放課後、俺は初音さんと一緒に初音さんのところの車に乗せてもらって、リンの入院している病院へと向かった。車だとさすがに早く、割とすぐ病院に着いた。
初音さんはさっさと病院の中に入っていくと、受付の人と話し始めた。しばらくすると、こっちに戻って来る。
「リンちゃん、311号室だって」
エレベーターで、三階に向かう。311号室のドアの脇の壁に、リンの名前が書かれた札が掛かっていた。他に名札がないところを見ると、個室らしい。
初音さんがドアを叩く。中からリンの「誰?」という声がした。
「ミクよ」
初音さんはそう答えると、ドアを開けて中に入った。俺も後に続いて中に入る。そこそこの広さの部屋の中にベッドがあって、その上にリンが寝ていた。頭だけしか出ていないので、怪我の度合いはわからない。
「リン! 大丈夫なのか!?」
俺は思わず、ベッドの傍らに駆け寄った。リンがびっくりした表情で、こっちを見る。
「……レン君!?」
「リン、怪我の具合は? そんなにひどいのか? 階段から落ちたって、どういうことなんだ?」
矢継ぎ早に問いかけると、リンは混乱した表情で視線をさまよわせた。
「あ……あ……あの、ミクちゃん……なんでレン君が……」
「お見舞いに誘ったの」
初音さんはベッドに近づくと、リンを見てにっこりと笑った。
「鏡音君も一緒の方が、賑やかでいいでしょ?」
お見舞いに賑やかかよ、と普段なら突っ込むところだが、今はリンの怪我の方が気がかりで、突っ込む気になれない。
「で、でもミクちゃん。レン君がわたしのお見舞いに来たって、お父さんやお母さんに知れたら……」
リンは怯えた表情で答えた。つくづく、リンの家は異常だ。
「リンちゃんのお母さん、今日はもう帰ったんでしょ? お父さんはどうせお見舞いになんて来ないでしょうし。だから大丈夫」
……後半部分、トゲを感じるな。初音さんはリンのお父さんを嫌ってるようだ。……無理ないか。
「でもここ、病院だし……人目も多いわ」
「平気平気。病院の受付名簿には、鏡音君じゃなくてクオの名前書いておいたから。誰かに訊かれたら、お見舞いに来たのはクオってことにしておけばいいのよ」
さっき俺にしたのと同じ話を、初音さんは始めた。リンはまだ納得できずにいるらしく、口を挟んでいる。
「ミクオ君がわたしのお見舞いに来るのって、不自然じゃない?」
「わたしがつきあわせたんだって言っといて。クオにも後で口裏あわせるように言っておくから」
えーと……初音さん、よくそこまで気が回るな。なんだかちょっと怖くなってきたぞ。
「リンちゃん、これお見舞いの品ね」
初音さんは話を打ち切るかのように、途中の花屋で買ってきた花束をリンの前に差し出した。
「あ……ありがとう、ミクちゃん。綺麗なお花ね」
気おされたようにリンがそう答える。初音さんは部屋を見回して、棚の上にあった花瓶を手に取った。
「ついでだからこれ、活けてくるわ」
「え……ミクちゃん……」
「リンちゃんは怪我人なんだから、動いちゃだめよ」
「怪我っていっても、大したことないの。頭を打ったから様子見で入院してるだけで……」
リンは頭を打ったのか……大したことあるだろ! 打ち所が悪かったらどんなことになってたか……考えただけで寒気がする。
「頭を打ったなんて大事じゃない! お医者さんに安静って言われてるんでしょ?」
「それは……そうだけど……」
「はい、リンちゃんは大人しく寝ててね。わたし、お花を活けてくるから」
初音さんは花瓶と花束を抱えて、部屋を出て行った。俺とリンが残される。
「リン、階段から落ちたって聞いたけど、何があったんだ?」
俺はリンに訊いてみた。リンが困った表情になり、視線をさまよわせる。
「えーと……あの……憶えてないの……」
嘘だ。何故か反射的にそう思った。
「リン、それ本当?」
俺はリンの顔を覗きこんだ。リンが困った表情のまま、瞳を伏せる。……こりゃ嘘だな。リンは何があったのか憶えている。憶えているけど、言いたくないんだ。
「誰にも言わないし、リンを責めたりもしない。だから、本当のことを話してくれないか」
リンはしばらくためらっていたが、やがて、重い口を開いた。
「昨日……ルカ姉さんと言い争いになってしまって……どうしてだかわからないけど、ルカ姉さん、わたしを押したの」
俺は一瞬、言われたことが信じられなかった。それってつまり、リンのお姉さんが、リンを階段から突き落としたってことか?
