翌日の朝一番、時之助が寺へやって来た。何やら興奮気味である。
「陽春さま!國八の正体が知れたかもしれやせん!」
「ほう、何故だ」
「昨夜、俺ァなんとお庭番に釘を刺されたんですよ!國八のことを嗅ぎ回るなと!陽春さま、國八ってなァ、もしや公方様の…!」
「末娘だそうな」
「…へ?」
僧衣の両袖にそれぞれ反対の手を突っ込み、陽春はさらりと言った。
「何ですって?」
「時之助、兄上のお部屋へ参ろう」
「ちょっ…ちょいと陽春さま!?」
「では、その國八という花魁は、私とお前の義理の妹であったと申すのか…」
「ってェこたァ、俺の従姉妹でもある、と…」
陽雪の部屋にて、陽春は昨晩聞いたことを二人に話していた。
「どうもそのようです」
信じられぬといった面持ちで湯呑みを握る陽雪に対し、時之助はぺちりと額を打っている。
「それじゃ、國八を揚げた男がいない理由は、俺の判じで合ってたってことじゃねえですかい!」
「残念ながらな…」
「陽春さま、どうなさるおつもりで?身請けの話は…」
「身請けはともかく、これ以上殺させぬためにも國八を吉原から出してやらねばとは思うが…」
ここで陽雪が口を挟む。
「出すも何も、奉行所に突き出せば済む話ではないか」
「陽雪さま、そいつァ無理でしょうや。妾腹とは言え、お姫さんです。またお庭番やらの公方様の手下が動いて、無かったことにしようとするのは目に見えてるってもんで。それに…」
時之助に横目で見られ、陽春は肩を竦めた。
陽雪は首を傾げる。
「何だ?」
「そんなことをすれば、陽春さまの廓通いが確実に露見しやす」
「あ…」
後ろ暗いところがある身では、人のことを言えぬ。
当然であった。
「では、どうするのだ?」
義妹のことだ。陽雪も放ってはおけぬらしい。
陽春は考え込み、しばらくの後、顔を上げた。
「やはり私は還俗致します。兄上、準備を頼みます」
弟に見据えられ、陽雪は動揺した。危うく湯呑みを取り落としそうになる。
「準備とは…まさか、今すぐに還俗すると申すのか!?」
「はい。私は先に講堂へ行っております」
陽春はそう言って、出ていってしまう。
時之助が愉快そうにそれを見送り、陽雪を宥めた。
「陽雪さま、あれが陽春さまでさ。諦めなせえ」
「今少し待っても良いではないか…」
はあ、と溜め息を吐き、陽雪も重い腰を上げたのだった。
「陽春さま…」
國八は思わずその名を呼んだ。
二日続けて陽春が訪れたのは、初めてのことであった。
陽春は座敷に座し、戸惑ったように視線を揺らす國八を傍へ呼ぶ。
「國八、私はやはりお前を身請けしようと思う」
國八は首を振る。
紅が塗られた唇から、もうやめてくれと聞こえてきそうであった。
「わっちは…そんなことをして頂きとうはありんせん…外に出たら…」
「父上に腕の立つ者を寄越してもらえばよい。殺されはしない」
「いいえ…」
「父上ならのらりくらりとやっておられる。邪魔者を消すのはお庭番に任せておけば良いではないか」
「いいえ陽春さま!」
「國八、何を恐れているのだ!」
座敷に二人の声が響いた。
びくりと肩を戦慄かせた國八は、俯いてしまう。
「お前は、人から忌まれるのが怖いのではないか?」
國八が触れるなと言ったあの晩から、ずっと考えてきたことであった。
昨日の國八の告白を聞いて、陽春が辿り着いた答えはそれだった。
「鬼の血が流れている自分が人から疎まれはしないかと、それが怖いのであろう。父上は悪くないと言うくせに、父上のことを楯にしているのはお前ではないか。父上の役に立つ、それもあったかもしれぬ。しかしお前がここにいるのは、人目に触れずここに閉じ籠るためではないか」
國八の頬を涙が伝っていた。
震える声が言葉を紡ぐ。
「わっちは鬼でありんす…人の世で暮らせば、人と違うところが必ず分かりいす!だから、ここにいるしかないのでありんす!わっちをここから出さないでくだっし!」
吉原は、ある種の異界であった。
妖しく人を誘うそこは、異形のものには似合いだったかもしれぬ。
國八はその閉じた世界の中に、自ら埋没しようとしているのだ。僅かな足跡も残さずに。
今の國八は、まさに鬼を生み出す陰そのものであった。
「私は、お前を嫌ったりしない。この吉原を出ても、それは変わらぬ」
「たとい陽春さまはそうでも、他の者は分かりんせん…」
「國八、私の顔を見ろ」
陽春は、國八の袖を引いた。
途端、弾かれたように國八は立ち上がり、後退りをする。
「わっちに触れてはなりんせん!」
「着物に触っただけだ。國八、おいで」
