梅鼠色の空の下、猩々緋の大傘が開く。
「花魁、そろそろ参りんすか」
「あァ、行こうかねえ。なつめ、文は持ったかえ?」
「確かにここにありんす」
「それじゃ、行くとしよう」
一人の遊女が、本漆の三枚歯下駄を踏み出した。
―カンタレラ―
時は寛政、徳川幕府第十一代将軍、家斉の治世。
江戸は向島、日蓮宗弘龍寺。
まだ日も昇らぬ内から、朝霧に紛れ境内の隅を動く一つの影があった。
男の名は陽春。この寺の僧である。
陽春は、寺のぐるりを囲む椿の生垣に沿うようにして、僧らが寝泊まりする僧坊を目指している。
こそこそと、まるで誰ぞに見つかるのを恐れているかのような足運びであった。
朝の勤めをするでもなく、この僧が盗人紛いの振る舞いをしているのは何故と申すと。
「早い帰りだな、九三郎」
僧坊の影から、もう一人の僧が現れた。
九三郎というのは、どうも陽春のことのようである。
「あ、兄上…兄上こそ、お、お早うございますな…」
些かひきつった向きの声音で、陽春は兄・陽雪に挨拶を述べた。
「いやいや、早いわけではないのだよ。昨夕誰ぞが寺を抜け出したおかげで、眠れなくてな」
「そのような不届者がいようとは…全く、よく言って聞かせねばなりませんな」
「うむ、そのようだ」
両手を背中に回していた陽雪が、体の後ろに隠していた木剣を取り出す。
そして、徐に振り上げたかと思うと、それを剃髪した弟の頭に、真っ直ぐに振り下ろしたのだった。
「九三郎っ!また吉原へ行っておったな!」
「兄上!ご容赦を!」
この僧・陽春が盗人紛いの振る舞いをしていたのは何故かと申すと。
俗体を離れた僧の身でありながらせっせと吉原へ通う、その復路だったからなのである。
「血が出ているよなあ?」
「左様で」
「瘤にもなっておるだろう」
「左様で」
「痛そうだとは思わぬか?」
「左様なら」
「これ俊景!待て待て!」
薬箱を持って立ち去ろうとする小坊主の背中に、陽春は慌てて声を掛けた。
「治療は済みましたが」
「私の愚痴を聞いてゆけ」
はあ、と俊景は息を吐き、廊下へ踏み出そうとしていた足を陽春の部屋の畳へと戻したのだった。
「陽春さま」
「うむ」
「住持が正しゅうございます」
「坊主でありながら、人の頭を木の棒で打つのだぞ、あの兄!」
「陽春さまは、坊主でありながら、女犯を犯しておいでです。女犯が御法度だということ、私のような若僧でも存じております。ゆえに、住持のなさったことは、正しゅうございます」
薬箱を座した膝の上に置き、俊景は子どもに言い含めるように陽春を宥めている。
陽春が今年二十四になるのに対し、面立ちに幼さの残る俊景は、今年十五になる。
これでは、どちらが年上であるのやら、分かったものではない。
しゅん、と肩を落とした陽春は、しかし、反省しているようには見えなかった。
「仕方ないだろう…時之助が、菱田屋の新造出しがあると言うから…」
新造出しとは、姉女郎が十四、五歳に達した禿を妹女郎として披露することである。新造の中には、出世して自分の座敷を持つようになる者もいた。
「時之助さんにも、住持はお困りのようで」
時之助というのは、僧である陽春が吉原で危なげなく遊べるよう、妓楼や茶屋に話をつけ、陽春の夜遊びの手引きをしている町人のことである。
世渡りがすこぶる上手く、口も上手い。更に顔も広い時之助は、江戸の大抵の盛り場で顔が利いてしまうのであった。
「何だい?俺を呼ぶ声がしたねえ」
足音が近づいてきたかと思うと、障子の向こうから月代を結った男がひょこりと覗いた。
目元が涼やかな色男は、時之助その人である。
後ろには、弘龍寺第三十二代住持であり、陽春の実兄である陽雪も姿を見せていた。
陽春は二人を部屋に招き入れながら、時之助に話しかける。
「時之助、昨日はご苦労だったな」
「いや何、陽春さまのお役に立つのが、俺のお勤めだからねえ」
「これ!二人とも、へらへら笑っておる場合ではないわ!そこに直れい!」
お調子者二人は、陽雪の鶴の一声で直ちに居住いを正した。
俊景は、部屋の出口近くにその腰を移す。
陽雪は大岡裁きでも始めるが如く中央に陣取り、咳払いなぞしている。
「よいか、九三郎」
「兄上、幼名で呼ぶのはお止め下さい」
「九三郎は九三郎ではないか」
「私はその名が気に入っておりません」
むすりと膨れる陽春に、時之助が横槍を入れる。
「二十七番目の男児だから、九を三回足して二十七、九三郎。分かりやすくて、いいじゃあありませんか」
「時之助、お前まで!」
時之助の口は止まらない。
元来、口から生まれてきたような男なのであった。
「二十六男の陽雪さままでは、お父上の名から一字頂いておられるのに、元服前に出家なすったせいで斉の字が頂けませなんだとは、いや、お労しや陽春さま。しかし、九三郎とは、天下の公方様も思いきった名付けをなさるもんで。まあ二十七男ともなりますれば、よほど御面倒であらせられたのでしょうや、ねえ」
