戦場は陸路の国境にほど近い街だった。
美しい石造りが風光であった街は炎に煤け、あるいは崩れた姿を晒しながら、なおも戦火に耐え、その面影を留めていた。
その外れ、忘れられたように残されていた、かつての時代にもここが戦場であったことを示す古く堅牢な城が、戦の本営の置かれる場所となった。
戦況は圧倒的にシンセシスにとって不利だった。
二国間の有する国土の差はそのまま兵力の差となって、小国に過ぎぬシンセシスへと圧し掛かる。
それでも、意外なことに前線を守る兵士達の士気は決して衰えてはいなかった。
理由は単純だ。
彼らが頭上に戴く国王自らが、今まさにこの地に居るからだ。
そして異例なことには、うら若き王妃までもがそれに付き添い、戦場へと身を置いていたことである。
直々に将や兵を指揮する王の傍らで、彼女は怪我を負った兵士を見て回り、手ずから治療をし励まして回った。
王と王妃という常ならば遥か雲上の存在が、戦場の危険をも顧みず前線の自分達のすぐ傍にあるということが、戦場で戦う兵士たちの精神的な支えとなって、重なるクリピアの侵攻を幾度となくしのがせていた。
飾り気のない石の階段をミクは足早に上っていた。
小さな明り取りの窓から僅かな光が差し込むだけの城内は昼であっても薄暗く、荒く切り出した面もむき出しの床はごつごつとして歩きにくい。
遠い時代の戦いの中で作られた古城は、それに似つかわしい無骨さと重さでもって、新たな主と新たな戦いを迎え入れた。
外界を隔てる分厚い石の壁の内には、今なお往時の空気を留めるかのような荒々しい空気がそこかしこに残っていたが、彼女はそれにも構わぬ様子で、時の経過を教える色褪せて擦り切れた絨毯の上を、目的の場所へと進んでいた。
「陛下。お呼びでしょうか」
真っ直ぐに目指した部屋へと辿りつき、彼女はひとつ息を吸って、控えめな声を掛けた。
「・・・ミク」
呼びかけた相手がすぐに気付いて、彼女の名を呼ぶ。
目が合うと、少しだけ待つようにと上げた片手で示し、彼はすぐ隣へと視線を移した。
そこには軍を束ねる何かの役職に就くものか、鎧を身に帯びた男がひとり、直立した姿勢で控えていた。
彼らは短く言葉を交わし、幾つかの指示と了承が行き来すると、その将と思しき男は機敏な動きで退出の礼を取った。
扉近くに控える彼女に対しても、すれ違いざま丁重な礼を取っていくのを、僅かに瞼を伏せることで受け止め、ミクはすぐにその視線を部屋の奥へと向けた。
「すまないな。急に呼び立てて」
戦が始まってからというもの、常よりもなお厳しい表情を崩さない男の瞳が、ミクの姿を映して僅かに緩む。
応えるようにミクは微笑み返し、すぐにそれは真剣な顔へと取って代わった。
「何か、変わった動きがあったのね。私を呼んだということは、ボカリアが何か・・・?」
過たず的を射た返事に、レオンは感嘆の溜息をついて頷いた。
「救援の申し入れがあった」
無駄な前置きを省き、彼は単刀直入に話を切り出した。
本来なら喜ばしい知らせであるはずの、それを告げる声に喜色はない。
思案げな夫の顔をミクは見つめた。
「君はどう思う?受け入れて、足元を掬われる可能性があると思うか?」
「ないと思うわ。少なくとも、今はまだ」
構えた様子を見せるレオンの言葉に、彼女もまた慎重な答えを返した。
「兵士の借り入れは避けたほうが良いけれど、戦場になった街や村の復興支援の人手なら問題ないはず。でも、ボカリアの人間はなるべく本営の傍には近づけない方が良いわ。もし父や兄が狙うとしたら、まず私かあなたよ」
「真っ先に頭を狙うのは常套だが。・・・君のことも?」
レオンが訝しげに首を傾げる。
彼女の実家たるボカロジア家は、敵対するものへの苛烈さとは裏腹に、身内に対しては酷く甘いと言われる。
夫の疑問に、少女は目を伏せて微笑んだ。
「私はもはやボカリアの公女ではないもの」
「・・・だが、君がいるおかげで、ボカリアとはまだ友好を保っている。少なくとも表面上は。正直、物資も人手もありがたい」
