夜の摩天楼と言うものは、非常に有意義な舞台であると彼女は思っている。生ギターを片手に、駅前のいつもの場所に座り込み、傍らにはギターケースを開けておく。
 これで準備は万端だ。
 ゆったりしたパーカーのフードをすっぽりと被り、彼女はギターを片手に街角で歌い出した。かなり音域が広く、中性的な太い声から、少女が囁くような甘い声まで、自在に操れる。
 ギターケースの中に、通りがかりの中年男性が、10円玉を投げ入れて行く。
「ありがとうございまーす」と、彼女は歌を中断して答える。どんなに少額でも、礼は忘れない。
 10年前の彼女だったら、「物乞いじゃねぇんだよ!」と思って、歌うのをやめていただろう。
 16の時から歌い始め、もうこの道10年のベテランだ。傷つきやすいプライドなんて、とっくに粉塵と化している。
 あたしがこの瞬間にだけ歌って居る声に、あのおじさんは「10円」の値段を付けたんだ。そう思うことにしている。
 夜勤帰りと言う風な、少し疲れた顔のコート姿の女性が、離れた場所で、彼女のほうを見ている。しなやかな黒髪が風になびき、骨格のしっかりした細い喉元が、夜景の中で白く浮き上がって見える。
 歌を聴いているのか聴いていないのかは関係ない。立ち止まってる人は、みんな「観客」だ。
 その夜勤帰りらしい女性は、曲が続くにつれて少しずつ「彼女」に近づき、一曲が終わる頃には彼女の目の前に着ていた。
ジャンッ、とギターを鳴らして曲を締めると、黒髪の女性がパチパチと手を鳴らした。「今の曲のタイトルは?」と聞いてくる。
「クランベリー」と、彼女は答えた。「お姉さん、なんかリクエストとかある? ポップスなら大体知ってるよ」
「ソーシャルアートプロジェクトって言うユニット知ってる?」と、張りのある黒髪の女性は聞く。
「あー。知ってる知ってる。2曲だけ。『ユニゾン』と『ティーンリリック』なら」と、彼女は答えた。
「じゃぁ、両方お願いしようかな」
「OK。それじゃ、あたしの歌が良かったら、ちょっとだけ『支援』してよ」と言って、彼女はギターケースを指さし、にっこりと笑った。
 ソーシャルアートプロジェクトは、打ち込み系の賑やかな曲調と、悲壮な歌詞が有名なユニットだ。
 ギターで再現するなら、イントロは単音弾きが良いかな? 其処からリフに持って行って…そんなことを考えながら、彼女は日頃の練習の成果を披露した。
 歌が終わると、黒髪の女性は「すっごく良かった。弾き語りでしか聞けないのが残念なくらいよ?」とほめて、500円玉をギターケースにそっと入れた。
 夜風の中に、小さな雨粒が混じり始めた。「あちゃー。天気予報はずれたなー」と言いながら、彼女は帰り支度を始めた。今日は30分も歌えなかった。
「もしよかったら、何処か入らない? お茶くらい奢るわ」と、黒髪の女性は言う。
「ホント? やったー」と言って、彼女は駅ビルの中にある、自分の行きつけのカフェに女性を連れて行った。

「ペロちゃん人形」と言う、口の片端に舌をはみ出している女の子の人形が立っている店に、二人は足を運んだ。
 ひらひらのエプロンと、ロリータファッションの店員が、ロリ声で「いらっしゃいませ~」と言ってくる。
「2人」と、慣れた様子でギターを担いだ彼女は言う。ロリ声の店員は、「はい。2名様ですね。窓際のお席、どうぞ~」と、空いてる席を手で差した。
 招かれた席に向かい合って座ると、すかさず路上歌手は「ココア2つ」と頼む。
 窓の外は、宝石箱のような夜景が観える。注文した飲み物…と言うより食べ物はすぐに来た。ココアと言えばココアだが、ココアの液体の上に大量のホイップクリームが山になって居る。
「いっただっきま~す」と、明るく言い、彼女は「ココア」を食べ始めた。
「こんな夜中に、女の子一人で歌ってて、危なくない?」と、女性が言い出した。
「うーん。危ない場所に居なきゃ大丈夫。あの辺り、ちゃんと防犯カメラあるし、分かりづらいけど、駅近に交番もあるんだ。この辺りでは、治安は良いほうだよ」と、彼女は答える。
「そう。なら安心だわ」と、女性は笑顔で言う。「名前を聞いても良い? アーティスト名でも良いわよ?」
「グミって呼んでもらってる」と、彼女は答えた。「聞くのは野暮かもしれないけど、お姉さんは何て呼べば良い?」
「みゆって呼んで」と言って、彼女は身の上話を始めた。「私、今、看護士をしてるの」
 今日は夜勤の途中で体調を崩し、早めに帰宅させてもらったらしい。しかし家に帰っても眠れず、夜の町を散歩しに来たのだそうだ。
「みゆさんこそ、気を付けたほうが良いよ? 体調崩してるのに、夜歩きなんかしたら危ないよ」と、ココアの上に乗ったクリームをスプーンで口に運びながらグミは言う。
「そうね。防犯ブザーは持ってるんだけど」と言ってから、みゆは続けた。「今日、私が担当してた患者さんが、亡くなったの」

