要らぬ焦燥ばかりで、数日が経った。
その間にリンは二人の客をとり、八度レンからの手軽を読み返した。
しかし嵐の前の静けさか、日常は何一つ変わらない。
陰間茶屋から人が逃げ出しただの、客が買っただのという噂も耳に入ってこなかった。
所在の知らないレンに文など返せる筈もなければ、レンから新しく何か寄越してくることもなかった。
リンは自分の周囲で何かが変わってくる足音を確かに聞き取っていたが、それが何なのかは一つも分からないままでいた。

そして、更にその幾日か後である。
レンのことが気掛かりで、格子前での客引きにも乗り気でなかった彼女は――しかし、もしかすれば、そろそろ神威が来てくれるのではないかなどと、淡い期待を秘めつつ――ちらりと通りに視線を遣って。
「あ」
通りを歩く、目深に帽子を被る人間に目を留めた。
思わず声を上げてしまってから、周囲にじろりと見られて居た堪れずに俯く。
まさかという気持ちと、もしやという気持ち。
以前は廓に来ること自体を咎める気持ちもあったというのに、今のリンには、彼ならばいいのにという思いしかなかった。
一人で抱えるにはレンの事情は彼女にとってあまりに重く、また長かったのだ。
彼ならばいい。
俯いて畳の染みをじっと見ながら、願うように思っていた。
周囲の他の遊女たちの声も、移動の衣擦れも。通りの妓夫の客引きの声も、暫くはリンの耳に入らなかった。
――それを破ったのは、店の玄関からの知った声。

「…だから、此処はアンタみたいな……来るとこじゃ…」

どうやら番頭が、客と揉めているようである。
見た目や金銭、地位によってのそれはよくあることだ。
しかし、いつもの怒鳴るような口調とは違い、何故か困り果てているようなそれに、興味はない風を装いつつも、見世の女郎は何事かと視線を向ける。
けれども見世からは何も見えず、ただ暫く言い合うような声がした後に、見世番が現れた。
「リン、客だ。支度しな」
釈然としない顔でそう言った男に、リンは驚いて目を見開いた。
――まさか自分の客だったのか。
それと同時に、先程見たのが神威ではなかった、もしくは彼と会うより前に他の客に買われたのだということに、少し心がささくれた。
「分かりました」
しかも、相手は廓に入る前の時点で番頭と何かを言い合っていたような客である。
面倒な男でなければいいと、半ば諦めながらも立ち上がって支度に向かうと、見世番はリンの耳元で小さく忠告した。



「番頭の話では、相手の素性はよく分からない。当然ながら、あまり怒らせるような真似はするな。
 ただ、どうしても困ることがあれば、ニ階番やニ階廻に言って構わない――だそうだ」



どうやら、とんだ“上客”にあたってしまったらしい。
リンはこくりと頷いて、自らの部屋に向かうべく廊下を進んだ。
途中で、今回の客について考えてみる。
まず、馴染みでもない客が、初めて来る廓で引付部屋に行くより前に部屋持程度の遊女一人を名指しすること自体が珍しいのだ。
この理由は二つある。

一つには、客の男は基本的に、一人の遊女に対してのみ誠実でなければならないということ。
どんな客であれ、一度一人の女郎を指名すれば、それ以降は他の女郎を呼ぶことも、他の廓に通うことも許されない。
これは遊郭の間で決められた数少ない掟の一つであり、これを破ると客はまず間違いなく、廓や街から手痛い制裁を受けることになる。
――法外な罰金を科せられたり、街自体に出入り禁止になることもあるらしい。

二つに、誰を指名するのかは、引付部屋で遣手と話しながら決めるものであるということ。
客はまず遣手に酒や台の物を頼み、遊女を選んで値段の交渉をする。
遣手によっては客に上手く言って人気のない遊女を薦めたり、値をつり上げたり引き下げたりもするらしい。
裏から馴染みとなれば、客の方も相手の遊女や値段について分かっているだろうが、初会では遣手が言葉を交わさなければ成り立たない。
それをこのように早々と決めて、あまつ遣手と話をする前にリンを呼ばせているのだ。

となれば、以前リンが相手をした客の誰かなのか。それとも、他の客からリンの話を聞いたのか。
番頭に一度は登楼を止められていたのだから、以前会った客でもあるまいし、加えて身なりは良くないのかも知れない。
しかしそれでも許されたとなると、金か身分か。
どこぞの金持ちのお忍びか何かだろうかと考えても、そんな知り合いはリンにはいない――いや、かつての知り合いがいるとしても、今のリンのことを興味本位で訪ねる勇気はないだろう。あのヒトを除けば。
様々に考えながらも部屋に着き、呼ばれるまでに支度をする。
上位の遊女ならば初会で体を預けることなどないのだが、リンはまだ部屋持。
昼三程度の位になれば違うのだが、相手が何者であろうと下位の遊女などに対して矜持を張る必要は、廓にも客にもないのだ。
いつものように心を遠くへ遣りながら、自分の身の上を嘆く愚かさを嗤う。
リンは、一人の遊女としてこの廓にいるのだ。
相手がどのような客であれ。その客の堕とす金が、借金の返済の足しにさえならないとしても。客をとらなければならない。
いつもよりマシかも知れないか、と気持ちを落ち着けて部屋へ入る。

「あら、リン…変わったお客人らしいわね」

すると中にいたのは姐であるミクで、彼女はリンの姿を見ると同情するように眉を下げた。
どうやら、件の客のことは店の者に知られているらしい。
「はい、でも大丈夫です」
何と言っていいのか分からずにリンが苦笑すると、ミクも苦笑を返した。
格の低いうちに変わった客をとらされるのはよくあることで、それは自分自身の価値に依る為、仕方のないことだ。
こちらから客を選べるようになりたいものだと息を吐くと、そうねとミクも同意した。
リンから見れば、ミクも中位の女郎としてそれなりに融通が効くだろうと思っていたのだが、彼女にも客に対して思うことはあるらしい。
他愛もない話をしながら、部屋を入れ替わる他の遊女を見てると。

「リン、そろそろ行け」

何度目かに戸が開き、中郎が顔だけ出して言った。
先に客に買われたのはミクであるが、遊女として位の低いリンの方が早く客元に出されるのは仕方がない。
――高位の女郎になる程、客を待たせる時間が長いのが良しとされているらしい。
姐に会釈だけをし、リンは廊下へ出ると自分の部屋へ向かう。
いつものことではあるのだが、どれ程考えたところで、相手がどの様な趣味趣向を持つ客かは実際に会わなければ分からない。
戸の前に立つと、一瞬だけ目を閉じて遊女としての自分を作り出してから、声をかけて戸を開けた。
すっと膝を着いて失礼致しますと下げた頭を持ち上げれば、客の男と目が合う。
いや、より正確に言うならば、客の“少年”と。



「…う、そ」



「久し振り、リン」

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夜明けの夢 【第二章】 伍:予感 (がくリン)

『夢みることり(黒糖ポッキーP)』インスパイアの、がくぽ×リン小説です。
明治期・遊郭もの。

※注意:この小説は、私・モルが自サイトで更新しているもののバックアップです。
あしからず、ご了承ください。

閲覧数:280

投稿日:2010/10/27 17:09:29

文字数:2,846文字

カテゴリ:小説

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