる冷めた表情でかつて恋した人が私を見る。
生きていくことを許されていた。
知っている。
知っていた。
けれど、
昔々あるところに悪逆非道の王国の
頂点に君臨してた齢十四の王女様
のちの人はこう語る
彼女はまさに悪の娘
――もしも生まれ変わったら、また一緒に遊んでね
ただ一つ残された願いを叶えるために。
「さあ、跪きなさい!」
私は悪の娘。
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