今になっても時折、夕暮れの後塵を眇眼に纏う度、思い出す。
斜陽に煌めく粉塵の光柱。寒暖を帯びない無温の空気。その癖、何時までも浸かりたくなるような、歌声の瑞浴。二人きりの、音楽室。
彼女は、今でもウタを歌っているのだろうか。
十年も前の話である。脳科学の視座からは、人の記憶に欠落は有り得ないという。
如何に些細な出来事さえも、それらは決して失われることなく、人の脳裏の片隅に収納されて、死の縁まで保存され続けるらしい。
走馬灯とは、死に至る危機を回避する為、過去のあらゆる経験から、絶体絶命の危機を切り抜ける為に、生存手段を検索する機能である。
味気無い。と評するよりは、あまりに実感を伴わない意見だと思う。
実際の話。十年を跨いで思い出せる事柄など、そう多くは無い。
例えば、今現在、暮れなずむ夕日を眺めて、さて、高校時代の自分はあの夕日をどのように眺めていたのだろうか。
例えば、今現在こうして夕日を眺めている自分を、夕日を眺めて十年前を思い起こしている自分を、果たして十年前の自分は予想し得ただろうか。
いや、より簡潔に。十年前の自分が何を信条にして生きていたか、何を目標にして生きていたか。更に簡潔に。そもそも、「何を思って生きていたか」。
即答できる人物は稀有だろう。それほどまでに、年月の隔たりは感傷の疎隔を生む。
それでも。
それでも、自分の中には、未だに色褪せない光景がある。
他のどんな事柄が、時間という薄膜を重ねられて、最早原型の分別も付かない繭と成り果てていても。
無人の音楽室。他人の介在しない音楽室。二人きりの音楽室。
斜陽に煌めく粉塵の光柱。寒暖を帯びない無温の空気。その癖、何時までも浸かりたくなるような、歌声の瑞浴。
十年の隔たりを経て、尚。
僕の中に鮮明に浮かぶ、たった一つの光景。
たった一人で歌う少女。たった一人で歌を聴く自分。
主演と聴衆。役割が明確に隔てられながらも、そのどちらも世界の端役だった二人。
歌うこと以外、何一つ出来なかった少女。聴くこと以外、何一つ出来る気のしなかった誰かが。
一度として触れ合うこともなかったが故に、触れる必要のない何かを結線したことと。
一度として触れ合うこともなかったが故に、触れ合わなければならなかった時に、何一つ共有できなかった誰かの話。
今になっても時折、夕暮れの後塵を眇眼に纏う度、思い出す。
あの女の子は、今でもどこかでウタを歌っているのだろうか。
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