深夜の作業机に向かっていたはずなのに、ふと気づくと画面の中で言葉たちが落ち着きなく揺れていた。まるでページの裏側でざわざわと相談しているようで、書いた本人であるはずの自分が追い出されたような感覚になる。歌詞というのは、こちらが書いているつもりで実は向こうから歩み寄ってきているだけなのかもしれないと思うようになったのは、この現象を何度も経験した後のことだった。意図して置いたはずのフレーズが気づけば別の場所に移動して、意味のつながらないような言葉どうしが急に手を取り合うようにつながる瞬間がある。これはもはや創作ではなく、言葉が自分の足で歩き出して、新しい居場所を見つける旅をしているに近い。
その変化を止めようとすると、言葉たちは途端に固まり、動きをやめてしまう。正しさを押し付けると途端に静かになり、無音の空白が広がって、何を書いても合わないような気がしてしまう。だから最近は、書くというより見守る感覚に近づいてきた。自分が先導するのではなく、言葉の動きを観察しながら必要なところだけそっと障害物を取り除くような作業だ。すると言葉たちはふっと軽くなり、歌の芯になる場所へ勝手に流れ込んでいく。文字が流体のように見える瞬間で、その柔らかさに任せたほうが、結果的に自分が書こうとしていたものよりずっと歌になる。
この奇妙な協力関係に気づくと、創作に向かうための姿勢も自然と変わってくる。意外なのは、まったく関係のない日に拾った気づきや、雑談の中で出た言葉が、後になって歌詞の主役になったりすることだ。自分の中で消えたと思っていた断片が、ひっそりと残っていて、しかるべきタイミングで言葉の旅に合流する。こちらの記憶よりも、言葉のほうが事実を覚えていて、その記憶を使って歌を組み立てていくように感じることすらある。創作は積み重ねと言われるけれど、実際には自分よりも言葉のほうが積み重ねていて、自分はその過程を観測しているだけなのかもしれない。
だから、書けない日があっても焦らなくなった。書くべき言葉がまだ旅の途中なら、自分が机に向かっても何も起こらないのは当然で、こちらの都合では呼び戻せない。時間が経ち、言葉のほうが戻ってくる気配を感じたときに、ようやく画面の前に座ればいい。そのときにはすでに言葉たちが整列し始めていて、一行目を書いた瞬間に動き出すこともある。創作は自分の中で完結するものではなく、言葉との共同作業で、時には主導権を言葉に渡したほうが意外な景色が見える。
最近は、この動き出す言葉たちをどう扱うかがひとつの楽しみになってきた。歌詞がふと歩み出した瞬間の、あの小さな違和感と期待の入り交じる感触が癖になり、何が始まるのか観察する楽しさがある。自分が創っていると思い込んできた世界の中に、実は自分より自由な存在がいることに気づくと、創作はもっと軽やかで遊び心のあるものになる。夜の静けさの中で、言葉たちが次にどこへ向かうのか耳を澄ませていると、その旅の続きを書く準備ができていることに気づく。歌詞が勝手に歩き出す夜に、自分も少しだけ歩幅を合わせてついていくのが心地よくなってきた。
【阪田和典】歌詞が勝手に歩き出す夜に
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