恋敵のいる国の助力に頼るのは、心中としては酷く複雑だが。
内心で呟き、レオンは口元に苦い自嘲を滲ませた。
見咎めてミクは手を伸ばし、頬に触れようとしたそれを寸でで止めた。
代わりのように、たしなめる言葉を夫へと掛ける。
「レオン。大事なのは生き残ることよ。建前の同盟であっても、利用できるものは利用するの。生き残りさえすれば、あなたとこの国の勝ちよ」
「・・・わかっている」
彼女が触れることを躊躇ったその手を、レオンは自ら手を伸ばして取った。
ここへ来るまで、衛生兵や街の女達に混じって負傷兵の手当てを手伝っていた、その手も服も血や泥で汚れている。
それらに構わず、彼は少女の華奢な手を押戴くように額を寄せた。
「君は戦場を恐れないんだな。負傷した兵士たちのことも。・・・血や怪我や死が、恐ろしくはないのか」
問い掛けに暗に含まれる気遣いに、ミクの表情が翳りを帯びた。
「恐ろしいわ。血も怪我も彼らの痛みも苦しみも、とても怖い。私はあんな風に傷ついたことなど一度もないもの。どれほどの苦痛か想像もつかないわ。・・・でも死だけは違う。死は恐ろしいのではないわ。耐え難いのよ」
最後の不可解な言葉に、レオンは顔を上げた。
「耐え難い?何故?」
答えには、一瞬、迷うような間があった。
「―― 神様を信じていないから」
「・・・?」
レオンは怪訝に眉を潜め、己が后を見やった。
その言葉の差す意味を、俄かには掴み損ねたからだ。
「・・・それは神の思し召しを信じないと?」
「いいえ。神の存在をよ」
今度は躊躇いなく、はっきりと返された断定に、彼は続けるべき言葉を失った。
異なる宗派の唱える教えの違いから、人々が争うことはある。己が身の不運から、神を呪うものもいる。
けれど、その存在を否定するものはいない。いたとしたなら、それは狂気の沙汰だ。
神の存在それ自体を疑うなど、どんな非道を犯した罪人よりもなお罪深い傲慢といえる。
ひと度そんなことを口に出せば、どれほどの地位にいる王侯貴族であろうとも、世間の謗りは免れない。レオンもまた、それを当然のことと断じるだろう。・・・それが、この少女以外の誰かならば。
男の内心の動揺と葛藤を理解しているように、ミクは小さく苦笑した。
「ごめんなさい。一国の王妃が口に出して良いことではないわね。・・・でも本音よ」
室内に僅かな光を齎す小さな明り取りの窓を見上げて、静かに瞼を伏せる。
瞼を縁取る長い睫毛が、静謐な横顔に影を落とした。
豊かに流れる翠の髪を唯一の身の飾りに、簡素なドレスを身に纏い、光を求めるように頭上を仰ぐ姿は、敬虔な殉教者のようにすら見えるというのに。
「私は天を信じない。死んでしまえば行き先は天国じゃない、何もないわ。何も残らない。唯一、残された死体だってすぐ朽ちて、埋葬されて、そして忘れられていくわ。それが耐え難いの。一欠けらで良い、私が存在したことを示す何かを残さなくちゃいけないのよ。形のあるものでも良いし、誰かの記憶の中にでも良いの」
囁く声に秘められた、強い渇望の響き。
いつの間にか開かれた碧い瞳は何を見据えているのか。遠くを見る、焦がれるような眼差しに、レオンはただ魅入られたように目の前に立つ少女を見つめた。
まるで祈りにも似た仕草で、彼女は重ねた両手をそっと胸に当てた。
「・・・歌は良いわ。ずっと残るもの。人から人へと伝わって、長い時間を歌い継がれるわ」
「カンタレラ」&「悪ノ娘・悪ノ召使」MIX小説 【第20話】
第20話です。間が空いてすみません・・・orz
ここからラストまでは、一気に書き上げていきます。(でないと、話の緊張感が切れる・・・)
今回は一話きり。第21話に続きます。
http://piapro.jp/content/thwn4rlizqeinhgn
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