「パラジクロロベンゼンって、知ってる?」
彼の問いは、大抵が唐突だ。今回も何の前振りもなく質問されて、私にしては珍しく途惑ってしまった。彼も私を困らせたいわけではないから、私の反応に申し訳なさそうな顔をしている。逆にこちらが悪いことをしてしまったような気分になり、私は急いで言葉を継ぎ足した。
「科学の授業で習ったかもしれない。急にどうしたの?」
「うん、ちょっと気になっただけなんだ。ごめんね、驚かせて」
はにかんだような表情が、姉の私から見ても可愛いと思う。ずっと側にいて、一生守ってあげたい。自然とそんな気持ちを抱かせる魔性の笑みだ。
「融点53℃、沸点174℃。常温で昇華して、その時に強い臭いを発する化合物。化学式はC6H4Cl2だったかな。主な用途は防虫剤だけど、ボクらには授業の実験の方が身近だよね」
説明する彼の口元を見つめ、そういえばと私は過去に思いを馳せる。いつだったか、まだ幼い頃に、彼が奇妙な白い物体を家に持ち帰ってきたことがあった。あの頃はまだ一日の大半を自宅で過ごしていたから、私はその物質を持ってきた彼を二人の部屋で出迎えた。何か素晴らしい宝物のように小さな手に包まれたその物体は、何とも形容しがたい臭気を放っていたことを覚えている。
「昔は知らなかったけど、多分あれはパラジクロロベンゼンだったんだね。変な臭いがしたことは覚えてる」
彼も同じことを考えていた。それが嬉しくて、私は頷きながら彼の瞳を見返す。
「それで、一体どうしたの?いきなりそんな話題を持ち出すなんて」
珍しくもない彼の突飛な発言だが、理由がなかったことは一度もない。いつでも、彼は何かの意図を持って言葉を紡いでいる。きっと今回もそのはずだ。彼は、意味のない言葉を重ねて混乱させるような愚か者ではないから。
彼はそして語る。ありえない、許さない、止まらない、この気持ちを代弁する方法を。残酷で、無慈悲で、他人にはおそらく狂っているように映るのだろう所行。それしか解決する手段がないのだとしても、モラルや常識という二番煎じの決まり文句で抑えつける。わかっているから、私たちにはこれしか選択肢が存在しない。憎いもの、妬ましいもの、全てを根源から消し去る方向しか。
「普通の用途で使うなら、人には無害なんだって。それはそうだよね。日常的に使うものなのに、影響があるなら危なくて使えない」
ルールはそこに無い。脆く朽ち果ててゆくしかない肉体、そんな枷を抱えた私たち。どうそれを扱おうと、どうでもいいではないか。そう思わないのなら、その人は私たちとは相容れない生き物なのだろう。“あちら側”の人間なのだろう。
「だけど流石に、体内へ直接入れてしまったら――」
そこで彼は、例の冷ややかな微笑を浮かべてみせた。それだけで、私は彼の言葉の続きが手に取るように理解できてしまう。彼と繋がっているようで、彼を支配しているようで、掌握されているようで、これ以上の幸せはそうそう思いつかない。
所詮はなにも生み出さないと認識できているなら、問題はない。私たちが望むのは、ただ心の平穏だけだから。
「少し、減らしてあげようと思うんだ。だから、今日は別々に帰ろう」
私はなにも言わずに、それをただ見てるだけ。ううん、実際に見るわけではない。彼は私を遠ざけようとしている。気遣ってくれている。そんなことは言われずとも重々感じていること。それに甘えて、帰ったっていい。それでもいい。だけど。
「一人なんて嫌。貴方がいなくては駄目なのよ。同じ事をして、同じものを見て、同じものを背負うの。貴方だけが背負うなんて、ずるい」
彼は少し目を見開いた後、ゆっくりとそれを細めた。相好を崩したというより、改めて納得したようなそんな感じで頬を緩める。
「そうだね。ごめん。なにもかも失うだけで、得るものは何もないんだろう。でも、キミとならその空っぽの隙間すら愛おしく感じられるから。一緒に、帰ろう」
そう、その言葉が欲しかった。私が彼を特別に思うように、彼にも私を視てほしかったのだ。信頼なんて生温いものではなく、束縛して自由を奪いがんじがらめにする、狂おしいまでの愛情。その場所が心地よく思えるから、抜け出せない。そして、それが悪いことだとは全く思わない。
誰にも理解されない、されたくない、二人だけの世界。他の人間がいる世界とを繋ぐ扉の鍵は、もうすぐ錆び付いて使い物にならなくなるだろう。その時が、今から泣きたいくらいに待ち遠しい。
私の顔色を見て、彼が髪を撫でてくれる。どうしてこの世界は彼と二人だけじゃないのかと、日に何度も突き詰める疑問を胸に収めて目を閉じた。目蓋の裏は夜よりも濃い黒一色で、彼の手の平だけを堪能できる様は、まるで私の願いが具現したかのようだった。
(続く)
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