琉香の生活は、自分の部屋と祈りの間の往復だけで過ぎていく。元々身寄りが無く、神殿で幼い頃から育てられていた琉香にとって、日々の暮らしはそれで十分だった。
逆に言えばそれ以外の事を知らない。
それでいいと、思っていた。
…今までは。
はたと目を覚ましたのは、祈りを捧げ終えてからどのくらい経ってからだっただろう。
身を起こし、きちんと寝台で横になっていた事に違和感を覚える。
寝台を降り、いつも通りに掛布を整えようとして……
「あ…」
思い出した。
そう、昨日は神武已が迎えに来てくれて、新しいショールをもらって、……そのまま眠ってしまったのだ。綺麗なショールは掛布の上に畳まれている。
「私ったら……」
溜息が、零れた。
そして、無事「春の歌い手」への引き継ぎが終わり、季節は春へと変わった、三の月の初旬。
琉香は、珍しくも神殿を抜け出して街に降りていた。
目的は一つ。神武已にお返しがしたかった。
あれだけもらいっぱなしでは申し訳ない。
そう思い、目立つ髪を結い上げて、上から日除け用のショールを被って買い物に出たのだった。
しかし一言「お返し」と言うのは容易いが、いざ何を贈ったら喜んでもらえるのか、琉香にはさっぱり見当がつかない。お菓子や飲み物であれば、外れは少ないだろうが面白味も有難みもない気がするし、かと言って自分がもらったようなショールなどに神武已が興味があるとも思えない。
「……どうしよう…」
「何が?」
「何を買ったらいいんだろう…」
「……誰に?」
「か…、え!? か、神武已!」
いつの間にか、琉香と肩を並べるようにして神武已が立っていた。
「まったく、神官達がお前が昼食に帰らないと青くなっていたぞ。考え事をするのは構わないが、場所と時間を忘れるのは感心しないな。…特に、ここは神殿じゃないんだ」
言った神武已の手が、琉香の隣を通り過ぎた男の腕を捻り上げた。何事かと振り返った琉香の目に映ったのは、自分の財布を持つ、男の手。
「あ…!」
「こういう事は珍しくないからな。出来れば次から、私にも声を掛けてくれ。一緒に出ればそう危険な目には遭わずに済む」
琉香の財布を取り戻し、男を人混みに向けて突き飛ばしてから、神武已はおもむろに琉香を抱き上げた。
「ちょっと、神武已!?」
いくら何でも、街なかでこれは目立ち過ぎる。そう思ったのだが、神武已は聞く耳を持たない。
適当な店のベンチに琉香を降ろすと、さっさと店内に入っていってしまった。
ぽかんとしていた琉香だったが、すぐに戻ってきた神武已の手にある物を見て、きょとんと目を円くする。
「……包帯?」
「まさか自覚がないのか? 踵を擦り剥いているだろう」
「え?」
言われて足元をのぞき込み、…初めて痛みを感じて顔を顰めた。
「普段やらない事をするからだ。暫くは痛むぞ」
慣れた手つきで琉香の靴を脱がせ、傷口を拭いて薬を塗り込む。手早く包帯を巻き、また店内へ消えていった。
足を地面について、痛みに琉香が顔を顰めたところに、またしても何かを持って神武已が戻って来る。
「ほら」
差し出されたのは、湯気を立てているホットチョコレート。と、揚げ菓子のような物。
自分用に買ったらしいボリュームのあるサンドイッチにかぶりつきながら、神武已は琉香に渡した揚げ菓子を取り上げた。
一口サイズに千切ったそれをホットチョコレートに浸し、ひょいと琉香の口に放り込む。
「っ、な……あ、おいしい…」
「どうせ食べてないんだろう。普段からそんなに食わないから、取り敢えずだ。足りなければ神殿に戻ってから誰かに声を掛けてくれ」
「……はい」
結局、神武已に迷惑を掛けてしまっている。溜息を吐いて、琉香は温和しくマグを口に運んだ。
「それで、買いたいものとやらは買えたのか?」
「……えっと、まだ」
「………まさかとは思うが、昼前中掛かって?」
「…………ごめんなさい」
真っ赤になって俯いてしまった琉香の隣に腰を下ろし、神武已はその顔を上げさせた。
「別に怒ってはいないし謝る必要もない。何が買いたいんだ?」
両頬を手で挟み込まれ、間近に顔を合わせているというのに、琉香は全く警戒を見せない。
少し考えて、逆に聞き返してきた。
「神武已は、何が欲しい?」
「なに?」
「いつも、神武已には色々もらったりしてもらったりするから、お返しがしたかったの。…でも、神武已の欲しそうな物が解らなくて」
当人に聞くのもどうかと思うんだけど、と続けた琉香に、神武已は珍しく意表を突かれた顔をした。
「……それで半日固まってたのか」
「………ごめんなさい」
「…いや、いい。ちょっと呆れただけだ」
ぽん、とショールの上から頭に手を置かれ、琉香はこれ以上のわがままを我慢する。
買い物はまた後にしろ、と告げられ、素直に神武已の差し出す腕に体を預けた。
苦もなく琉香を抱えて歩き出した神武已には見えないよう、俯いてショールで顔を隠したまま、唇を噛む。
またこうやって神武已に迷惑を掛けている。
そう思うと、情けなくて泣いてしまいそうだった。
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