8.
 その後、二人――みくと本橋――の間に会話はなかった。
 なにも言えないでいる本橋に、みくは一礼して、店から去っていった。
 テーブルには、手つかずのティラミスが残されたままだった。
 家までの帰り道、みくはとぼとぼと歩きながら思う。
 明日、自分はまた出勤できるだろうか。
 出勤しても――仕事になるだろうか。
 確信はなかった。
 しかし、おそらく本橋とこれまでのように会話を交わすことはないだろう。
 ならきっと、また辞めることになるだろうという思いを否定できなかった。
 みくにとって、誰かに過去をここまで詳細に語ったのは、初めてのことだった。
 みくの境遇をよく知る坂上の場合、ある程度事件の概要を知った上でみくに接してきた。そういう意味では、みくからは坂上に対してあまり語ったわけではない。
 今日のことを坂上に告げたらなんと言うだろう?
 そこまで言わなくてよかったのに、だろうか。
 なにも言わずに、いつものように頭を撫でてくれるのだろうか。
 わからない。
 そもそも、なぜ彼にここまで話をしてしまったのだろう、と自問する。
 自らの罪の告白。
 ……受け入れて欲しかったのだろうか。
 自分の過去を知ってなお、受け入れてくれる人なのかもしれない、と思ったから?
 受け入れてくれる人などいるわけがない。そう思うからこそ、それを覆してくれる人を求めていたのかもしれない。
 寄り添い、添い遂げられる人が現れることを願って。
 ……笑えない。
 ため息をつく。
 そんな、なにかに期待することなど、してはならないはずだった。
 みくはこれまで、ありとあらゆる期待を裏切られ続けられてきた。
 親に裏切られ。
 パートナーに裏切られ。
 行政に裏切られて。
 見ず知らずの、大勢の他者に裏切られ続けて。
 それでもまだ誰かを信じようとしてしまう自分が、滑稽に思えた。
 これからについて、みくにわかることなど、なにもない。
 これからなんて、みくに予想などつくわけがない。
 だから、してはいけない期待などしてしまうんだ、とみくは思った。
 期待したところで、それが報われることなどないというのに。
 ……今回のように。
 ……。
 ……それなのに、学ぶこともできない。
「……」
 やがて自宅にたどり着いて、無言のまま部屋に入る。
 幻聴が聞こえた。
 ゆうきの泣き声だった。
 弱く、か細い泣き声。
 頭を振って、その聞こえるわけもない声を振り払う。
 ゆうきのいない部屋は――そもそも、今住んでいるところは出所後に使い始めたところなのだから、ゆうきがいたことなどない――空気がよどんでいて、重たかった。
 まるで、部屋が水で満たされてるみたい……。
 身動きさえ重たく感じさせる、冷たい水で閉ざされた部屋。
 そこに閉じ込められているのが、自らにふさわしい姿なんだろう、などとみくは思った。
 布団を広げる気にはならなかった。
 きっと今日は寝つけない。
 ……ゆうきが。ゆうきが、まだ生きていたら。
 そんな想像がやめられなかった。
 生きていたら、もう小学生になっている。
 今年に入って何度となく考えたそんな想像。しかし、みくはそれを否定しなければならないことにようやく気づいた。
 今だからこそ自分は学校のことを知っている。しかし、あのときはまだ学校の存在さえ知らなかった。だから、ゆうきがどれほど成長したとしても、あの子を小学校に通わせようという発想すら出てこなかったはずだ。
 ……仮に小学校に通っていたとしても、指は一本多く、片足がないのだ。お金がないのだから、その年齢になっても指を切除できず、義足も用意できていなかっただろう。いじめられない保証なんかない。
 そうでなくても、孤立は避けられないだろう。
 ……仮に、ゆうきが生きていたとしても……まともな生活など望めず、不幸になることは決まっていた。
 生きていた方が、余計に苦しんだかもしれない。
 ……死んでしまった今の方が、まだマシなのかもしれない。
 そんなおそろしい考えを否定できなかった。
 息を吐く。
 こぽこぽこぽ、と口元から空気が漏れ、天井に上っていく様をみくは幻視した。
 水箱。
 そこに閉じ込められ、底で息を漏らす自分。
 天井には水面があって、上っていった空気がそこで泡になって消えていった。
 あぁ……。
 ……。
 ああ。
 いっそこのまま、なにもかも消し去ってくれればいいのに。

 そんな思いに駆られたまま、みくはただ静かに、一夜を明かした。



fin.

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
  • 作者の氏名を表示して下さい

水箱  8  ※二次創作

第八話こと、最終話


ここまで読んでくださった皆様、そして原曲のPolyphonic Branch様、ありがとうございます。
ただただ感謝しかありません。

例によっておまけがあります。
気になる方は前のバージョンをご覧ください。

ニュースやなんかで事件の報道があったとき、「本当に報道の通りの事件なんだろうか」とよく考えます。
 報道では、その真相にまで深く触れられることは少ないです。表面上の事件の概要がほとんどで。
被害者は本当に被害者なのか? 加害者は本当に加害者なのか? 報道されない事実で、事件の姿が様変わりしてしまわないか?

