「うわ、多いな……」
テーブルにどんと置かれたメロンソーダフロートを見ながら、わたしは聞こえない程度の声でつぶやいた。
ほとんど足を運んだことのない通りの、初めて入る喫茶店、一番奥のカド席。効かせすぎの冷房と、そしてたっぷりのメロンソーダ。わたしはこの時、なんとなくの孤独に満たされていた。限りなく広い世界の中に、ほんのちっぽけな自分がいる。そんな分かりやすい感傷に心地よく身を委ねていた。
平たく言えば、これは家出かもしれない。何が嫌なわけでもなかったけど、あの人とすこし距離をおきたくなったのだ。
一時間ほど前。日が傾きはじめた頃、あの人はわたしに財布を投げ渡し、コンビニに行ってくるよう言った。わたしは家から4分のところにあるコンビニまで歩き、言いつけられたスイーツを買って、ついでにガス代を支払った。別段面倒でもないおつかい。用が済んだら、あとはもうサッと帰るだけだ。
けれども、今日の夕方は一筋縄ではいかなかった。自動ドアからコンビニの外に一歩出た途端、わたしの目に、劇的に鮮やかな夕焼け空が飛び込んできた。
その時の空は、いつも見ている想い出の住人みたいな暖かいオレンジ色ではなく、もっと紅や紫に近い、派手なわりにすこし物悲しい色をしていた。そこに規則正しく並ぶうろこ雲のひとつひとつが、つくりものめいた赤い影に彩られていた。
そのことは、わたしひとりだけにとって、何かものすごく深刻な問題であるように感じられたのだ。すぐ先の未来に思いをはせてみれば、たぶん昨日と同じ部屋と、昨日と同じあの人。なにも変わらないということは、すこしくたびれてるということ。それを思うと目の前の光景は、ほんとうに突拍子もないものだった。
いつしか、家に帰りたくないという、たったひとつの単純な命題が、なんとなくわたしの心を支配していた。そしてそれを拒むわたしはどこにもいなかった。買ったものとあの人の財布とをお気に入りにポーチにしまいながら、わたしは家と反対方向に歩きはじめた。
ごくわずかに緊張していた。けれど、半分眠っているような安堵感もあった。
あの人とわたしは、ひとつ屋根の下に暮らしながら、互いを必要としている。そんなハッピーな前提のもとの生活は、時の経過とともに、少なくともわたしの中において、すこし揺らぎ始めていた。好意的にとれば、そのハッピーがが当たり前になりすぎて、見失っただけなのかもしれない。なにか不満があるというより、ただ漠然と不安なだけだった。だから今この瞬間、その前提にくっきりと亀裂が入るかもという新鮮な予感に、私は素直に従ってみたかったのだ。……つまるところ、大した理由なんか何もない。
きっとすごく怒られるだろうことや、ひょっとすると大騒ぎになる――大騒ぎしてくれるかもしれないことは、まるで途方もなく遠い未来の事件のように感じられた。ただふらふら近所を歩いているだけなのに、なんだか宇宙をぼんやりさまよっているみたいな気分になった。
あの人はわたしに携帯を持たせてくれない。それが今日のわたしのアドバンテージであるように感じた。できるだけ知らない道、知らない道を選んでわたしは進んでいった。勢いだけで進むことを空の色がすべて許してくれていた。しかし、ついに宇宙空間の果てしなさを持て余し、同時に喉の渇きもおぼえたわたしは、ちょうどそこにあった喫茶店のドアを、せーので開けてみることにしたのだった。
長いスプーンをなるべく気だるげに持ち、不健康な色の炭酸に浮かぶ白いアイスをもてあそびながら、わたしは何かを考えるのを止めていた。このあとのことをじっくり、真剣に考えはじめてみれば、思い浮かぶ選択肢はほんの僅かで、しかも泣けてくるほど現実的だ。それよりも……それならば、今は気負いなく、飽きるまでこうしていたかった。頬杖をつくには、すこしテーブルが高かった。
「どうしよっかなあ……」
ため息混じりの自分の台詞になぜかうっとりしながら、けれどわたしは同時に、寒気にも似た寂しさを感じた。いつまでもここにはいられない、と突然はっきり気づいた。それが孤独の正体だった。心地いい感傷は簡単に裏返り、ひたすら惨めな気持ちが襲ってきた。誰かにせかされ、ぎゅうっと押し出されるような、そんな圧迫感を感じて泣き出しそうになった。ひょっとしたら少し泣いていたかもしれない。
やっぱりここ、冷房効き過ぎてる。白く濁ったメロンソーダを七割ほど残したまま、わたしは喫茶店を後にした。
とうに日は暮れきっていて、わたしをたぶらかしていた夕焼けは跡形もなく消えていた。
まだ家には帰れそうになかった。こんな中途半端なタイミングで戻った方が、かえって気まずい。あてもなくゆっくりと歩きながら、ついさっきまでの考えなしの自分をじんわり呪った。わたしは何がしたいんだろう。真っ暗な空は力いっぱい無表情だった。
