寒い冬まであと少し。フレップの実る月の空は、どこまでも澄んで、明るい。
そんな空に似つかわしい、伸びやかに透明な声が響き渡っていた。
「リン? リーンーっ!? どこにいるの? 聞こえたら返事しなさぁーいっ!」
声は少女のものである。
口と喉をいっぱいに開いて、リン、という名を呼んでいるのは浅葱の髪を二つに結って結んだ少女だ。
「りぃーぃぃぃぃぃんっ?!」
これが最後と呼んだあと、貝殻みたいな耳に白い手を当てて、じっ、とあたりの気配に集中してみる。
さらさらと流れる風は、この地に―――森に住まうと言われる精霊たちの気配を伝えてはくれる。しかし彼らは探す相手のことまで教えてくれる気はないようだ。
長い髪を揺らした少女は、ぷん、とふくれて腕を組む。
「まったくもう…… お祭りの準備もあるっていうのに、リンもレンも。どこまでいっちゃったのかしら」
そんな仕草を笑ったかのように、また風が吹いた。
森の中。すん、と少女は鼻を鳴らした。風はなにかを伝えようとしてくれているらしいが、あいにくと、まだ彼女にそこまでの唄詠みの力はない。
兄さんだったらわかるのかしら、一緒に来てもらったらよかったかな、と考えて、いやいやと少女は頭を横に振った。
「駄目だめ、兄さんったらリンたちにはてんで甘いんだものっ。一度メイコ姉さんに言って……」
がさ、と茂みをかき分ける音がしたのはそのときだ。
その音の響きもタイミングも、あまりにも自然だったので―――
何心もなく、少女は振り返る。振り返った視野の端を、きらめく金色がよぎったのも悪かった。それは探す相手の髪の色と似た色だったから。
「リぃぃぃぃぃン? ずいぶん探したのよ、いったいどこまで……」
言いかけた言葉が、凍りついた。
なんとなれば。
「いや、俺はリンという名前ではないんだが…… すまん。人違いだと思うぜ?」
へこり、と頭を下げたのは、少女の「知らないヒト」であったのだ。
彼女の住まう村にはいない、褐色の肌の大柄な男。かけた鋭角的なフレームのサングラスのせいで、表情はよくわからない……いや、口元には笑みの影が見え隠れし、声は明るく、気さくといっていいほどだったのだが。
「―――……! ! !」
自分は今、「知らない人」と対面している。しかも間違えて声をかけてしまったらしい。
それを認識したと同時に。
かあああああ、と少女の白い面輪に血の色が昇った。
「あ、いやいや気にしなくたっていいんだぜ、お嬢さん。」
HAHAHA、とオーバーアクションに両手を広げて男は笑う。
「むしろキミみたいな可愛い女の子だったら、知り合いに間違えられるのはラッキーってもんだ。ついでにお知り合いにならないか? ダメ?」
「…… ………… ―――、」
少女はふるふる、無言で首を横に振る。浅葱の瞳に涙を浮かべて、ぱくぱくと口を開いて閉じる。
「Oh、失礼。こっちの国の女性ってな、なんだっけ……ツツマシサってのを美徳としているんだったか」
アプローチの方向を間違えたかね、と、男は言いつつ、
「悪いわるい、冗談だよ。見た目これだが、別に俺は怪しいものじゃないんだぜ? すまん、悪かった」
ぶんぶんぶんっ。
二つに結った浅葱の髪が、びったんびったん打ち付けられる勢いで、涙目少女は頭を横に振るばかりだ。
あからさまに様子がおかしい。
ふむ、と男は腕を組み。
「あー、その」
さく、と重そうなブーツで地面を踏んで、一歩少女に近づいた。びくん、と彼女が体をはねさせるのを、何もしないよ、と両手をあげて害意のないことをアピールしつつ。
長身を二つに折り曲げるようにして少女と視線の高さをあわせると、真面目な口調でこう言ったのだった。
「『ゴメンナサイ、アナタノセイジャナインデス。タダ、ワタシ、コエガ……』」
「―――…… !」
「お。当たったな」
に、と得意そうに浮かべた笑いは、その男をずいぶんと人なつっこい―――とっつきやすげな雰囲気へと変えた。
「お兄さん、いろいろ特技があってね? 読唇術とまではいかないが、可愛い女の子の言うことだったら、なんとなく読み取れるんだよ。ただし、顔を見ていないとダメなんだが」
だから少女もようやく落ち着いて、深呼吸をひとつ、することができたのだ。
「あ……う、ぅ」
息をすれば、喉も開く。ゆっくりだったら、話せるようになる。まだ顔が真っ赤だけれど。頬が死ぬほど熱いのがわかる。
「ごっ、ごめ……なさ、わたし、わ、……」
自分で自分の言葉のつたなさに、焦れた少女はそこらへんから枝を一本折り取った。
