「ハク姉さん……」
「どーせ、あたしは厄介者~」
今度は歌いだした。うちで日常的にお酒を飲むのはお父さんぐらいだし――お母さんとルカ姉さんは、おめでたい時にワインかカクテルをグラス一杯飲むぐらいだから――そのお父さんにしても、前後不覚になるまで飲むなんてことはまずやらない。だから人が酔っ払った時、どうしてあげたらいいのかがわからない。……鏡音君だったら知ってるのかな。お姉さんがお酒飲む、みたいなことを言っていたし。
「……そう言えば、ハク姉さん。今日、ハク姉さんの先輩って人に会ったの」
「へえ……誰?」
「鏡音メイコさん。ハク姉さんの高校の先輩だったって、言ってたわ。ハク姉さんのこと、懐かしがってた」
対処に困ったわたしは、そんな話を始めてしまった。ハク姉さんの焦点のあってない目が、こっちを見る。
「……メイコ先輩?」
「そう、メイコ先輩」
わたしの言っていること、伝わっているのかな。そう思った時だった。ハク姉さんが、不意にわたしに抱きついてきた。
「……ハ、ハク姉さん!?」
「メイコせんぱぁいっ!」
……苦しい。わたしはハク姉さんを離そうとしたけれど、向こうはすごい勢いでしがみついてくる。
「聞いてくださいよぉメイコ先輩っ!」
「わたしは、メイコ先輩じゃないってば!」
叫んだけれど、ハク姉さんには聞こえていない……というか、伝わっていないみたいだった。
「あたしはいらない子なんですよぉ」
「ちょっと、ハク姉さん……」
「でもそれもしょーがないんです。だって、あたしだけデキが悪いんですから。不公平ですよねぇ。姉も妹もデキがいいのに、あたしだけデキが悪いって。姉はともかく、妹は同じ遺伝子からできてるんですよ。神様って、どーして配慮ってものがないんですかあ」
ハク姉さんは、ものすごい勢いでぼやき始めた。
「ね、ねえ、ハク姉さん……」
「この家はデキの悪い子はいらないんですよぉ。あたしが受験に失敗した時、パパはあたしのこと、負け犬でも見るみたいな目で見ていたしぃ」
「…………」
「あたしの不幸は、こんな家に産まれたことから始まってんですよぉ。デキの良すぎるお姉ちゃんを持ったばっかりに、小さい頃から比べられてばっかり! パパも先生も、『ルカと比べて勉強ができない』『ルカと違って面倒ばかり起こす』って! 唯一の味方だったママは出て行っちゃったしぃ、妹はママの存在を忘れて継母なんかにべったり懐くしぃ」
そんなこと言われたって……わたしは実のお母さんの顔を憶えていないのだ。顔も憶えていない人を、どうやって懐かしがれというの?
「結局、あたしは中学も高校も受験に失敗して、パパからは『人生の落伍者』扱いされて、お姉ちゃんからは『私はあんたとは違うのよ』って目で見られてぇ――あの人絶対人間じゃないです、きっとどこかで作られたいい子のロボットなんです――妹は妹であたしが落ちた中学にあっさり受かるしぃ」
わたしだって……好きで受験したんじゃないのに。それに「あっさり」受かったわけじゃない。わたしの成績は確かにそれなりのレベルだけれど、それでも、ルカ姉さんと比べるとやっぱり見劣りがする。何しろルカ姉さんは、中高六年の間、ずっと学年トップだったのだ。七つ離れているとはいえ、古くからいる先生方から度々「お前のお姉さんは凄かった」と、どうしても言われてしまう。
「ハク姉さん、ぼやくのやめてよ! わたしにどうしろって言いたいの!?」
気がつくと、わたしは叫んでいた。ハク姉さんが、反射的に黙る。
「せんぱぁい……相変わらず、手厳しいですねぇ……」
ハク姉さんはまた笑い出した。さっきまでぼやいていたのに……酔っ払いって、こういうものなんだろうか?