電灯に惹かれる虫のように、足はぼんやりと駅の方向へ進んでいた。すれ違う人たちが全員突然に自分を叱りつけそうな気がして、何度もうつむきがちになった。けれど落ち込んでいる自分を他人にアピールしているように見えるのも嫌なので、無理やり顔を上げ、建物の看板を忙しく見まわしながら、何かを探しているふりをして歩いた。
途中、ゲームセンターの前を通りかかった。中の空気は外より少しもやがかっているように見えた。今の自分の状況からすると、ああ、なんだか定番だなあと思い、しばらく店の前に立ち止まっていたが、その姿がきっととても挙動不審であろうことに気づき、わたしは突然焦りをおぼえた。結局入店は見送ることにした。こんなところで、怖い雰囲気の人たちやカップルに混ざってだらだらと遊ぶような気分でもなかった、というのは後付けで、これ以上財布からお金を抜き出すのは無謀であるという現実的な理由がまずはじめにあったのだけれど。
ゲーセンから足早に遠のきながら、わたしは今の自分の思考を反駁して、心底うんざりしていた。普段から優柔不断な人間が嫌いだったが、それがよくある同族嫌悪であることを思い知らされて腹が立っていた。わたしは一時の衝動に身をゆだねきれなかった。もし空が相変わらず鮮やかな赤色だったら、どうだったかはわからない。しかしわたしは見送った。じゃあ、もう帰ればいいのに。それも嫌だった。
駅の周辺がどんなに賑やかだろうと、覚悟の無いイエデさんに居場所はない。わたしは何故かそのことに面食らっていた。
しばらくは線路沿いを歩いていた。駅から離れるにつれ外を歩く人もまばらになり、住宅地ばかりになっていった。家々の窓からのぞく光と、その中で営まれているであろう間違いのない幸せな暮らしに、ほんのすこしばかり恨めしさをおぼえると同時に、わたしは自分が自分に課された役柄を律儀に演じている気分になって、急に可笑しくなった。
わたしの中でいつの間にか行き先が決まっていた。海だ。南へ行けば勝手に海にたどりつく。まっくらい夜の海。
わたしは突拍子もなく安心していた。街をうろついていた時のどうしよう、どうしようというような心の濁りは、行き先が決まるとともにゆっくりと消えていった。けれど、心が澄むほどにあのひとのことをまたはっきりと思い浮かべてしまい、それはそれで確実にわたしの心をさいなんでいた。
視界の果てから列車がやってきた。まばゆいライトがわたしの方へ向かってくる。列車に乗るすべてのひとの家路を照らしている光だ。すれ違いざまの轟音にあわせて、わたしは大きな声で歌を歌った。息を大きく吐いて、大きく吸った。
夜の海に境界線はなく、夜空は海で、海は夜空で、つまり救いようのないほどあたたかい闇だった。波があるあたりは間違いなく海で、月があるあたりは間違いなく空なんだろう。ヒントの少ない光景だ。
まわりには誰もいなく、道路灯が遠くからまばらに足元を照らすばかりだ。わたしは防波堤に立ち尽くしていた。そしてゆっくりと、海に向けて突き出している部分の先端ギリギリのところまで足を進めてみた。一歩進めば底なしの闇、そして終点というところまで。
この時わたしは、あの人と共に過ごしているこの世界の、果ての果てに立っていたのだ。いちばん、いちばん遠くまで、家出してしまったのだ。恐怖でも、さみしさでもなく、体が震えた。これを感動と呼ぶんだろうか。
そのまま、世界の果てこと防波堤の突端に腰を下ろしてみた。真っ黒な海の上に足を投げだすのは勇気が必要だったが、いざやってみると快適だった。わたしはおもむろに膝の上のポーチを開けてみた。財布が飛びださないように気をつけながら、コンビニ袋を取り出した。
袋の中身は、プリンがひとつに、焼きプリンがひとつ。あわせてふたつの厳選スイーツ。あの人はいつも焼きプリンしか食べない。今日はわたしもつられてプリンを買った。申し訳程度の灯りの中でひとしきりプリンたちを眺めた後、わたしはそれを元通りにコンビニ袋にしまい、さらにそれを元通りにポーチにしまった。別にプリンを海に投げ捨てたりする理由はないし、生ぬるくなったプリンをここで平らげたかったわけでもない。ただ、さがしものが見つかっただけ、とでも言えばいいのだろうか。
わたしが世界の真ん中に帰る準備は、なんだかんだでもう整っていた。帰ればたぶんやさしくないことがたくさん待ってる。それはちょっと嫌だなあと思いながら、わたしは疲れてしまうまで、目の前のアンノウンな闇の中に両脚をふらふらと泳がせ続けていた。夜はきっと、うんざりするほど長い。ふんわりとした風が、わたしを通り過ぎて行った。髪がなびいた方向に、歩いてみることにした。
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さたぱんP
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