いつまでもずっと、昔からの関係が続くと思っていた。
ただの幼なじみとして過ごした期間が、彼が大人になり始めていることを認めたくなかったのだ。
高校最後の年を迎えた私と、教育実習を明日に控えた彼。
四つも年が離れた私たちがどうして仲良くなったのか。
親同士の仲が良いのは間違いないだろうけど、肝心の本人たちがそもそものきっかけを覚えていない。
確かなのは、昔から互いの家を行き来するくらいには、お互いに気が合っていたこと。
「でも驚いたな。キヨちゃんがまさか、うちの学校に教育実習生として来ることになるなんて思わなかった」
「おまけに僕の担当するクラスに君がいるんでしょう。何組か聞かされた時、一瞬耳を疑いましたからね」
「それは私の台詞なんだけど。でもさ、いくら二週間しかいないとはいえ、ずっと無愛想なまま実習する気?」
彼は感情表現が苦手で、上手く人前で笑ったりすることができない。
よく私も「表情筋、家出してるんじゃないの」とからかったりしたけど、それを彼が気にしているのを私は知っている。
何度か作り笑いの特訓はしたものの、結果は惨敗。
結局家族以外で一番付き合いが長い私でさえ笑ったところは見たことがないが、機嫌の良し悪しは容易に判断できるようにはなった。
「何日か君に付き合ってもらって練習したのにすみませんね」
「まあ、今に始まったことじゃないし仕方ないけど。例えそれでキヨちゃんの印象が悪くてもさ、どうせみんな二週間しかいなかった人のことなんかすぐ忘れるって」
「そうだといいんですけど。最近の高校生の噂話が、今この世で一番怖いものだと思ってますから」
「あー…まあその辺は、うん、気にしないでいこう」
彼のほうが年上なのに話し方が丁寧なのは、小学生の時に罰ゲームで敬語を強要されて以降、ずっとその話し方で通しているからだ。
特に期間は設定されていなかったし、彼もそれで慣れてしまったので今更話し方を変えるのは難しいのだとか。
「氷山先生って呼ぶの抵抗があるなあ。うっかりキヨちゃんって呼ばないか心配」
「学校では幼なじみだという事、伏せるんでしょう。なるべく話しかけないようにしますけど大丈夫ですか」
「大丈夫も何も、いつもこうやって会ってるし全然気にしないよ。…待って、いっそ学校で『キヨちゃん先生』っていうあだ名を広めてしまえば完璧じゃない?」
「ちゃんなのか先生なのかややこしいですし、それがしっくり来ているのは君だけかと…。それに僕は実習中帰りが遅くなるので、いつも通り会う気だったのなら明日からしばらく話せなくなりますよ」
「えっ?本当に?困ったな、その間数学の宿題は誰に聞けばいいの」
「たまには君のご友人と放課後を過ごしてはどうです?」
「ああ、そっか。その発想はなかった」
互いの部屋で何気ない会話を毎日繰り返して、時々夕飯を一緒に食べてはおやすみを言い合う。
部屋に何の本があるのか。どの音楽が好きなのか。
自分でさえ気づいていないだろう癖や、ほかの人の前では見せない表情。
私は『氷山キヨテル』という人間の生活の何割を知っているのだろうか。
一番仲が良い人をあげろと言われれば、迷わずに彼の名前を答えるくらいには、私は彼との日常が好きだった。
「しかし、幼なじみとは言え、僕はもう大学四年生ですよ。成人男性を年頃の女の子が自分の部屋に躊躇いもなく上げるのは、正直どうなんですか」
「客観的に見るとそういうことになるか。でもその成人男性さんも、どっかの幼なじみ兼高校三年生を部屋に上げているからおあいこじゃない」
「ここ数年に関しては、君が僕の部屋に押しかけてくると言うほうが正しいと思いますけど。さすがにもう気軽に泊まっていくとは言わないほうがいいですよ。僕は心底心配です」
小学生の時はよく彼の家に泊まりに行ったものだけど、いつからか彼はやんわりと私の誘いを断るようになった。
彼といると安心できて夢見が悪くなることがない。だから彼の隣がいいのだが、人目や年齢を考えるとそう気軽にできるものではないのだ。
「だってキヨちゃんの声聞きながらだと、嫌な夢を見なくて済むもん。だったらせめて寝る前の電話は許してよ。お願い、人助けだと思って、聞き入れて」
「これは世間一般的には恋人同士の会話ですよ。君はもう少し自覚を持ちなさい」
「急に変なこと言わないでよ。第一、好きとか恋人とかよくわからないし、私にその判断を求めないで」