 みゆの話を聞くと、彼女の勤める病院は、陰口のように「死を待つ人の家」と呼ばれているそうだ。
 地方の病院で手の施しようのなくなった患者を受け入れ、なるべく苦しまないように「死」までの時間を身ぎれいに過ごさせる…それだけの場所だと。
 この晩に亡くなった患者さんも、「此処に来たからには、私ももうわかっています」と言って、転院して来た日に、遺書を書いた。
 そして、次の日には酸素マスクが必要な状態に悪化し、その次の日にはモルフィネを打ち、4日目である今日、薬剤で眠ったまま亡くなった。
「おかしいね。病院は、人の怪我や病を治す場所のはずなのに…。死ぬのを待つことしかできないなんて」と、みゆは自嘲した。
「仕方ないよ。だって、どんなに良い治療を受けてても、亡くなってしまう人は何処にでも居るんだもん」
 グミは、軽率に聞こえないように注意しながら、なるべく明るく言う。
「あたしの母さんも、あたしが15の時に亡くなった。治らない病気じゃないって言われてたけど、母さんは闘病中に、自分で首を切って死んじゃった。治療の苦痛に耐えきれなかったんだ」
 みゆは、それを聞いて、「ごめんなさい」と呟いた。
 グミは辛気臭くなりかけた空気をごまかすように、ハハハと笑った。
「なんで、みゆさんが謝るの? 別にみゆさんが殺したわけじゃないじゃん。悪いのは意気地なしのあたしの母さんだよ。
 でも、病院の方針だって言っても、モルフィネも打ってもらえなかったのは、ちょっと残念かな。モルフィネを使うのは、最終手段なんだってことは分かってる。
 だけどさ、死ぬ時くらい、眠ったまま身ぎれいに死んで逝きたいじゃん? そう考えると、みゆさん達の仕事は、すごく立派なものなんじゃないかな」
 自分より幼く見える女の子にそう言われ、みゆは何かがふっと軽くなった気がした。理由の分からない涙が、急にこみあげてくる。
「みゆさん。みゆさん。落ち着いて。涙が駄々洩れてる。紙ナプキン使う?」と言って、グミは照れたように笑いながら、数枚引っ張り出したナプキンを、みゆに持たせる。
「ごめんなさい。私、くたびれてるのかしら…」と言って、みゆは受け取った紙ナプキンで、目と鼻をぬぐった。
「そりゃそうだよ。家に帰って、ゆっくりお風呂に入って眠っちゃいなよ。まぁ、ココアでも食べて」
と言って、グミは、みゆの手元にあったスプーンを、みゆに握らせた。
「このココア、結構食べがいあるからさ。疲れた時は、これが一番なんだよ?」
 そう言って笑うグミを、泣き腫らした目で見たみゆは、彼女の背後に、ぼんやりとした黒い影が見えたような気がした。
しかし、何度か瞬きをすると、その影は観えなくなり、みゆは疲れのせいだろうと思って、ココアを食べ始めた。

 マンションに帰ったグミは、エレベーターの中で「ティーンリリック」の歌詞を思い出した。英語を和訳した歌詞のほうを。
「いつか僕が消えたら 君の荷物は軽くなって きっと空まで飛んでいける
 だけど僕は消えたくない 今はまだ消えたくない だってここで歌ってるから 今まだここで息をしてるから
 どうか僕を殺さないで 今はまだ殺さないで だってここで歌ってるから 今まだここで息をしてるから」
 知らず知らずに歌詞を呟き、ふとエレベーターのガラス戸に映った自分を見ると、背後に黒い闇があった。
 パッと振り返ると、エレベーター内には、ちゃんと照明が灯っている。後ろにあった姿見を見つめ、グミは「なんだか嫌な気配だな」と思いながら、自宅のある階でエレベーターを降りた。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
  • 作者の氏名を表示して下さい

天使の果実 第三話/小説

この物語はフィクションです。

実在する人物名、団体名とは関係ありません。

と言う注意書きが必要になってきた第三話。

編集を失敗したので作り直し。

改めて読んでいただけたら嬉し。

閲覧数:396

投稿日:2020/04/07 15:29:44

文字数:3,522文字

カテゴリ:小説

オススメ作品

クリップボードにコピーしました