「Alone」や「ゴーストルール」の時も、そんな思考が反映されています。実際の事件ではタブー視される視点。
「被害者(または被害者遺族)は、本当に単なる被害者なのか」という視点。「Alone」や「ゴーストルール」のような家庭がもしあったとき、彼らもまた被害者として振る舞うことができるのではないか、という。

今回は、その逆を書くことにしました。
すなわち「加害者が、実は加害者とは言い切れない環境だったら?」という視点。
完全な他人事で、第三者の立場で「そんなこと普通しないよ」なんて言うのは簡単です。
本文でみく嬢に言ってもらった通りです。
「もし私と同じ環境だったら、私と同じようにならないと言い切れますか?」
という言葉に、集約することができたと思います。

報道番組のコメンテーターに、ニュースサイトのコメント欄に、加害者に対して過剰なまでの正義を振りかざしてこき下ろす人たちがいます。
自分がもし同じ状況に立たされたとき、本当に加害者にならずに済むのか?
振りかざしている正義は本当に正しいのか?
そこまで、いつまでもいつまでも、必要以上に責め立てなければいけないことか?

自らの行動は、必要以上に他者を傷つけていないか?

日本は再起が難しい社会だと言います。
確かに、根が変わらずに同じことをする人もいるんでしょう。けれど、罪を償って、本当に人生をやり直したいと思っている人もいるんじゃないでしょうか。

……そんなことを考えてもらえたらいいな、と思います。

閲覧数:77

投稿日:2017/12/27 12:43:05

文字数:1,893文字

カテゴリ:小説

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  • ganzan

    ganzan

    ご意見・ご感想

    ここ数日、「同居する両親に長期間監禁され衰弱死」という内容のニュースを見かけます。
    酷い話だ、と憤りを感じたのはきっと私だけではないと思います。

    もし、この両親が「みく」と同じような立場だったなら。

    遠慮なく攻撃していい対象を見つけたとき、無意識に残酷な行為を行っている場合がある、ということは自分についても思い当たります。
    自己弁護かもしれませんが、人間の本能のひとつなのでしょうか。例えば江戸時代の穢多、被差別部落、もっと身近であれば学校でのいじめなど。
    歴史的に見ても(賢しらですみません)、こうした問題を解消していくのはきっと難しいことなのだと思います。
    だけど、何があっても味方になってくれる――そんな人が身近にひとりいるだけで、救いはあるような気はします。根本的な問題は解決しないままだとしても。

    今回、序盤で壮絶な設定が予想できたため(トリックも勘ぐりましたが)、あまり入り込まずに読んだのですが、それでもまるで溺死していくような終わり方は予想以上に堪えました。
    周雷文吾さん的には蛇足だったのかも知れませんが、おまけをつけて頂いたのは救いでした。

    これからも応援しています。

    2017/12/29 00:50:06

    • 周雷文吾

      周雷文吾

      >ganzan様


      いつもメッセージをありがとうございます。
      感謝いっぱいの文吾です。

      >ここ数日、「同居する両親に長期間監禁され衰弱死」という内容のニュースを見かけます。
      ありましたね。
      これもただ両親が「加害者」、亡くなった長女を「被害者」とだけ伝えます。本当にそれだけの事件なのだろうか、みくのような過去が隠れてしまっていないだろうか、とも思います。
      ……それで罪が許されるわけではないのですけれどね。

      >無意識に残酷な行為を行っている場合がある、ということ
      自分にも沢山あるのだと思います。自分たちがどれほど恵まれているのか、という自覚のもと、他者に手をさし伸ばすことのできる人間になれればいいのですが。

      >人間の本能のひとつなのでしょうか。
      他には奴隷産業、植民地支配……民主主義すらその枠に収まるでしょうね。
      地球の生命の多くは、支配と淘汰で成り立っています。
      人類と分類できるようになったのは500万年前らしいのですが、社会を形成できるようになってからの歴史はたった数千年です。道徳的価値観が先進国に広まったのは、せいぜい百年前後に過ぎないでしょう。
      こういった問題が解消されるには、まだまだ時間が足りないのだろうと思います。

      >今回、序盤で壮絶な設定が予想できたため(トリックも勘ぐりましたが)
      人の小説を読んでいるときはあれこれ考えられるんですけどね。いざ自分で書こうと思うとなかなかミステリちっくなものが書けなくて……
      今回、少しはそういうのを意識したんですよ(苦笑)

      >蛇足だったのかも知れませんが、
      「現実にある問題の現状を書く」という視点からすると……やっぱりハッピーエンドまで書くのは違う気がしてしまって。
      おまけを書いてるんだから、そんなこと言ったところで、という話ですが(笑)

      しかし、今回の話は自分でもしんどかったです。
      次書くなら純愛ものかな、と。
      ……オリジナルものに戻るので、いつになるかは相変わらず未定ですけれど。

      つらい話で申し訳ありません(苦笑)
      それではまた!

      2017/12/31 18:53:39

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