枝を使ってがりがりと、男の足元、腐葉土の地面に文字を書く。
『読めますか?』
ちら、と上目づかいに男を見ると、偏光ガラスのレンズの影で、確かにその瞳は―――色違いの瞳は―――微笑んでいた。
「ああ、読めるぜ」
声も優しい。耳に心地よい。唄紡ぎの直感が少女に告げる。このヒトはわるいひとではない。
だって、こんなに優しい声を持っている人なんだもの。
だから安心して、彼女はがりがりと続けて文字を綴った。
『ほんとにごめんなさい。私、きんちょーするとこえ出なくなるんです』
「ほぅ?」
『小さいときにまものにさらわれかけて、そのときのことおもい出してしまって…… だから、』
あのときの、魔物は人の皮をかぶって自分を連れ出そうとした。
だから、今でも知らない人は苦手。意志を裏切って体がすくむ。
だから、唄紡ぎであるにも関わらず、外へと出かけていくことができない。
だから……。
「だから?」
滑らかなテノールに先を促され、少女ははっと我に返って、文字の先を綴った。
『だから、知らない人とかにがて、で、』
ゴメンナサイ、と下げられた頭の上を、快活な笑い声が通っていった。
「そういうことか、了解したよ、お嬢さん。いやー、嫌われたかと思って、お兄さんちょっとばかり傷つきかけちゃったぜ」
「……! !! ……!!!」
ごめんなさいごめんなさいと、こめつきばったよりもぺこぺこ頭を下げ続ける少女の様子がおかしいと、またひとしきり男は笑い声を響かせて。
「嗚呼、しかし、そういうことだったら、ヨソモンの俺がいるのは悪いかな」
がしがしと、長めの金髪をかき回し、
「この近くに村があるはずなんだが、そこまでの道を教えてくれないかな、お嬢さん。」
「?」
むら?、と、顔を上げた少女の唇が動く。その瞳にはもう、涙は影もない。
「そう、村。方向だけでいいぜ、こう見えても森歩きは慣れているんでね、大体のところは―――、」
男の上着がぐい、とひっぱられた。
「へ?」
とんきょうな声をあげたのは、今度は男の方だ。
少女は男の上着をひっぱって、にっこりと笑った。こっち、と声を出さずに唇が動く。
「連れてってくれんの?」
うんうん、と頭が頷いて肯定の印。
「それなら助かるが…… キミはさっき、」
ふるふる、と今度は頭が横に動かされた。
あなた、わるいひとじゃないでしょう?
「……それは、まあ」
むしろここで悪い人です、と言える奴がいたらお目にかかりたい。
男のそんな葛藤など気づく様子もなく、駄目押しの一言。
「わたしにまちがえられるんだったら、ラッキーじゃなかったんですか?」
くすくす。
やられたね、と男は万歳のジェスチャーでもって白旗をあげた。
「それじゃ遠慮なくご案内願おうか。俺はLEONと言うんだが、噂に名高いウタツムギたちの祭りを見てみたいと思ってね……」
そんなことを話しつつ、けれど男の胸の中には、じわじわと苦い思いが広がっていくのだ。
(本当に、なにも知らないんだな)
自分の服装。この陽気にも関わらず、喉を隠す不自然ないでたち。いや、なにより少女がまとうものとは質感ともに違いすぎる、ステルス迷彩の――― 軍服。
気がつかないわけはないのに。知っていればのはなし、だが。
(だが、無知とはいうのは弱さでもある。)
このウタツムギの少女はなにも知らない。いや、知らされていないのか。教えておけよ……。
(なあ、MEIKO。)
と、男はこの場にはいない娘――― 紅蓮の唄紡ぎに向かって語りかける。
弟妹を守りたいって気持ちはよく判るし、尊敬もするが、無知は弱さに直結するんだぜ。
なによりも、守るための腕は二本しかない。歌は一度にひとつしか歌えない。
「一人では、いずれ守りきれなくなると、どーしてわからんのかねぇ」
これだから女ってやつは。
振り仰いだ、空はどこまでも高く、青く。
その色に、男はとある青年のことを思い出す。
自分がここまでやってきた、その理由であり目的である青年だ。
やれやれと息をつき、そして男は視線を前を歩く少女の背中に戻した。
楽しげに歩いている。二つに分けて結った長い髪も、楽しげにリズムをとって揺れている。
守りたいと思うのは判る。
けれど。
「なんで判らねぇのかね」
苦い呟きは、手術跡の残る喉のあたりで押し込められてしまったから、少女の耳には届かなかった。
20081130. 1st up.
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