それにしても……鏡音君のお姉さんに、ハク姉さんはこういう話をしていたのだろうか。頭が痛くなってきた。明日、鏡音君にどんな顔をして会ったらいいんだろう。
「先輩って、前からそうですよねぇ……あたしがサーブ入らないってぼやいていたら、叱咤しながらも練習つきあってくれたしぃ……」
ハク姉さんは、わたしから離れて床に座り込んだ。でもまだ、わたしのことを鏡音君のお姉さんだと思っているみたい。
「……眠い」
わたしが困り果てていると、ハク姉さんはそんなことを言い出した。
「ハク姉さん、眠いって……」
「眠い……もう寝る」
ハク姉さんは子供みたいな口調でそう言うと、のろのろと立ち上がって、ベッドに向けて歩き出した。酔っ払っていても、ベッドに向かうんだ……。そのままどさっとベッドに倒れこむと、次の瞬間には寝息を立てている。
わたしはため息をつくと、眠ってしまったハク姉さんに掛け布団をかけた。このままにしておいたら、風邪を引いてしまう。えーっと、このウィスキー、戻しておいた方がいいわよね。わたしはウィスキーの瓶を手に取ると、ハク姉さんの部屋を出た。
応接室は一階だ。瓶を抱えて階段を下りて行くと、お母さんとばったり会ってしまった。
「リン、どうしたの?」
「え、えーっと、その……」
わたしは途方にくれた。お母さんが、わたしの手にあるものを見る。
「それ……」
「…………」
何て言えばいいんだろう。そう思っていると、お母さんはわたしの手から、ウィスキーの瓶を取り上げた。
「……ハクね?」
言われて、わたしは驚いた。
「知ってたの?」
そう訊くと、お母さんは頷いた。知ってたんだ……。
「リン、このことはお父さんには言わないでちょうだい。言うとまた話がこじれるから」
わたしは頷いた。お父さんが知ったら怒るだろう。そんな修羅場はわたしだって見たくない。
「お母さん……ハク姉さん、いつから飲んでるの?」
「多分一年ぐらい前から。その頃から、応接室やキッチンのお酒が時々無くなるようになっていて……現場を押さえたのは半年ぐらい前だけど、止めるとあの子、余計荒れそうで……」
お母さんはため息をついて、ウィスキーの瓶を軽く振った。
「ずいぶん飲んだわね……これは戻しておくから、リンは自分の部屋に戻ってなさい」
「うん……わかった」
わたしは階段を上って、自分の部屋に入った。入った瞬間、疲れを感じて、ベッドの上に座り込む。
折角いい日だったのに、終わりがこれなんてあんまりだ。わたしだってお父さんに無理矢理受験させられたのに。自分の通った中学及び高校に、娘を通わせるのがお父さんの「ステータス」だったから。なんでわたしもなの、ルカ姉さんだけじゃ満足できないのって、どれだけ言いたかったことか。でも怖くて言えなかった。お父さんがわたしのぬいぐるみや絵本を捨てたのは、ハク姉さんが中学受験に失敗してから数日後だった。いつまでも子供っぽいことばかりしてるんじゃない、お前までハクと同じになるなって。あの日のことが怖くて怖くて、わたしは言われるまま大人しく勉強した。逆らったら、今度はわたしが捨てられるんじゃないかって気がして。
……涙がでてきた。わたしは自分の部屋で、ひとしきり泣いた。
そう言えば……絵本やぬいぐるみを捨てられてしまってから数ヶ月後、たまたま点けたテレビに映っていたのが、チャイコフスキーのバレエ『眠れる森の美女』だった。無くしてしまったおとぎ話の世界。わたしはうっとりとそれを見ていた。それを見たお母さんが、時々わたしを劇場へと連れて行ってくれるようになったんだ。
わたしはバレエやオペラの世界に夢中になった。『くるみ割り人形』『シンデレラ』『火の鳥』『ヘンゼルとグレーテル』『魔笛』……。お父さんは最初それも嫌がっていたけれど、ある時家に来たお客さんがわたしのことを「バレエやオペラの鑑賞とは、高尚なご趣味ですね。この年齢で芸術がわかるなんて、きっとご両親の教育がよろしいのでしょう」と褒めて以来、これに関してはさほどうるさく言わなくなった。実を言えば、芸術がどうこうなんてわたしにはわからない。ただ、無くした世界を取り戻したかっただけなのだから。
それでも、お父さんがまた何か言い出すんじゃないかという恐怖だけは、拭いさることができなかった。いつもおとぎ話に近いものだけを見ていたら、変に思われるんじゃないか。お前は結局、小さい頃と何も変わってない、そう言われるんじゃないかって。だから無理をして難しいものも見るようにしていった。そして、解説書の類を買ってもらって、知識もつけた。咄嗟に何か訊かれたら、そつのない受け答えができるようにするためだ。
そういうことをやっているうちに、わたしはこういうものを見始めた理由を忘れてしまった。そして劇場に通ったりDVDを鑑賞したりすることが、何も考えず時間を潰すための行為になってしまっていたんだ。何を見ても楽しいとか悲しいとか、そういう感情がどんどん湧いてこなくなって。ただぼんやりとしていた。
……例外は、ミクちゃんといる時だけ。ミクちゃんと一緒にいる時だけは、何かをすることが楽しかった。多分、ミクちゃんがいつも楽しそうにしていてくれたからだろう。
「ミクちゃん……」
わたしたちは、同じ幼稚園に通っていて仲良くなった。その幼稚園は、いわゆる附属の幼稚園で、そこに入っていれば大学までエスカレーター式に進むことができた。けれどお父さんは、ルカ姉さんが中学受験に成功した時から、わたしとハク姉さんにも受験させると決めてしまった。
わたしは、ミクちゃんにその話ができなかった。だけど小学校の高学年になって、ミクちゃんが「中学になってもずーっとずーっと友達だからね」と言った時、黙っていることが後ろめたくなって、受験の話を打ち明けた。ミクちゃんは驚いていたけれど、次の日、あっけらかんとこう言ってきたのだ。
「わたしも受験する。リンちゃんと一緒に中学に通いたいから」
わたしは唖然となった。ミクちゃんがこんなことを言い出すなんて、思ってもみなかったのだ。そして一緒の学校に通いたいと言ってくれたことが嬉しかった反面、こんなことに巻き込んでしまってすまないと思わずにはいられなかった。
どうやったのかは知らないけれど、ミクちゃんは自分の両親を説得して、家庭教師をつけてもらい、その日から猛勉強を始めた。そして、わたしと一緒に受験して、合格した。合格発表の日、わたしたちは抱き合って喜んだ。
ミクちゃんは、本当は受験なんてする必要はなかったんだ。ミクちゃんのお父さんは、わたしのお父さんのように勉強勉強とやかましく言わない。わたしと友達でさえなかったら、ミクちゃんは今も、最初の学校に通ってのんびり学生生活を送っていただろう。
わたしは自分の両腕をきつくつかんだ。爪が肌に食い込む。そうやって、ただずっとそこに座っていた。
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ブクマつながり
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