帰宅すると、家庭教師の先生はもう来ていた。制服を脱いで私服に着替え、勉強道具を持って学習室に移動する。
学習室はそこそこの広さがある。何年か前までは、姉妹三人でここで揃って勉強していた。今は、ここで勉強するのはわたし一人だけ。ルカ姉さんはもう社会人だし、ハク姉さんは部屋から出てこない。
……だからどうというわけではないけれど。
ルカ姉さんが神威さんと結婚したら、いずれはわたしの甥か姪が産まれる。そうしたら、この部屋を使うことになるのかな。そして、その子も……。
無意識に鉛筆を噛んでしまい、家庭教師の先生に注意される。いけない、集中しなくちゃ。わたしは、目の前の英文に意識を戻した。例文は、インターネットに関するエッセイだ。ネットの公平性とオープン性について書かれている。わたしはパソコンを持っていないし――お父さんに、高校生の間は駄目だと言われている――携帯も厳しく制限されているから、ネットを自由に閲覧するというわけにはいかない。もっとも、文章はそういうことについては書かれてないんだけれど。
何をやっているんだろう。これは単なる課題なのだから、問題を解くことだけに集中していればいいのであって、文章の意味するところなんか気にしても仕方がないのに。わたしは雑念を追い払うと、目の前の問題に集中しようと努めた。
勉強が終わると、夕食の時間だ。最近は、お母さんと二人のことが多い。お父さんは仕事で忙しいし、ルカ姉さんもそう。ハク姉さんは、やっぱり部屋から出てこない。冷蔵庫に食べられるものはいつも入れてあるので、皆が寝静まっている時間帯に食事をしているみたい。それで大丈夫なのかな……?
今日は珍しく、ルカ姉さんがいて、先に食事を取っていた。背筋が真っ直ぐ伸びていて、その作法には全く乱れというものがない。……いつもこうだけど。わたしは自分の席に着いて、手をあわせ、食事を始めた。
「リン、学校はどう?」
食事をしていると、お母さんがそう訊いてきた。
「……普通」
別に何もない。強いて言うなら鏡音君と喋ったことぐらいだけれど、これを言っちゃうと後が怖いし……。
「楽しい?」
「……多分」
ミクちゃんがいるから。
「ならいいのだけれど。足は?」
「もうしばらく固定してないと駄目だって」
「無理はしないのよ」
「ええ」
体育は見学しているし、部活は英会話だから動くような部活じゃない。早く治らないかな。やっぱり何かと不自由だ。
わたしが食事をしながらあれこれ考えていると、ルカ姉さんが立ち上がった。いつの間にか、食べ終わってたみたい。
「ごちそうさま。先にお風呂入ってもいいかしら?」
「リン、それでいい?」
「お先にどうぞ、ルカ姉さん」
「では、お先に」
ルカ姉さんは一つ頷いて、すたすたと食堂を出て行ってしまった。ルカ姉さんの動きには無駄というものがない。昔から、ルカ姉さんはあんな風だった。
食事をして、お風呂に入って、自分の部屋に戻る。何か音楽でも聞こうかな……。わたしはCDが並べてある棚の前に立った。ラフマニノフとリストのCDを取り出す。どっちにしよう。……あ、そういえば。
CDが並んでいる段の下には、DVDが並べてある。ほとんどがオペラとバレエのそれだ。わたしは一度手にしたCDを脇に置いて、一枚のDVDを手に取った。プッチーニのオペラ『ラ・ボエーム』
確か、見てみたいって、言ってたわよね。貸してあげたら、喜ぶかも……。
でも……いきなり渡されたら、迷惑かな……。
えーと……。
わたしは悩んだあげく、『ラ・ボエーム』のDVDを綺麗な紙袋に入れて、通学鞄の中に入れた。
その次の日。登校したわたしは、早速頭を抱えていた。DVDを持ってきたのはいいけれど、どうやって声をかけたらいいのかがわからない。いきなり「これ、貸してあげる」じゃ、唐突よね。じゃあ、どう言ったらいいんだろう?
鏡音君はもう登校してきていて、自分の席でノートを広げて何か書いている。声をかけるのなら早くしないと、先生が来てしまう。でも、どうやって?
わたしが悩んでいると「おはようっ!」という、明るい声が飛んできた。ミクちゃんだ。
「おはよう、ミクちゃん」
ミクちゃんに相談してみようかな。……でも、こういう相談って、どういう風にすればいいの? 切り出し方がわからない。
「ねえリンちゃん、この前の現国の課題って……」
あ、先にミクちゃんの方が話し始めてしまった。こうなると、ますます切り出しにくい。結局、始業のベルが鳴るまで、わたしはまともに何か言うことができなかった。
何事もなく授業は進み、昼休みになった。お昼は大体いつもミクちゃんと一緒。だけど、今日はミクちゃんは委員会のミーティングがあるとかで、四時間目の授業が終わると、あわただしく行ってしまった。そういうわけで、今日の昼食は一人。ミクちゃんがいないと、やっぱり淋しい。
そうだわ、DVDを渡さなくちゃ。見てみると、鏡音君は教室にはいなかった。食堂で食べているのかも。わたしは立ち上がると、DVDを入れた紙袋を手に持って、教室を出た。
食堂に行ってみたけれど、食堂にもいなかった。……お昼休みは半分以上経過しているし、もう食べ終わって教室に戻っちゃったか、他の場所にいるのか……。学校は広いから、他の場所だと探すのは難しい。おとなしく教室で待っていた方が得策かもしれない。
そうは思ったのだけれど、何だかこのまま引き返すのも嫌だったので、わたしは図書室に行ってみることにした。前にあそこで見たからといって、今日もいるとは限らないのだけれど……あ。
図書室に行く途中の渡り廊下。そこを渡ろうとした時、探していた人の姿が目に入った。校庭に植えられている木の陰で、座って音楽を聞いている。……一人みたい。
わたしは鏡音君に近づいた。気配で気づいたのか、鏡音君が顔をあげて、耳からイヤフォンを外す。
「……巡音さん、俺に何か用?」
そう言われて、わたしは口ごもった。
「あ、えっと……」
向こうは、わたしをじっと見ている。
「それ、昨日と同じ曲?」
「そうだけど」
と、とにかく……用件を話さなくちゃ。わたしは紙袋を、鏡音君に差し出した。
「これ……貸そうと思って。『ラ・ボエーム』のDVDなの」
鏡音君は紙袋を受け取って、中を確認した。
「え……いいの?」
「見たいって、言ってたから」
なんで、これだけのことを言うのに、わたしはこんなに苦労しているんだろう。
「じゃ、遠慮なく貸してもらうよ。……あ、返すの、多分週明けになると思うけど、それでもいい?」
あ……良かった。喜んでくれているみたい。
「ええ……それじゃあ」
わたしはそう言って、その場を後にした。
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