「じゃあライクかラブか、この際ですし確かめてみればいいんじゃないですか。試しに僕の好きなところを上げてみれば、幼なじみではなく一個人として僕を見られると思いますし」
「キヨちゃんの好きなところ?うーん、ちょっと待って。集中するわ」
私にとって彼はずっと、笑顔が下手くそな優しい幼なじみで。
当たり前のように隣にいて、どんなことも話せて。
表情で伝えるのが苦手だから、人よりも真剣に言葉で向き合ってくれて。
男性では少し高い声色、だけど感情を隠した落ち着いた話し方で、時に私を眠りへ誘う。
少しでも冷たい表情を和らげようと眼鏡をかけ始めた、妙に生真面目なところとか。
本を読んでいる時の、文字列の上を辿る指先とか。
考えてみれば、私の知る彼の魅力は尽きないのかもしれない。
「…うん、改めて言葉にすると恥ずかしくて布団にこもりたくなるから、やっぱりいいよ。キヨちゃんだって私の好きなところ、言葉にできないでしょ。今更改まって言うのも抵抗あるだろうし」
「そうですか?僕はいくらでも言えますよ。例えば、オシャレはどうでもいいなんて言いながら、爪の手入れを気にするようになったところや、苦手な教科は僕に聞いて、自分で克服しようと頑張る健気さとか」
彼の手に絡め取られた指先に唇を触れさせ、その一瞬の温もりを意識してしまう。
「その甲斐あって、苦手な数学で大きくクラス順位を上げたり、困っている人に対して真摯に対応する優しくて真面目なところとか」
私の指を手のひらで覆うように掴んで、手の甲に感じる彼の熱。
今までたくさん彼の手には触れてきたというのに、今日はその接し方が違う。
「鮮やかな金髪が陽の光を受けて輝く朝に、君のおはようを一番に聞ける幸せとか」
「ちょ、ちょっと、キヨちゃん」
「いつだって無愛想でコミュニケーションが苦手な僕を、どうにか周囲に馴染ませようといろいろ必死に考えてくれる優しさ。それが幼なじみとしての義務感からくるものなのか、僕には分かりませんが、おかげでそれなりにやって行けるようになって、何をしても恩返しは足りないくらいです」
「ひゃっ、腕はちょっとくすぐったいよ、キヨちゃんってば」
腕に、額に、髪に。
次々と与えられる熱と言葉の濁流に戸惑う頭が、段々と状況を理解していく。
キスには、部位によって意味が異なるのだと聞いたことがある。
その意味になぞらえた言葉を彼が今紡いでいるのならば、彼の真意はなんだろう。
「ねえ、ストップストップ。よくわかった、キヨちゃんが私のどこが好きかはよくわかったから!」
「なんですか、まだまだ足りないくらいですよ」
「いやいや、これ以上聞いたら私、どうにかなっちゃうから…」
絡まる指を解いて、その手が私の胸に触れる。
胸と言ってもほぼ鎖骨に近く、その私より少し大きな手のひらは私の鼓動をただ推し測っている。
「へえ、本当だ」
「わかっててやってるくせに…そういう意地悪なところもあるのね」
「そうですよ。僕はそういう意地の悪いひとなんです。だからこそ君の優しさが、僕一人に向けばだなんて考えている。悪い大人なんです。だから」
恥ずかしさを隠せずに俯く私の顎を持ち上げ、彼はより真剣な顔で私に告げる。
「リリィ、君を想うこの感情は、君から見てどうですか?」
真っ向からぶつかる視線、吐息のかかる距離にある彼の唇。
覚悟を決めて目を閉じようとしたその瞬間、玄関の方から鍵の開く音が響いた。
「君のご両親が帰ってきたみたいですね。じゃあ僕も帰るとしましょうか」
「な…私の覚悟!空振りじゃない!」
「おや、その気になりましたか。そういう純粋なところもたまらなく好きですよ。ですが二週間も放置するのはよろしくないですからね」
何かを言おうとした口を塞がれ、一瞬でその柔らかなものは離れていった。
そのたった一回のキスで、抗議の言葉さえ彼に奪われたようで。
「君の気持ちも、そういうことだと受け止めますよ。ではまた明日、学校でお会いしましょう」
そう言ってわずかに上がる口角に思考を奪われる。
もしかして、意識して私の前で笑わなかったのだろうか。
私を惑わせるためだけに?
夜空を見上げれば、雲ひとつない満点の星が広がる。
彼に心の奥底を紐解かれて、明日からどう過ごせというのか。
今夜の夢は、いつもとは違う意味で悩まされそうになるだろう。
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