元の場所を示しても、國八は緋色の小袖の襟の辺りを握り締めたまま、立ったままでいた。
「お前が私に触れるなと言うのは、私を殺したくないからであろう?私は、お前に一生触れられずとも良い。不安ならばずっと毒を纏っていても良い。ただな、お前と一緒におりたいのだ」
國八の手が、益々ぎゅうと襟を握り締める。
「だから、どうかお前を身請けさせてはくれまいか。本日既に、還俗も済ませてきた」
陽春なりの覚悟であった。
それを聞いて、國八が目を丸くする。
「還俗を…?」
「そうだ。私は本気だぞ。本気でお前を、ここから連れ出すつもりでいるのだ」
國八の暗い瞳が一層揺れた。
「國八、昨日お前は、他に生きようがないと申したな。だが、そんなことはない。私を見よ。私なぞ、徳川から要らぬと言われて僧になり、僧でありながら女を買い、女のためにその僧もやめてしまった。それでもこうして生きているではないか。鬼の血が流れているのが何の障りになろうか。お前だとて、どこででも生きてゆけるのだ」
國八が膝を折った。衣擦れの音と共に、赤の打掛が広がる。
まだ涙を流す國八は、さても美しい。
どこからどう見ても、ただの人であった。
「なあ、國八。私と共に外に出てみぬか?」
私と共に生きろと、陽春はそう言っているのであった。
誰も殺させぬ。誰にも殺させぬ。誰にも、忌ませもせぬ。
鬼であろうと人であろうと、生きてゆける。
國八が顔を上げた。涙で白粉が溶けかけている。
固く鎧っていた鬼の面が、剥がれているようにも見えた。
「陽春さま…わっちは…」
言葉に詰まる國八に、微笑んで促す。
國八は嗚咽を堪えて、遂に、焼け付いていた心をさらけ出した。
「わっちは…外で生きとうおざりんす」
それだけ聞けば十分であった。
泣き崩れる國八に近付いて、肌に触れぬよう、陽春はその体をしっかと抱き締めた。
「薄化粧の方が良いではないか」
吉原の昼日中は、夜ほど賑やかではない。
その中で、ある妓楼から一人の花魁が去ろうとしていた。
駒乃屋重右衛門抱え、國八である。
店から出てきた國八を見て、花魁を身請けした本人・陽春が感想を洩らした。
髪型も着物も遊女のそれよりは派手でなくなった國八は、はにかんだように笑って、妓楼を振り返った。
「御内所、今までお世話になりんした」
見送りは楼主の重右衛門など、國八の秘密を知る者のみ。
重右衛門は、陽春と國八に向けて慇懃に頭を下げる。
「勿体無いお言葉でございます。九三郎さま、国姫さま。国姫さまのおかげで、手前ども駒乃屋は、公方様に特別御目を掛けて頂きました。こちらこそ御礼申し上げます」
昔の名を呼ばれた陽春は少し顔をしかめるが、國八にはそれが何故だか分からない。
面を上げた重右衛門が、いつもの調子に戻って陽春に言った。
「それじゃ陽春さま、二人合わせて七百両、きちんと頂きましたよ」
「二人…?御内所、何のことでありんすか?」
陽春が、被った笠の前の方を持ち上げて、にやりと笑う。
「どうしても連れていきたい女子がもう一人おってな。國八、妬いてくれるなよ?」
「花魁!」
見送り人の中からひょこりと顔を出したのは、なつめであった。
その格好も改められており、大きな風呂敷包みを持っている。
「わっちも連れて行って下さると、陽春さまが仰ってくださんした!」
「なつめ…」
駆け寄ってきたなつめを、國八は掻き抱いた。
その手が、頭を撫で、頬を撫で、肌に触れる。
遊女は一日の内、化粧をしていない時間の方が短い。
妹のように可愛がるなつめをこうして抱き締めてやることも、満足にできていなかったに違いない。
そう、國八はもう毒を纏っていないのである。
「陽春さま…ほんにありがとうおざりんす…わっちもなつめも、幸福者でありんす」
うんうんと頷いて、陽春はなつめの荷を引き受けた。
「國八、お前はこれから吉原の外に出るが、外に出ても必ずそう言ってくれよ。私はそれが一番嬉しいのだ」
はい、と國八は確かに答えた。
これからは外の世界、人の世で生きていく。
それで良いと、そうしても大丈夫だと國八が思えるようになったのは、陽春のおかげであった。
また、陽春がこんなにも誰か一人のために必死になったのは、國八だけのことであった。
やがて二人はなつめを連れて、大門を潜り衣紋坂を登っていく。
風に揺れる見返り柳が、おいでおいでと三人を導いているかのようであった。
吉原には鬼がいた。
鬼が持つその毒の名は―…
カ ン タ レ ラ。
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