ある休日の昼下がり、天気は曇り。
近頃は初夏の暑さが感じられるが今日は風が冷たい分、普段よりは過ごしやすい一日ではあるだろう。
私は洗い物を片し終えて濡れた手を拭き、マスターのいる部屋へと向かった。
入るとマスターはベッドの上で寝転がっており、何をするでもなく天井を見ていた。
「何を悩んでるんですか?」
そう言って、私はベッドに居るマスターの横に座った。
「…別に、何も」
マスターぽつりと呟き、体をこちらに向け視線をやる。
「嘘つかないで下さい。マスターがそうやってる時は、大抵何か悩んでるじゃないですか」
私は溜め息を吐いて、そう言った。
「別に嘘はついてないよ…」
向けていた視線を外し、マスターは言葉を続ける。
「ただ…、ちょっと考えてた」
屁理屈だなぁと思いながら、私はマスターに言葉をかけた。
「で、何を考えてたんですか?」
暫し沈黙が流れ、マスターはゆっくりと口を開いた。
「どうやったら、泣けるのかなって…」
再び沈黙が流れ、次に口を開いたのは私だった。
「悲しければ、泣けるんじゃないんですか」
こんなやり取りは、愚問で愚直だと思った。
マスターが欲しい答えはそういう事ではないと、分かっていたから。
「まあ…確かにそうなんだけど」
そう言って、マスターは深く溜め息を吐いた。
マスターはいつ頃からか、泣いた事がないらしい。
もちろん子供の時は怪我をしたり喧嘩したりして、泣いた事もあっただろう。
ただ今まで生きてきた中でドラマや映画、本やアニメを見て泣いた事は一度もないと言っていた。
そして人が亡くなった時も、一度として泣く事は出来なかったとも。
「どれだけ感動しても、どれだけ悲しくても、涙がちっとも出やしない」
ただただ、呟くようにマスターは言葉を吐き出す。
それはまるで、自分を自虐するようで。
「何だか、自分が人としてけっ…べふっ!?」
私は手元にあった枕を、マスターに思い切り投げつけて言葉を遮った。
「…テトさん、痛いよ」
「マスターが聞くに耐えない事を言うからです」
そうやって、自分を下卑するような事は言って欲しく無かったから。
暫く黙っていたマスターが、左手を私に差し出してきた。
「…なんですか?」
「手、握ってみて」
私は訳が分からなかったが、マスターが笑顔でそう言うものだから、大人しく従って出された手を握る。
その手からは温もりが私に伝わってきて、何だかとても心地よかった。
「マスターの手、温かいですね」
ほんの僅かであるが、マスターの鼓動が脈打ってるのが分かる。
ちゃんと血の通った、人の手である証拠だ。
「テトさん、知ってる?」
口を閉ざしていたマスターは、私の手を握ったまま言った。
「手の平の温度が高い人間は、心の温度が低いんだって」
マスターは微笑みながら、言葉を続ける。
「泣けないのは多分冷めてるんだろうね、心が…まあ自覚はあるけど。だけど―」
さっきとは違って、今のマスターの言葉は明るさが感じられた。
「この手で誰かを…少なくともこうやってテトさんを温められるなら、それで良いかなって思う」
そう言って満足した顔を浮かべたが、私はどこか納得出来なかった。
「…辛くないですか?泣けない事が」
泣く事で消化できるもの、泣く事でしか解消できないものもある筈だから。
マスターは少し考えるような素振りをし、また笑顔を浮かべて言った。
「泣けない分テトさんが代わりに泣いてるから、釣り合いは取れてるんじゃないかな」
それを聞いた私は、軽く溜め息を吐いて言った。
「私は代わりに泣いてる訳じゃないですよ。マスターの涙は、マスターにしか流せませんしね」
誰かが誰かの代わりなんて出来るはずがない。
自分は自分であり、それ以上でもそれ以下でもないのだから。
ましてやUTAUである私に、人間のマスターの代わりなど。
「でも、代わりは出来なくても―」
私は握っていた手を離し、その手をマスターの頬に当て語りかける。
「アナタの為に、涙を流す事は出来ますよ」
だからその分
アナタに笑っていて欲しい
「…うん、ありがとう」
そう言ってマスターは、私に微笑んだ。
(アナタの為に泣き、キミの為に笑おう)
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