「一体なんでまた……」
確か一番上のお姉さんって、間違ったことはしない人だったはずだよな。それなのに、リンを突き落とした? でも、リンの表情を見る限り、嘘はついてないようだ。……あ、そうか。そういうお姉さんだから、リンは話せなかったのか。お姉さんに突き落とされたなんて言っても、誰もリンを信じてくれないだろう。
「わからないの。ルカ姉さん、わたしのしたことに怒ってたけど、だからって押されるなんて思ってもみなかった」
リンは淋しそうな口調で答えた。相当ショックだったらしい。嫌われているとはいえ、血の繋がった姉に階段から突き落とされたわけか。……うーん。
「したって何を?」
「一昨日、神威さん――ルカ姉さんの婚約者の人よ――のご家族と、わたしの家族との食事会だったの。それでその時、わたし、神威さんに言ったの。『ルカ姉さんを幸せにしてあげてください』って。よくわからないんだけど、ルカ姉さん、それが嫌だったみたい」
それ、怒るようなことか? 仮に俺の姉貴につきあっている相手がいたとして、その相手に俺が「姉貴を幸せにしてくれ」って言ったって、姉貴は怒ったりしないだろう。「レンがそんなこと言うなんて……明日は雨でも降るのかしらね?」てなことを言ってくる可能性はあるが、怒って俺につかみかかったりはしない。
いや待てよ。リンとルカさんの関係は、俺と姉貴のそれとは全然違う。だから姉貴と比較しても意味がないぞ。
けど……一般常識という点から考えても、それ、怒るようなことじゃないよなあ。
「『神威さんに余計なこと言わないで』って、そう、言われちゃったの……。わたし、それで、わたしが関わること自体が嫌なのかなって思って、もう何も言わないって言ったんだけど……」
「お姉さん、リンを突き落としたんだ」
リンは頷いた。正直なところ、俺にはリンのお姉さんの心理がさっぱりわからん。お姉さん本人に会ってみたらちょっと違うのかもしれないが……とてもじゃないが、会ってみたいという気にはなれない。それ以前に、向こうの方から俺と話すのなんかお断りだろうが。
「で、お姉さん、その後は?」
「お母さんは、今朝は普通にご飯食べて会社に行ったって言ってたけど……」
……へ? 何だそれ。妹を階段から突き落として病院送りにしておいて、平然としているのか?
前も思ったけど、リンのお姉さんは異常だ。それもとんでもなく高いレベルの異常だ。
「……リン。前にも言ったけど、もうお姉さんと関わっちゃ駄目だ」
リンがびっくりした瞳でこっちを見る。俺は構わず、言葉を続けた。
「そのお姉さん、きっとリンがどうなろうと構わないって思ってる。そんな人にうかつに近寄っちゃ駄目だ。それにもう……多分、誰にもどうにもできないレベルだ。だからリンは、関わっちゃ駄目だ」
今回は頭を打つ程度――これでも充分問題だ――で済んだが、次もそれで終わるなんて保証はない。もしかしたら、リンは死んでしまうかもしれないんだ。
そう思った瞬間、全身を寒さが走り抜けた。リンに何かあったら……。
「えーと……でも……」
「もっと自分を大事にしてくれよ! 死んだらどうするんだ! 今回だって、打ち所が悪かったら死んでたかもしれないんだぞ!」
思わず怒鳴ってしまった。俺を置いて飛んで行ってしまってもいいとは思ったが、それはあくまでこの世での話だ。あの世に飛んで行かせるわけにはいかない。
リンは怯えた表情になって、身体をすくませた。
「大声……やめて……」
蚊の鳴くような声で、リンが呟く。あ……リンは大声を出されるのが苦手だったっけ。
「……ごめん」
俺はリンの手を静かに握った。どこか痛めてる可能性があるから、力を入れすぎないようにしないと……。
「ただ俺は、リンにこれ以上怪我をしてほしくないんだ。お姉さんに下手に関わったら、リンはまた怪我をするかもしれない」
リンは俺の目の前で、悲しそうな表情をしている。だから、そんな顔してほしくないんだよ。リンにはいつも元気で、笑っていてほしい。だって、リンは……。
「……わかった。同じ家に住んでいるから完全に避けるのは無理だけど、ルカ姉さんとはできるだけ、距離を置くから」
リンは少し淋しそうな表情で、そう答えてくれた。良かった……安心感で力が抜ける。リンも言うとおり同じ家に住んでいるから、完全に大丈夫とは言いがたいが、距離を置けば危険は小さくなるはずだ。
「ただいま~っ!」
あ、初音さんだ。手に花を活けた花瓶を持っている。……花を活けるだけにしては、いやに遅かったような気がするんだが。まあいいか。初音さんが来たので、俺はリンの手を離してベッド脇から少し離れた。
「リンちゃん、お花、ここに置くわね」
初音さんは、花瓶をベッド脇のチェストの上に置いた。なんか明るいな。リンの怪我が思いの他軽くてほっとしてるんだろうか。
「ミクちゃん、そのチェストの下の開きに、お母さんが焼いたクッキーが入ってるの。良かったら……」
初音さんはしまいまで聞かないうちに、開きを開けてクッキーを取り出した。……素早い。
「美味しそう。じゃ、お茶淹れるわね」
一緒に入っていたお茶道具を取り出して、お茶を淹れ始める。俺は初音さんが取り出したクッキーに視線を向けた。リン、お母さんの手作りだって言ったよな。……やっぱり、妙な感じがする。なんていうか……なんかこう……。
この後は三人で話をしながら、クッキーを食べて紅茶を飲んだ。初音さんは終始明るく、リンも段々表情が和らいでいった。安心すると同時に、俺は苛立ちを感じた。
……お姉さんのことなんて、もう放っておけばいいんだと思う。
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