公方とは、現将軍のことを指す呼び名である。
つまり、この陽春、そして陽雪の兄弟は、将軍・徳川家斉の落とし種なのであった。
徳川家斉、後に「最も大奥を活用した将軍」として世に名を馳せるほど、その嫡子の数には目を見張るものがある。
なんとその数、男児二十七人に女児二十八人。
当然母親が幾人もいるのであるが、将軍がかように奥の女人にかまけてばかりいたので、当時の国政はそれなりにお粗末なものであった。
ゆえに寛政の改革が行われていたのであるが、それはそれとして、将軍の嫡男とはいえ、二十六、七男ともなると、遥か上の兄たちのように世継ぎ争いに巻き込まれることもなければ、有力大名を取り込むために養子に出されることもない。
かといって城内にいつまでも居座られては邪魔なので、体よく出家させ適当な寺の一つや二つでもくれてやろう、ということになったのが、陽雪・陽春がこの寺で僧として暮らす所以である。
徳川家の宗旨は浄土宗であるが、家斉は寵姫・お美代が日蓮僧を父に持つとあって、日蓮宗への信仰も篤かったのである。
「時斉、面倒だなどと、滅多な事を言うでない」
「へえ…済みません」
陽雪は度々、時之助の事をも昔の名で呼ぶ。
この時之助とて、今でこそ町人の身分ではあるが、元は田安徳川家三代目当主・
徳川斉匡が十一男・徳川時斉として、腰に刀を帯びる者であった。
斉匡は将軍・家斉の異母弟であるから、時之助は、陽春・陽雪とは従兄弟に当たる。
時之助は元々陽春の従者であり、陽春出家の折に共に剃髪しようとしたのを陽春が留め、町人として暮らさせているのである。
「気を取り直して九三郎、女犯は御法度である」
「そのようでございますな」
陽春は全くけろりとした様子で、陽雪の説教を有り難く拝聴している。
「僧の廓通いがお上の知るところとなれば、晒し者の上流罪、いや、死罪となるかもしれんのだぞ!」
「兄上、私の心配をして下さるのは嬉しゅうございますが、上手くやっておりますから…」
「誰がお前の心配なぞするかッ!私が憂えておるのは、寺の評判が落ちはしまいかということだ!」
当時、寺の主な収入といえば、専ら富裕な檀家からの布施・寄進であった。
抱える僧が女犯で晒し者になどされれば、間違いなくその寺の株は下がり、退廃の一途を辿る羽目になるだろう。
普通であればそうだ。しかしこの弘龍寺、嫡子が二人も所属するとあって、将軍・家斉の帰依がある。
金を無心すれば、国の財政にあまり関心のない父は喜んで財を投じてくれるに違いなかった。
ところが、陽雪はそれを良しとしない。仕方なく出家したものの、一寺を預かったからには、仏の教えに従い清廉に暮らそうとしているのである。
遊び人の弟とは違い、中々見上げた人柄なのであった。
「檀家が減れば、この寺にいる者全てが日々の暮らしに困ることになるのだぞ!まだ年若い者もいる、家に戻れぬ者もいる…なのにお前ときたら!大体、お前が副寺の地位にあることとて、私は納得できん。父上がああ仰らなければ、小坊主らと共に廊下で雑巾がけの一つもさせているというのに…いや、お前一人でやってもよい。釣りが来るくらいだ。それに…」
見上げた人柄ではあるのだが、話が少し、いや、随分と長いのが玉に傷である。
正座の指先をもぞもぞ動かした陽春は、欠伸を噛み殺している時之助の向こうの俊景に視線をやった。
よくできたこの小坊主は、しゃんと背筋を伸ばして控えていたが、陽春の視線に気付くとこくりと頷いた。
「住持」
「おお、何だい俊景」
「陽春さまにはもうじき来客がございまして、そろそろお支度をなさらないと」
「おや、そうなのか。では、これまでにしよう」
俊景よくやった、と来客の予定も何もない陽春は兄に見えぬよう拳を握った。
陽雪は、陽春、時之助、そして自分以外の者には、この上なく甘いのである。
「九三郎、分かったな、もう廓遊びはせぬように」
「はい、分かりました」
陽春の形だけの返事に苦笑いをしながら、時之助が立ち上がる。
「それじゃ、俺も御暇いたしやす」
「待て時斉、お前は急がんのだろう」
呼び止めたのは陽雪である。
「私の部屋に来なさい。お前にも、言ってやりたいことがたんとあるのだよ」
「へえっ?」
優男が台無しの声を上げて仰天した時之助は、慌てて俊景に助けを求めた。
しかし、咄嗟のことで流石の俊景も言葉に困ったようで、申し訳なさそうに首を一つ傾けただけであった。
「さあさあ。茶くらいは出してやる」
迷い猫のように首根っこをむんずと掴まれ、時之助は見る間に陽雪に引きずられて行った。
「やれ、昼餉の前には帰してもらえると良いのだが…」
南無三、とこんな時ばかり仏に手を合わせてみる陽春であった。
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